父・鎌足が藤原姓を賜ったのは死の直前で生前には使用していないこと、鎌足の子で藤原姓を次いだのは不比等のみであったことから、彼の方こそが事実上の藤原氏の始祖と解釈することも出来る。姉の氷上(ひかみ)、妹の五百重(いおえ)は、ともに天武天皇の妃である。また、妹の一人である耳面(みみも)は大友皇子の妃になったと伝わる。
名前の「不比等」とは役職名「史(ふひと)部(書記官のような役職)」から来ていると言われ、父の鎌足は、不比等を自らの片腕にしようと考えていたため、そう名付けたとの説がある。実際に不比等の名を「史(ふひと)」と書いている文献も存在する。後に「比べて並ぶ者がいない」、要は「無双」の意味合いで字が当てられた。
概要
藤原氏の始祖、藤原鎌足の次男。天智天皇の「御落胤」という説があり、むしろかつては広くそのように信じられていた。この落胤説は非常に古くから信じられており、10世紀後半に成立したとされる「公卿補任(歴代の高官の業績を記録した書物)」には、不比等の項目に「天智天皇の皇子」とはっきり書かれている。
父の鎌足の死から3年後、日本では壬申の乱が起こった。中臣一族は、敗者である天智天皇および大友皇子に近い氏族だった。不比等本人は、乱の当時はまだ年少(10代前半)であったため乱には関わりなく、そのため処罰も受けなかったが、中臣の家は冷遇されるようになった。実際、不比等が初めて任官した役職は大舎人(おおとねり)であり、これは天皇直属ではあったが、雑事を受ける下級役人であった。
しかし、その後は右大臣であった蘇我連子の知遇を得て、その娘である蘇我娼子を妻に迎えたことから、出世の足がかりを得る。中臣の家は、外交官のような役目を負っており、父が「史」と名付けたように、不比等は大陸も含めて様々な書物の知識を叩き込まれていたと考えられている。後に大宝律令の成立や日本書紀の編纂に力を発揮し、皇族の覚えもめでたく、大いに出世をする。
藤原四兄弟と呼ばれる息子ら(藤原武智麻呂 藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂、それぞれ南家、北家、式家、京家を開く)と共に藤原氏隆盛の基礎を築き、最初の黄金時代を作り上げた。
娘たちを皇室に嫁がせ外戚として権力を振るう手法を用い、中でも娘の1人・光明子は初の皇室以外出身の皇后となった。
この手法は後に摂関政治として確立され、現代に至るまでの藤原氏繁栄のもととなった。
奈良に興福寺を創設、大宝律令や養老律令の編纂作業に携わるなど精力的に活動し、正二位右大臣に達するも、720年に病死。死後に贈正一位太政大臣が贈られた。
また「古事記」の編纂者である稗田阿礼と同一人物であるという説がある。
竹取物語に関して
竹取物語に不比等自身が直接登場するわけではないが、かぐや姫に求婚し「蓬莱の玉の枝」を要求された車持皇子のモデルが彼であるとする説がある。
かぐや姫に求婚した5人の貴公子のうちの3人(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)までは実在の人物であり、残り2人も実在の人物がモデルであると考えられる。ここで2人のうち車持皇子及び不比等の母は車持氏出身であり、「皇子」も平安当時彼が天皇の御落胤と広く信じられていたことが不比等に合致しており、これがモデル説の根拠となっている。ちなみにもう1人の求婚者である石作皇子は宣化天皇の玄孫である多治比嶋がモデルの候補としてあげられている。
東方Project
同人サークル「上海アリス幻樂団」によるゲーム「東方Project」ではしばしば歴史や文学などからモチーフがとられているが、その中で登場人物藤原妹紅、稗田阿求、豊聡耳神子が不比等と関連する。
藤原妹紅
妹紅の父は、かぐや姫本人である蓬莱山輝夜に「蓬莱の玉の枝」を渡したもののそれを偽物と言い放たれ恥をかかされた(作中での枝の真贋は不明と見られる)。そのため妹紅はこのことを恨み「蓬莱の薬」で不死の身体となって、同じく不死の輝夜と永遠に続く死闘を繰り返している。
竹取物語の項で述べたように、彼が蓬莱の玉の枝をかぐや姫に差し出した車持皇子のモデルと考えられること、そして妹紅の姓が藤原であることから原作には明記されていないものの、二次創作においてはしばしば彼女は不比等の娘とされる。
稗田阿求
稗田阿求は稗田阿礼の9回目の転生とされるが、先に述べた様に彼と不比等は同一人物とする説があるため、二次創作において時に彼女の前世は不比等であるとされることがある。
豊聡耳神子
東方神霊廟6ボスの豊聡耳神子は幻想郷で復活した仙人(聖人)であり、聖徳太子本人であるが、実在の人物である厩戸皇子が後の時代(日本書紀編纂の前後)に藤原氏の権力保持のため虚像で飾り立てられたのが「聖徳太子」とする説がある(ZUNの最近急に架空の人物にされかかっているので幻想郷に引越ししてもらった、と言う話から東方はこの説を採っていることになる)。
そしてその歴史改竄を現実において行った最有力候補は不比等であるため、これが正しければ彼は豊聡耳神子=「幻想としての聖徳太子」の産みの親と言える。