概要
極官は正二位・権大納言。一条朝(寛弘)の四納言の一人。
書道の家系である、世尊寺家の祖。その書は後世「権蹟」と称された。
天禄三年(972)~万寿四年十二月四日(1028年1月3日)
経歴
摂政藤原伊尹の孫、右少将義孝の長男として産まれた。母は源保光の娘。
九条流藤原氏の嫡流と言える家系であるが、祖父伊尹、父義孝を早くに亡くした。
後ろ楯の他にない行成は、青年期を不遇の中で過ごす。
長徳元年(995)に友人である源俊賢の推挙により蔵人頭に抜擢される。
以後一条天皇や東三条院藤原詮子、藤原道長の信任を得て累進を重ねた。
公務に対しても勤勉で、権大納言にいたった。
能吏としても名高いのと同時に書にも優れていた。
小野道風の様式を発展させた温雅な書風で和様書道の大成者とされ、後に三蹟の一人に数えられる。
その家系は、行成の造成した寺にちなみ、世尊寺流と称され書の主流になった。
万寿四年十二月一日に倒れて意識不明に陥り、同月四日にそのまま亡くなった。
56歳であった。藤原道長の薨去と同日である。
著作
『権記』
漢文で書かれた行成自身の日記。
正暦二年(991)~寛弘八年(1011)までが伝存し、万寿三年(1026)までの逸文が現存。
特に蔵人頭在任中の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢、宮中の情勢を把握するための第一級史料である。
『新撰年中行事』
年中の儀式などを時系列順にまとめた、行事書である。
大半は散逸したものと思われていたが近年ほぼ完全に近い状態で再発見された。
行成は蔵人頭としての職歴が長く、政務や儀式について通じていた。
そのため他の儀式・行事書には書かれていない項目も多数存在する。
人物
彼自身の日記である『権記』からでは政務の為に走り回る実務派官僚という印象が主であるが、同時に妻や子供を大切にするマイホームパパな一面も窺える。
また『大鏡』の中では真面目で堅い所もあるが、物事の機微を掴む鋭い感性と才気のある人物像を察することが出来る。
『枕草子』の中の行成
清少納言のとは恋人同士という説がある。
彼女の筆からは、他の文献史料に残された記述や印象とは違う一面を見ることができる。
非常に仕事熱心な人柄ながら、中宮定子の女房達からは「愛想が悪い」と評判が悪い。
だが意外と渋くひょうきんでお茶目な一面もあり、清少納言とは機知にとんだ緊張感のあるやり取りを交わしている。
百人一首に入選した清少納言の
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
という和歌を受け取った当人である。だが、行成はこれに対し
逢坂は 人越えやすき 関なれば 鳥鳴かぬにも あけて待つとか
と非常に無神経な和歌を返した。
敦康親王と行成
行成は一条天皇から藤原定子が生んだ敦康親王の守役を任されていたが、道長の娘である藤原彰子が後一条天皇を生むと、道長は敦成を次の次の天皇、すなわち次の皇太子にしようと目論む(次の天皇は三条天皇ということが決まっていたため)。これに対して、彰子は「皇位は兄弟順であるべき」だと考え、自分が生んだ敦成よりも先に敦康が皇位に就くべきだと主張して父と対立する。
一条天皇も敦康を皇位に継がせたいと考えて行成に相談を持ち掛ける。しかし、既に道長に篭絡されていた行成は天皇の主張を論破して敦成を次の皇太子にすることを認めさせたのである。
しかし、行成はその際に一条天皇に「光孝天皇の例もあります」としれっと語っているのである。光孝天皇は前天皇である陽成天皇の大叔父(祖父の弟)でありながら、適当な次期皇位継承者がいなくなったために急遽天皇に立てられた人物である。つまり、行成は「道長の孫が全部いなくなったら、敦康様にもチャンスはありますよ」と言っているのと同じである。しかも、当時は若くして亡くなる可能性が現在よりもはるかに高かったから、全く的外れな話でもなかった。次に行成は次の天皇になる居貞親王と掛け合って一条天皇から皇位を譲ってもらう見返りとして敦康親王に一品親王と准三宮を与えて貰った。一品親王は皇族の長老に与えられる品位(貴族における位階のようなもの)で、前述の光孝親王も即位前は一品親王であったことから皇位継承者として浮上したのである。准三宮は皇后と同格の社会的待遇を意味していた。つまり、彰子の生んだ皇子に何かがあれば、真っ先に皇位継承の候補者として名前が挙がるのは敦康親王という仕込みを仕掛けたのである。
つまり、行成の本音は「このまま敦康様が次の皇太子になっても道長が権力を使って陥れられてしまうのが目に見えている。だったら、道長に乗っかって敦成様を推す代わりに(彰子には2人息子がいるので)敦康様は次の次の次にチャンスを賭けた方が良い」というところであったと思われる。実際、道長は次の皇太子に敦成が決まって満足したものの、敦康に対してはそれ以上の嫌がらせが出来なくなってしまったのである。その後、敦康親王は若くして亡くなるものの、他の貴族たちが敦康を見捨てていく中で行成だけは最後まで守役を務めている。行成は道長と迎合しながらも、一条天皇との約束通り最後まで守役としての使命を果たしたのである。