二条良実
にじょうよしざね
嘉禄2年(1226年)に元服。寛喜元年(1229年)に数え15歳にして従三位、さらに20歳で内大臣に叙任される。祖父で当時の朝廷の実力者であった西園寺公経の推挙もあり、仁治3年(1242年)には関白にも任じられた。
だがこうした良実の昇進ぶりの裏で、良実と父・道家、そして道家と西園寺公経との間で、深刻な確執が生じてもいた。元々道家は良実にはあまり目をかけておらず、弟の一条実経を偏愛しており、九条家内部における良実の立場は微妙なものがあった。
それでも良実が前述の通り昇進を果たせたのは、祖父の公経の後ろ盾によるところが大きいものの、皮肉な事に公経が道家との協調路線を破棄し、後嵯峨天皇と西園寺家との姻戚関係の構築に踏み切れたのも、良実の存在あっての事でもあった。
この微妙な関係は、寛元2年(1244年)の公経の死去を経て、決定的な破綻を迎える事となる。翌々年の後深草天皇即位に際し、良実は父の意向により渋々関白職を弟の実経に譲らざるを得なくなったのである。
さらに同年、鎌倉にて発生した北条氏庶家・有力御家人によるクーデター未遂事件(宮騒動)に連座し、道家や実経、そして前将軍・九条頼経(良実の実弟でもあった)が政治生命を絶たれる格好となった。前述した父との微妙な関係もあってか、この事件では良実のみ処分を免れる格好となったが、これを良実が執権・北条時頼と内通した事によるものと疑った道家は、良実を義絶するにまで至った。
このように父子関係は非常に冷え切ったものであったが、道家の死後の弘長元年(1261年)には関白に再任するなど勢力を盛り返しており、文永2年(1265年)に関白職を辞した後も内覧として朝廷内での実権を握り続けた。文永7年(1270年)、病を得て出家し行空と号し、程なく55歳で薨去。