概要
高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。
第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。大勲位子爵。
後述のように財政家として知られているため、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。
経歴・生涯
安政元年、幕府御用絵師・川村庄右衛門の妾腹の子として、江戸芝露月町に生まれた。
幼名は和喜次(わきじ)、生後数日で仙台藩士・高橋豊治是忠の養子となり、愛宕下の仙台屋敷で育てられた。
慶応3年、藩の留学生として渡米、欺かれて奴隷となるなど苦難したが、明治元年12月にようやく帰国。
外交官権判事森有礼の書生となって有礼に英語を学び、明治2年に大学南校に入校、しばらくして教官三等手伝となった。
その後2年ほどは酒色にふけって官を退いたが、唐津藩の英語学校に赴任して自らも勉学に励んだ。
明治5年に上京し、大蔵省下級官吏を振り出しに、文部省にも出仕し、明治8年これを辞した後、相場に仲買店を経営するなど諸職を転々とした。
明治18年に欧米諸国を歴巡して帰国した後は、明治20年に初代特許局長となった。
明治22年に農林学校長を兼ねたが、この年にペルーの銀山開発のため渡航して失敗、翌年失意の内に帰国した。
明治25年5月、川田小一郎に認められて日本銀行に入社し、建築事務主任から支配役、馬関支店長、横浜正金銀行支配人、同副頭取を経て、明治31年3月、日銀副総裁となった。
日露戦争から戦後にかけて困難な外債募集を成功に導き、元老・重臣間の寵児となった。
明治38年に貴族院議員に勅選され、明治39年横浜正金銀行総裁、明治40年男爵となり、明治42年2月に日本銀行副総裁、明治44年に同総裁となった。
大正2年、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、同時に政友会に入党、積極財政を推進した。
大正7年に原敬内閣で再び蔵相となり、大正9年には子爵に昇った。
大正10年11月に原敬首相が暗殺されると、後継内閣の首班として内閣総理大臣兼大蔵大臣となり、同時に政友会総裁に推された。
しかし高橋内閣は成立後まもなく閣内不統一を露呈し、翌年6月総辞職。
政友会もまた大正13年の床次竹次郎等の脱党により分裂し、第二党に転落した。
官職と爵位を捨てた高橋は、第二次護憲運動の先頭に立ち、代議士に初当選。
大正13年6月に第一次加藤高明内閣が護憲三派をもって組閣する時、農商務大臣として入閣し、翌年に商工大臣、農林大臣を兼任した。
昭和2年に田中義一内閣の蔵相としてモラトリアムを施行するなど金融恐慌の収拾にあたった。
昭和6年の犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介にてそれぞれ大蔵大臣を務め、軍需インフレ政策を推進し、大恐慌の破局から日本資本主義を救って、財政の守護神的存在となったが、昭和11年の二・二六事件で皇道派青年将校に射殺された。
近代における財政家としては松方正義と並び称せられる功績を残し、これは世に高橋財政と呼ばれている。
逸話
でっぷりとした体格と丸顔で「達磨さん」と国民に親しまれた。
また財政・金融危機などで大蔵大臣に彼がなると「達磨さんが出てきたからもう大丈夫だ」と財政面での国民からの信頼も高かったという。