概要
ハーバート・クラーク・フーバー(またはフーヴァー)は、アメリカ合衆国の政治家、第31代大統領。アメリカ国歌の「星条旗」を正式に国歌として採用する法案に署名した人物でもある。
経歴
アイオワ州のウェストブランチにおいて、クエーカー(17世紀にイングランドで設立された宗教団体『キリスト友会』)の信者である一家に生まれた。
しかし幼少時代に両親を失い、おばさんの手製のごちそうが入ったバスケットを持って2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込み、一人で列車に乗って医者であるおじの待つオレゴン州のニューバーグに転居したという。おじも両親と同じくクエーカー信者であり、彼の下で厳しくも親切にされて育ったという。そうして苦労しながらも、後に世界的な鉱脈開発の波に乗り鉱山業で大成功を収め、若くして億万長者となる。
本人の回想録によると1909年から1910年にかけての時期に日本企業の下請けをしており、朝鮮半島での鉱物資源調査の仕事をしていた。
その為、当時の米国人としてはかなりの知日家である。
第一次世界大戦が勃発した際は実業家としてロンドンにおり、当時まだアメリカは中立の立場であったが、人道主義な動機からドイツ軍の占領下にあったベルギーと北フランスで深刻な食糧不足に陥った人々を、交戦していたドイツ・イギリスの両政府を説得しアメリカ政府の協力を取り付け、アメリカが参戦するまでの4年間に渡り援助していた。
アメリカが参戦した際に当時のウィルソン大統領によって食糧機構長官となって、戦時下の食糧統制行政を一任され、その後ハーディング大統領には商務長官に任命され、彼の後を継いだクーリッジ大統領の両政権下で経済構造を大胆に改革するなど、優れた政治家として剛腕を振るっていた。
1927年にアメリカ建国以来、最大の天災と言われた、長雨によるミシシッピ川の大氾濫により50万人が住居を失った際には、彼が救援と復興の指揮を執り、150ヶ所以上の大規模なテント市を設立し、全国から巨額の義捐金を募るという超人的とまで称賛された手腕を見せている。こうした功績から全米的な人気を得たフーバーは、大統領選挙で共和党候補として出馬。見事に当選、1929年に第31代大統領に就任した。
当初は彼の手腕の高さからアメリカはさらなる未曾有の繁栄がもたらされると大いに期待され、ウォール街の証券取引所の株価が急騰、複合企業ゼネラル・エレクトリック社の株価は三倍にまで暴騰するほどだった。
しかし、就任から間もなく株価は大暴落し世界恐慌が発生。アメリカは歴史上経験したことの無い大不況に振り回され、フーバーも初動では静観する姿勢であったため後手に回り、経済は悪化の一途を辿った。1932年の大統領選挙で再選を目指すも民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルトに歴史的な大敗を喫して落選した。
なお、フーバーは大不況に対して有効的な対策が打てなかったイメージが強いが、鉄道公社の救済や失業者に賃金を無償給付するなど、様々な対策を行っていたことは付け加えておきたい。
後任のルーズベルトもニューディール政策など様々な政策を実施ししているが、最終的に大不況の波から脱することが出来た要因は、第二次世界大戦による軍需だったとする歴史家も多い。フーバーでなくとも世界恐慌を乗り切るのは容易でなかったことは想像に難くない。
1933年3月、選挙に敗れた事と国民からの不評に晒されてワシントンを離れ、妻であるルー・ヘンリー・フーバーが亡くなるまでカリフォルニア州パロアルトに住み、1944年からニューヨークの高級ホテルであるウォルドルフ=アストリア・ニューヨークに住み始めた。
大統領に再任される事を望み、1936年、1940年の共和党全国大会で大統領候補に立候補するも国民からの不評を考慮され指名されず、選ばれたアルフ・ランドン、ウェンデル・ウィルキーはそれぞれルーズベルトに大統領選挙で敗北した。そして1944年の共和党全国大会では遂に大統領再任を諦め、大統領候補に立候補しなかった。
フーバーはルーズベルトのニューディール政策を批判し、その政策の一環を「ファシスト」「社会主義への移行」と評し、1938年にヨーロッパに渡り、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーと面会しそのユダヤ人政策を遺憾に思い彼を危険視するも、対日政策で緊張を生みだしたルーズベルトの方が平和に対する脅威で、アメリカに関与しないだけヒトラーはマシとし、1939年に始まった第二次世界大戦ではイギリスに対する物資援助のレンドリース法などでアメリカが戦争に関与する事に反対し、1941年に独ソ戦が開始されるとアメリカとソ連との暗黙の同盟関係をヨーロッパと世界に更なる共産主義を押し付けるもので、自由を押し付ける為にヨシフ・スターリンと共に戦うのは悲劇と批判した。
そうした保守的でアメリカの孤立主義者的な動きをする一方で、1939年のドイツのポーランド占領に対してポーランド救済委員会設立に協力し、冬戦争ではフィンランド経済基金を設立し、1940年のドイツのベルギー占領にはベルギー民間人への援助を提供している。
ルーズベルトを批判し続けたフーバーであったが、その後任のハリー・S・トルーマン大統領とは民主党・共和党の枠を越えて親密な関係を築き、1946年にはトルーマンから占領地の食糧需要状況の視察役に任命され、ドイツ、イタリアを訪問したフーバーは占領政策を批判する報告書を出し、1947年に始まった学校給食の政策に主導的役割を果たした。
1947年にはトルーマンに行政機構再編委員会(通称フーバー委員会)の長に任命され、かってはルーズベルトの権力集中に反対してきた彼も今や強力な大統領が必要されるとして無駄、不正を配して効率化を図って政府機関統合、ホワイトハウス政策強化を目的とする委員会の運営を行った。
そんなトルーマンとの友情は1948年の大統領選挙で共和党のトーマス・デューイをフーバーが支持しても変わる事は無く、死去する6日前にバスルームで転倒して怪我をしたトルーマンへのお見舞いの手紙を出し、フーバーの国葬にはトルーマンも出席している。
1952年、大統領に就任した共和党のドワイト・D・アイゼンハワーに大統領員会に任命されるも、共和党全国大会ではロバート・A・タフトを支持していたフーバーはニューディール政策を抑えようとしないアイゼンハワーを嫌っていた。
1960年に大統領に就任した民主党のジョン・F・ケネディからは共和党員にもかかわらず様々な役職就任を打診されるも断ったが、1963年にケネディが暗殺された折には酷くショックを受けていたという。
1962年8月に大腸の腫瘍切除手術を受けたフーバーは、1964年10月20日に今度は大量の内出血を起こしニューヨークで死去。享年90歳であった。
国葬が執り行われ、遺言通りに25日に彼の故郷であるアイオワ州ウェストブランチに埋葬され、後にこれも遺言通りにカリフォルニア州パロアルトに埋葬されていた妻の遺骸も彼の墓の横に移された。
人物像
評価
大統領としていくつかの革新的な政策を行った事などは評価されるが、全体的には頑固な保守主義者で、政治的には無能な面があり、特に大恐慌の深刻さを認識できていなかった事から大統領としての人気は歴代大統領の下から1/3の状態で、大統領職としては失敗したとされる。
しかし人道主義的者、公務員としての活動は称賛されており、「現代で最も並外れたアメリカ人の一人」と伝記作家に評され、アメリカ救済局を率いてヨーロッパと革命後のロシアへの救援物資を送った活動を「政治家の多くが何百万の人命を死に追いやる事で歴史において重要な位置をしめるなか、フーバーは大統領としての政策で中傷され、すぐにロシアでも忘れられたが、何百万もの人命を救った稀有な功績を持っている」と評する歴史家もいる。
また大統領辞任後も多くの歴代大統領に役職に登用され、また登用を打診される程に評価されており、彼が批判し続けたルーズベルトも大統領となる前のフーバーを「彼の下でなら喜んで働きたい」と発言し評価していた。
共産主義に対して
革命後のソ連の飢餓状況を救う為の活動を人道主義者として行うと共に、共産主義を嫌悪するフーバーはこの行為が資本主義国家の共産主義国家への優越を示して共産主義の蔓延を防ぐものと信じていた。
国際連合設立に原則的に賛同していたフーバーだが、ソ連をはじめとする共産国の加盟には反対で、特にソ連はナチス・ドイツと同じ反道徳的国家と見なしていた。その為にアメリカ国内の共産主義者を摘発しようとする同じ共和党のリチャード・ニクソン達を支持していた。
人種差別に対して
人道主義者であるフーバーは意図的な人種差別発言を嫌悪していた。そして大統領の任期中に今までの政権よりも多くのアフリカ系アメリカ人を政府の役職に任命し、アフリカ系アメリカ人やその他の人種も教育と個人の自発性で向上できると信じ、黒人向けの学校であるタスキーギ研究所(後のタスキーギ大学)を支持し、自身をアフリカ系アメリカ人達の友で彼等の進歩の擁護者と考えていた。
だが、当時の白人の一般的な考えからは人道主義者のフーバーでも逃れられず、白人は黒人より優れ、異種間結婚は悪いものとも考えていた。そして南部での民主党優位の状況を覆す為に南部共和党のアフリカ系アメリカ人を共和党指導者から排除し、多くのアフリカ系アメリカ人が民主党に鞍替えする事となった。
失業軽減の為にアメリカへの移民削減をはかり、不法移民を訴迫したことでメキシコ人、メキシコ系アメリカ人の100万人の国外追放、強制送還となったがその60%は生得権を持つメキシコ系アメリカ人であった。
ネイティブ・アメリカンに対しては、彼等への搾取を制限する為にインディアン事務局を再編している。
歴史家として
フーバーは40代半ばで鋭い洞察力に充ちた歴史家として高い評価を受けており、学究として歴史の真実を追求することが彼のもう一つの情熱だった。
彼は第一次世界大戦後に、戦中とその前後にわたる近代史を鋭く分析した著書『メモアーズ(私の回想)』を出版しており、この著作は英語のものとしては最古の百科事典で、各分野で最も権威のあるという専門家が執筆しているブリタニカ百科事典において、「この著作は現代世界の歴史を解き明かすのに当たって、大きく貢献した」と称えられており、フーバー自身も秀逸な歴史研究家として描かれている。
第一次世界大戦後に、フーバーはそれまで自身が蒐集してきた厖大な歴史資料を母校のスタンフォード大学に寄贈し、『戦争ライブラリー』を創設し、後に『フーバー「戦争・革命・平和」ライブラリー』に改名され、第二次世界大戦後に現在も存在するシンクタンク『フーバー戦争・革命・平和研究所(通称:フーバー研究所)』となった。
日米戦争について
第二次世界大戦当時、元大統領という立場だったフーバーは、日米戦争は本来なら全く無益で不必要な戦争であり、もし日米が戦っていなければ中国の共産化も朝鮮戦争も起こらなかったとしている。
特に近衛文麿首相による「満州まで撤兵して米国の要求を全面的に飲むから、せめて日米首脳会談で米国大統領が日本の首相を説得した形にして欲しい」という頼みをルーズベルト大統領が蹴った事を厳しく糾弾している。
フーバーはアメリカが第二次大戦に参戦する前にルーズベルト政権がイギリスに武器援助を行ったことに強く反対し、後の大統領であるハリー・トルーマン副大統領に対しても、アメリカが真珠湾攻撃の報復をしようとするあまり、日本を壊滅させることがあってはならないと戒め、共産主義がアジアへと進出するのを食い止めるために、アジアの安定勢力である日本と一日も早く講和すべきだと説き、戦後も日本による朝鮮半島と台湾の領有を認めるとともに、日本の経済回復を援助するべきだと主張していた。
しかし、こうしたフーバーの主張に対し、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やヘンリー・スティムソン陸軍長官を始めとした閣僚たちは、世論に逆らう提言だとして強く反対し、ルーズベルト大統領による民主党政権が彼を敵視していたこともあり、フーバー元大統領の主張は全く無視されていた。
『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』によれば、フーバー元大統領は戦後、ダグラス・マッカーサー元帥と会い、次のように回想している。
「私が『日本との戦争のすべてが、戦争を仕掛けたいという狂人の欲望だった』と、述べたところ、マッカーサーも同意した。マッカーサーは、『一九四一年の日本に対する金融制裁が、挑発的だったばかりでなく、その制裁を解除しなければ、たとえ自殺行為であったとしても、日本と戦争せざるをえない状態にまで追い込んだ。経済制裁は殺戮と破壊は行われないものの、戦争行為に当たるものであって、どのような国であっても、誇りを重んじる国であったとすれば、耐えられることではなかった』と、述べた。もし、日本が朝鮮半島を領有し続けたとしたら、朝鮮戦争は起こらなかった。日本軍が中国大陸にかなりの期間にわたって留まったとすれば、中国が共産化することもなかったはずである。」
ここで彼が語っている“狂人”とは、フーバーの後任であったルーズベルト大統領のことである。
フーバーは日本企業の下請けとして働いていた経験も有り、当時の米国の首脳部としては日本人に理解があった。
もっとも日本の全てを受けいれているわけでは無く、日本をガラガラヘビと表現し、エゴイストで国際合意も無視して中国を侵略したと断定しているが、基本的に大日本帝国を議会制民主主義国でナチスドイツやスターリンよりは遥かに共存の余地が有る相手と見做していた。
先述の様に日本企業に委託されていた仕事は朝鮮半島の資源調査であり、日本の朝鮮半島支配に関してはインフラ整備、公衆衛生政策、教育政策、食糧事情の改善、山林保護の観点では「革命的改善」だったと明言している。