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概要

ハーバート・クラーク・フーバー(またはフーヴァー)は、アメリカ合衆国の政治家、第31代大統領。アメリカ国歌の「星条旗」を正式に国歌として採用する法案に署名した人物でもある。


経歴

アイオワ州のウェストブランチにおいて、クエーカー(17世紀にイングランドで設立された宗教団体『キリスト友会』)の信者である一家に生まれた。


しかし幼少時代に両親を失い、おばさんの手製のごちそうが入ったバスケットを持って2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込み、一人で列車に乗って医者であるおじの待つオレゴン州のニューバーグに転居したという。おじも両親と同じくクエーカー信者であり、彼の下で厳しくも親切にされて育ったという。そうして苦労しながらも、後に世界的な鉱脈開発の波に乗り鉱山業で大成功を収め、若くして億万長者となる。


第一次世界大戦が勃発した際は実業家としてロンドンにおり、当時まだアメリカは中立の立場であったが、人道主義な動機からドイツ軍の占領下にあったベルギーと北フランスで深刻な食糧不足に陥った人々を、交戦していたドイツ・イギリスの両政府を説得しアメリカ政府の協力を取り付け、アメリカが参戦するまでの4年間に渡り援助していた。


アメリカが参戦した際に当時のウィルソン大統領によって食糧機構長官となって、戦時下の食糧統制行政を一任され、その後ハーディング大統領には商務長官に任命され、彼の後を継いだクーリッジ大統領の両政権下で経済構造を大胆に改革するなど、優れた政治家として剛腕を振るっていた。


1927年にアメリカ建国以来、最大の天災と言われた、長雨によるミシシッピ川の大氾濫により50万人が住居を失った際には、彼が救援と復興の指揮を執り、150ヶ所以上の大規模なテント市を設立し、全国から巨額の義捐金を募るという超人的とまで称賛された手腕を見せている。こうした功績から全米的な人気を得たフーバーは、大統領選挙で共和党候補として出馬。見事に当選、1929年に第31代大統領に就任した。


当初は彼の手腕の高さからアメリカはさらなる未曾有の繁栄がもたらされると大いに期待され、ウォール街の証券取引所の株価が急騰、複合企業ゼネラル・エレクトリック社の株価は三倍にまで暴騰するほどだった。


しかし、就任から間もなく株価は大暴落し世界恐慌が発生。アメリカは歴史上経験したことの無い大不況に振り回され、フーバーも初動では静観する姿勢であったため後手に回り、経済は悪化の一途を辿った。1932年の大統領選挙で再選を目指すも民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルトに歴史的な大敗を喫して落選した。


なお、フーバーは大不況に対して有効的な対策が打てなかったイメージが強いが、鉄道公社の救済や失業者に賃金を無償給付するなど、様々な対策を行っていたことは付け加えておきたい。


後任のルーズベルトもニューディール政策など様々な政策を実施ししているが、最終的に大不況の波から脱することが出来た要因は、第二次世界大戦による軍需だったとする歴史家も多い。フーバーでなくとも世界恐慌を乗り切るのは容易でなかったことは想像に難くない。


人物像

歴史家として

フーバーは40代半ばで鋭い洞察力に充ちた歴史家として高い評価を受けており、学究として歴史の真実を追求することが彼のもう一つの情熱だった。

彼は第一次世界大戦後に、戦中とその前後にわたる近代史を鋭く分析した著書『メモアーズ(私の回想)』を出版しており、この著作は英語のものとしては最古の百科事典で、各分野で最も権威のあるという専門家が執筆しているブリタニカ百科事典において、「この著作は現代世界の歴史を解き明かすのに当たって、大きく貢献した」と称えられており、フーバー自身も秀逸な歴史研究家として描かれている。


第一次世界大戦後に、フーバーはそれまで自身が蒐集してきた厖大な歴史資料を母校のスタンフォード大学に寄贈し、『戦争ライブラリー』を創設し、後に『フーバー「戦争・革命・平和」ライブラリー』に改名され、第二次世界大戦後に現在も存在するシンクタンクフーバー戦争・革命・平和研究所(通称:フーバー研究所)』となった。


日米戦争について

第二次世界大戦当時、元大統領という立場だったフーバーは、日米戦争は本来なら全く無益で不必要な戦争であり、もし日米が戦っていなければ中国の共産化も朝鮮戦争も起こらなかったとしている。


フーバーはアメリカが第二次大戦に参戦する前にルーズベルト政権がイギリスに武器援助を行ったことに強く反対し、後の大統領であるハリー・トルーマン副大統領に対しても、アメリカが真珠湾攻撃の報復をしようとするあまり、日本を壊滅させることがあってはならないと戒め、共産主義がアジアへと進出するのを食い止めるために、アジアの安定勢力である日本と一日も早く講和すべきだと説き、戦後も日本による朝鮮半島と台湾の領有を認めるとともに、日本の経済回復を援助するべきだと主張していた。


しかし、こうしたフーバーの主張に対し、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やヘンリー・スティムソン陸軍長官を始めとした閣僚たちは、世論に逆らう提言だとして強く反対し、ルーズベルト大統領による民主党政権が彼を敵視していたこともあり、フーバー元大統領の主張は全く無視されていた。


裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』によれば、フーバー元大統領は戦後、ダグラス・マッカーサー元帥と会い、次のように回想している。


私が『日本との戦争のすべてが、戦争を仕掛けたいという狂人の欲望だった』と、述べたところ、マッカーサーも同意した。マッカーサーは、『一九四一年の日本に対する金融制裁が、挑発的だったばかりでなく、その制裁を解除しなければ、たとえ自殺行為であったとしても、日本と戦争せざるをえない状態にまで追い込んだ。経済制裁は殺戮と破壊は行われないものの、戦争行為に当たるものであって、どのような国であっても、誇りを重んじる国であったとすれば、耐えられることではなかった』と、述べた。もし、日本が朝鮮半島を領有し続けたとしたら、朝鮮戦争は起こらなかった。日本軍が中国大陸にかなりの期間にわたって留まったとすれば、中国が共産化することもなかったはずである。


ここで彼が語っている“狂人”とは、フーバーの後任であったルーズベルト大統領のことである。


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