慶応3年12月( 西暦1868年1月 )に王政復古を宣言した維新政府は、諸大名の結束を固める必要に迫られた。
そこで、参与( 新政府に設置された官職のひとつ )であった由利公正( 福井藩出身、政策はうまいものの批判される面がある人物、後に東京府知事、貴族院議員など )が「諸侯盟約」の草案を起草し、これをさらに参与であった福岡孝弟(土佐藩出身、革新的藩士として活躍、維新後は司法分野や教育分野に手力を振るう)が幾分封建的な公議政体を強調したものに修正した。
これに対して、公卿などから「諸侯の会盟は外国のやり方であり神武天皇御創業の古に復する」という維新政府の方針に合わないという異論が出された。
そのため、総裁局顧問であった木戸孝允は、天皇が群衆を率いて国是を神明に誓う、という方式を建議し、それを三条実美が表題を「会盟」から「誓」とした。
その結果、慶応4年3月14日(後に明治元年とされる、1868年4月6日)、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に神座を設け、公家・武家の諸臣を率いて「五箇条の御誓文」を奉じられたのである。
本文
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
二、上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
三、官武一途庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
五、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
現代語訳
1. 何事も広く公に議論して決めること。
2. 身分の上下にかかわらず、国民みんなが心をひとつにし、国を治め秩序を整えること。
3. 政治家、軍人から庶民に至るまで、ひとりひとりが志を遂げられるようにし、「こんな人生、つまらない」と思わせるような国にしてはならない。
4. 古くなり役に立たなくなった悪習は捨て、「天地の公道」に基づいて行動すること。
5. 広く世界に知識を求め、皇室を中心としたこの国の活力を盛んにし、その国柄や価値観を大いに世界に広めること。
結果
このように明快な五箇条の国是、すなわち国家の方針は、戊辰戦争という緊迫した状況の中で公表され、幕末の政治過程を通じて確立されつつあった「天皇を中心とした公議政治」の原則が結晶したものであったが、実は廃藩置県などにより中央集権確立により木戸孝允すらその存在を忘れていたが、明治5年の岩倉使節団参加中にその話題となったため思い出し、その後大日本帝国憲法など、日本の基本方針となった。
また自由民権運動においてはこれを根拠に民選議会の開催を訴えた。
その後
戦後、この文章は再び用いられることとなる。人間宣言において全文が引用されており昭和天皇が御誓文を追加するよう述べたとされ、その目的は民主主義というものは決して輸入物ではないということを示すためであったという。