山県有朋直系の官僚として内務省警保局長、司法次官、第二次松方・第二次山県内閣の司法大臣、第一次桂内閣の司法・内務・農商務大臣、明治24年から39年まで貴族院議員、貴族院の会派の一つである研究会の領袖として活躍した。
明治39年に枢密顧問官。
大正3年、組閣の大命を受けたが、海軍の協力が得られず断念した。
この時清浦は「大和田(当時人気のうなぎ屋)の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」と記者にぼやき、そのことが伝わった世間では「大命降下という鰻のにおいだけかがされて、首相の地位という鰻丼にありつけなかった」清浦を嘲笑し、鰻香内閣と呼んだ。
大正11年、枢密院議長。
大正13年に組閣したが、第二次護憲運動に直面、総選挙で与党が敗北したため五か月で総辞職した。
以後政界の第一線から退いたとされている。
しかし清浦は、護憲運動以後政界の一線から退いてからも、政治活動をすべて止めたわけではなかった。
例えば外交面では、大正15年に渡中しており、その送別式は時の総理大臣若槻禮次郎が主催し、またシナでは民国、軍閥の要人、清朝の遺臣と面会し、詩の贈答なども行っている。
さらに昭和3年12月には、現役軍人配属による学校教練、青年訓練所の設置に主導的な役割にあった、日本青年協会の総裁の任に就いている。
また書道界でも、当初は国体と書道を連動させるために実務レベルの運動を推し進め、昭和7年に雑誌『書道』が発刊されるやいなや論文によって、書道を皇国史観によって整理し、一貫して皇統を重んじ、元勲の如く天皇を絶対と考え、勤皇書学を発表して名実ともに書道界を牽引していたと言っても過言ではない。
満洲事変期においては、「準元老」と目されていた清浦は、挙国一致内閣の組織と詔書によって、満洲事変後の国内外の危機を打開しようと考えていたとされる。
清浦の詔書案では、①国家財政と国民生活の安定のために五ヶ条御誓文の精神たる上下一心に立ち帰ること②軍紀の粛正③憲法の順守による挙国一致を求めていた。
軍紀の粛正と比例する皇統主義、勤皇精神の書学が、明治維新期への復古を喧伝したのであり、また清浦は独断せんとする関東軍に対して、その根本精神に立ち返るよう「精忠、烈義、天地を感動す」と書している。