レイテ沖海戦
れいておきかいせん
レイテ沖海戦とは、連合国軍(ほぼ米軍といって差し支えない)と旧日本軍により、1944年10月下旬に行われた一連の海戦の総称。 フィリピン中部にあるレイテ島周辺海域が主戦場となり、参加艦艇総数及び戦闘規模の大きさから、世界史上最大の海戦ともいわれている。
元々の日本側呼称はレイテ沖だけでなくフィリピン周辺海域で大規模に作戦が行われたので「フィリピン沖海戦」(比島沖海戦)であったが、現在では米側呼称の日本語訳であるこちらの方が使用されるのが殆どである。
なお英語での「フィリピン沖海戦」は日本でいう「マリアナ沖海戦」なので、それと区別するために英訳に合わせるようになったとも考えられるが、同じように日本側と米側で海戦が異なる「サボ島沖海戦」(米国側でその名前の海戦は日本でいう第一次ソロモン海戦のこと。逆に米国側はサボ島沖海戦をエスペランス岬沖海戦と呼称)はそのままである。また、上記のように公式には「フィリピン沖海戦」であるので「レイテ沖海戦」は通称ともいえる。
主要戦闘は24 - 25日にかけて行われ、米海軍が大勝して、旧日本海軍は事実上壊滅した。
ここでは日米双方の海戦に至るまでの経緯を紹介した上で、主に日本側を中心に戦闘の流れを辿って行く。
太平洋戦争緒戦で戦争準備が満足に整っていなかった米国は、旧日本軍侵攻によってフィリピンを失陥することとなったが、1942年後半、米国は戦時生産体制を整えて対日攻勢作戦を本格化し、ソロモン諸島の戦いを機に、太平洋の各地で勝利を重ね、旧次々と日本軍を駆逐して行った。
1944年、米国はマリアナ諸島攻略を完了すると、次なる目標として台湾や沖縄、フィリピンへの進攻を検討したが、日本艦隊の脅威が残存していることなどから台湾進攻案は急進的過ぎるとして却下されたため、沖縄と比べて陸地面積が広く、拠点建設が容易であり、また親米ゲリラの助力を期待出来るといった見地からフィリピンが次なる目標に選定され、9月以降、攻略計画が実行に移されることとなった。
このフィリピン攻略計画採用に関しては、その指揮を務めたダグラス・マッカーサーがフィリピンに多くの利権を持っており、その奪還に強くこだわっていたという背景もある。
1944年9月、米軍はフィリピン攻略の足掛かりとしてパラオ諸島及びモルッカ諸島に対する攻略作戦を展開し、モロタイ島に飛行場を含む前線基地を建設。
10月には航空母艦(軽空母・護衛空母含む)35隻、戦艦12隻を擁するフィリピン攻略任務部隊と、米陸軍第6軍団からなる総兵力20万人の上陸部隊を乗せた船団が出撃し、作戦開始に備えることとなった。
なお海戦当日、米艦隊は日本艦隊迎撃を主任務とする第3艦隊(司令官・ウィリアム・ハルゼー大将)と上陸部隊支援を行う第7艦隊(司令官・トーマス・キンケイド中将)とに分かれて展開しており、シブヤン海海戦やエンガノ岬沖海戦では第3艦隊、スリガオ海峡海戦やサマール沖海戦では第7艦隊所属艦艇が日本艦隊との戦闘を行った。
所属した戦闘艦艇は第3艦隊が4群からなる機動部隊で構成された空母15隻・戦艦6隻・巡洋艦12隻・駆逐艦58隻。第7艦隊は護衛空母16隻・戦艦6隻・巡洋艦8隻・駆逐艦31隻・護衛駆逐艦12隻・魚雷艇39隻からなり、補助艦艇を含めた総隻数は約730隻である。
かくして、米軍によるフィリピン攻略が開始されたが、既に潜水艦の海上交通路破壊によって兵站が崩壊しかけている日本が、さらにフィリピンを失うこととなれば、南方との補給線断絶が決定的となって、戦争続行が不可能となることは必至であり、まさに米軍のフィリピン侵攻は日本にとって死活問題であった。
また無条件降伏を回避し、条件付講和を取付ける協議に持ち込むには、今1度米軍に打撃を与えることで、米国と対等な立場煮につことが必要不可欠という考えから、旧日本軍は総力を結集しての反攻作戦を展開することとなった。
とはいうものの、敵艦隊迎撃の役を担う旧日本海軍の主力である第1機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)のうち小沢提督直卒の航空母艦を主力とする第3艦隊は、マリアナ沖海戦で母艦航空隊の戦闘能力を喪失し、即日活用可能な戦力は第2艦隊(司令長官栗田健男中将)の戦艦を始めとする水上艦艇しか残されていなかった。
このため、旧海軍はマリアナ沖海戦以後、錬成がより安易な基地航空部隊を航空戦力の中核と考え、その戦力強化に力を入れる。ただ、空母機動部隊再建も並行して行われたが、その完成は12月とされ、米軍の予想される反攻時期までに全てが間に合うことは難しいとされた。
海軍はフィリピンを確保するために「来襲する敵機動部隊の殲滅」を当初目標にしたが、陸軍の反対もあり
・基地航空部隊が敵機動部隊を捕捉殲滅する
・基地航空部隊の一部と陸軍航空隊が敵上陸部隊を攻撃する
・空母機動部隊は敵機動部隊を北方へ誘致し、基地航空部隊と共にこれを殲滅する
・水上部隊は上記航空部隊の攻撃援護の元、上陸地点に向かい敵を殲滅する
という作戦を立案。「機動部隊」と「攻略部隊」の2目標を攻撃する作戦を立案する
1944年9月末までの時点で、旧陸海軍総力を挙げた航空戦力強化の効果もあり、基地航空部隊は当初予定の大半を、空母機動部隊も250機前後の戦力を持つまでになっていた。
ところが10月に入り米機動部隊が台湾や南西諸島などに進出。これを基地航空部隊が迎撃し「台湾沖航空戦」が勃発。空母機動部隊は錬成したばかりの航空戦力と、直衛部隊「第5艦隊」を連合艦隊からの「当分機動部隊は運用しないから」の口約束を信じて提供する。ところが結果は敵機動部隊に全く損害を与えられぬまま航空部隊は壊滅してしまう。そして間の悪いことに、この航空戦が終わった直後に米軍のレイテ湾への侵攻が開始されてしまう。
この緊急事態に連合艦隊は約束を反故として第3艦隊出動を命令。激減したとはいえ空母機動部隊としての機動戦を期待された作戦であったのが、航空戦力がないので実質「囮」と同義となってしまったこの命令に、第3艦隊参謀達からは当然の如く反対の声があがったが、最終的には出撃を了承する形となり、4隻の空母に何とか正規空母1隻分の艦載機を搭載した日本最後の機動部隊は、20日早朝最後となるであろう戦闘に出撃した。
また「主役」ともいえる第2艦隊はこの時点でリンガ泊地にいた。マリアナ沖海戦後に内地に帰還した同艦隊は、補給が厳しくなった内地より、燃料の豊富なリンガ泊地で次期作戦に備えた方が良いと判断され、ありったけの対空火器を各艦艇に搭載して1ヶ月も経たずして出撃、リンガ泊地で猛訓練をしていた。そのため作戦が公表された時に内地におらず、マニラで双方の参謀が集結して作戦会議が行われたが、その際に小柳冨次・第2艦隊参謀長より
「もし進撃途上で敵主力艦隊と接触し、二者択一を迫られた場合は、主力艦隊攻撃を優先して良いか」
という要請に対して神重徳・連合艦隊参謀は了承を与え、それが後に尾を引くこととなる。
台湾沖航空戦で出動していた第5艦隊は進出途上で米軍侵攻を知らされ、機動部隊と合流出来ぬまま台湾に向かった。そのため連合艦隊は急遽同艦隊を機動部隊から南西方面艦隊に配置換え、別任務を与えることとする。このため、機動部隊直衛艦艇が少なくなり、急遽対潜部隊である「第31戦隊」を第3艦隊に配置。
基地航空部隊の方では台湾沖航空戦での「幻の大戦果」が幻であったことが判明し、第2航空艦隊は残った航空戦力を掻き集め台湾からフィリピンに進出する。フィリピンに展開していた第1航空艦隊は残余機が40機程しかなく、後述する特別攻撃を決断する。
なお作戦公開後、水上艦隊を小沢提督が統一指揮することとなっていたが、広大な洋上で第2艦隊を指揮するのは困難と考え、従来の第1機動艦隊(第3艦隊司令部が兼任)が第2・3・5艦隊を指揮するのを改め、第3艦隊を連合艦隊直属とし、連合艦隊が指揮した方が良いと意見具申。また同時に第2艦隊の水上戦力強化と直属の航空戦隊配備も併せて具申したが、連合艦隊は水上戦力強化(第2・10戦隊第2艦隊への配置転換)は認めたが、それ以外は認めず、小沢との間で意見対立を見たが、指揮に関しては第3艦隊航空戦力が台湾沖航空戦で壊滅したことで、なし崩し的に小沢の要求通り第2艦隊は連合艦隊直轄となった。
これにより小沢連合艦隊による統一した指揮系統案は逆に連合艦隊直轄第1遊撃部隊、第1機動艦隊機動部隊本隊、南西方面艦隊の第2遊撃部隊と縦割りに細分化されることとなり、後に重大な結果を招くこととなる。
参加艦隊は以下の通り。
第1遊撃部隊(第2艦隊基幹・通称「栗田艦隊」)
水上打撃部隊の主力で、指揮官は第2艦隊司令長官兼第4戦隊司令官・栗田健男中将。また同部隊は第1・2の2部隊に別れ、第2部隊は第3戦隊司令官・鈴木義尾中将が指揮を執っている。
第1部隊
第2水雷戦隊:能代・駆逐艦9隻
第2部隊
第10戦隊:矢矧・駆逐艦6隻
第1遊撃部隊第3部隊(通称「西村艦隊」)
後述するが作戦発動後に栗田艦隊から急遽分派された別働隊で、指揮官は第2戦隊司令官西村祥治中将。
これに第5戦隊より最上、第2水雷戦隊より時雨、第10戦隊より第4駆逐隊の朝雲・山雲・満潮を加えて構成された。
西村司令官率いる第2戦隊は10月半ばに栗田艦隊に合流、他の艦艇も時雨は出撃直前に栗田艦隊に合流するなど、連携訓練など一切していない艦艇がほとんどであり、これが大きな負担となった。
※
なお、本来なら第4駆逐隊は野分も所属しているが、長距離を侵攻する栗田艦隊となるべく航続距離が長い陽炎型や夕雲型を配備する方針から、第2水雷戦隊附属であった時雨と交代する形で第10戦隊に残った。
第2遊撃部隊(第5艦隊基幹・通称「志摩艦隊」)
元々は第1機動艦隊指揮下にあったが、前述の様に台湾沖航空戦に駆り出され、そのまま南西方面艦隊司令部に配置換えとなる。
第1水雷戦隊:阿武隈・駆逐艦7隻
※第16戦隊は元々第1遊撃部隊所属であるが同隊のブルネイ到着と共に第2遊撃部隊に配置換えとなる。しかし合流のためマニラに向かう途上で青葉が大破し戦線離脱し、第2遊撃部隊自身もマニラに来なかったことで合流出来ず、同時期に旧陸軍が行っていた鈴2号作戦に伴う輸送護衛任務を与えられ別行動となる。また第1水雷戦隊のうちの第21駆逐隊3隻も別任務で本隊と別行動となり、合流中に空襲を受けて若葉が沈み、初霜も損傷したので合流を諦め退却。そのため、実際に行動したのは重巡2・軽巡1・駆逐艦4となる。
機動部隊本隊(第三艦隊基幹・通称「小沢艦隊」)
指揮官は小沢治三郎中将。敵機動部隊を北方に誘致し、基地航空部隊と共にこれを殲滅する囮の役割を与えられる。またこれに依り栗田艦隊の突入を支援する役割も担う。
警戒隊:大淀・駆逐艦8隻
※警戒隊の駆逐艦のうち桐及び杉は24日に墜落した瑞鶴所属零戦を捜索した後、燃料不足などもあり本隊への合流を断念し奄美大島へ後退している(実際には一時分離していた4航戦と秋月型駆逐艦4隻からなる前衛部隊に合流していたが、諸事情で「米軍機動部隊に合流した」と誤認していた2隻はここから分離してしまっている)。そのため実際に警戒隊として行動した駆逐艦は6隻となる。
第1航空艦隊
指揮官は大西瀧治郎中将。
元々は捷1号作戦での航空戦力中核であるが、9月に発生したダバオ誤報事件で壊滅し、更に台湾沖航空戦でも戦力を損耗し、直後のレイテ侵攻では40機程の航空戦力しかなかった。
第2航空艦隊
指揮官は福留繁中将。
元々は捷2号作戦での航空戦力の中核で、北九州や南西諸島に展開していたが、ダバオ誤報事件で壊滅した第1航空艦隊代行として台湾に進出。しかし、台湾沖航空戦で戦力を半減、続くレイテ沖海戦では従来の半数である300機程の戦力で米機動部隊と相対することとなる。
神風特攻隊
本海戦は神風特別攻撃隊が初めて実戦投入された戦いとしても知られている。
元々フィリピン駐留第1航空艦隊が戦力の中核として運用される事が予定されていたが、ダバオ誤報事件や台湾沖航空戦による損害と上陸前の事前空襲によってこれが不可能となってしまったため、司令部は艦隊への空襲を防ぐための代案を検討しなければならなくなった。
この時、敵空母の飛行甲板を使用不能とすることで攻撃機の発着艦を阻止することが考えられたが、直掩の戦闘機部隊確保にも事欠く有様でありながら、敵の防空網を突破し空母に打撃を与えることができる攻撃隊など到底編成出来る訳がない。
そこで「大規模な航空隊を投入出来ないのであれば、むしろ少数のみの使用に限った方が敵防空網突破の可能性をあげられる」「どちらにせよ生還が期待できないならば、戦果が不確実な雷爆撃を仕掛けるより、敵に体当たりして戦果を確実にした方がいい」といった理由に基づき、戦闘機に爆弾を搭載して敵空母の飛行甲板へと体当たり攻撃を行う部隊を編制し、これを実戦に投入することにした。
こうして編成された神風特別攻撃隊は、サマール沖海戦直後の攻撃で敵護衛空母1隻を撃沈する戦果をあげたものの、逆にこの戦果が特攻の威力を海軍に過信させる結果となり、当初はこのフィリピンのみでの戦法と考えていたこの特攻戦法が、終戦まで用いられることとなった。
捷1号作戦発動
1944年10月6日、米機動部隊はフィリピン攻略任務部隊として停泊地・ウルシー環礁を出撃し、制海権・制空権確保のため、各地の旧日本軍拠点に対する空襲を実行。その後、12日から始まった台湾沖航空戦にて日本陸海軍航空部隊の攻撃を退けると、17日にはレイテ湾に到着して上陸作戦を開始した。
10月18日、米軍がレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始したとの報告を受けた旧日本軍は捷1号作戦準備を発令する。しかし、これが本格的な侵攻なのか判明せず、当時のレイテ湾一帯の天候が悪く航空偵察が出来なかった事、更に9月のダバオ誤報事件の反省から慎重になり過ぎた事などが重なり、米軍が実際にレイテ湾に対して攻撃・上陸を開始する20日に漸く作戦開始を発令、連合艦隊司令長官豊田副武大将より各艦隊に指令が通達されて、レイテ沖海戦の幕が開けた。
出撃準備(10月23日まで)
10月18日、栗田艦隊は準備発令を受けてリンガ泊地を出港して前線拠点であるブルネイに20日到着する。ところが作戦上ではブルネイに到着している筈の連合艦隊が手配した補給船団が到着しておらず、栗田が独断で手配していた補給船2隻が翌日に到着する事態となっていた。この時点で24日黎明に上陸地点に突入する事になっていた栗田艦隊であるが、この状況では24日突入はどう頑張っても無理であることから、決行日を25日に変更するよう連合艦隊に打電。これにより突入時期は24日黎明から25日黎明に変更された。ただ、本来の作戦では上陸後2日以内の突入を予定していたのを5日も経過してから突入する事に「突入しても上陸部隊も既に内陸部に行き、物資も揚陸されて位置を把握できず、効果がないのではないか?」という不安が残り、これが栗田艦隊首脳陣の悩みとなる。
艦隊は油槽船2隻が到着次第速やかに補給出来るよう、小型艦艇には大和などの大型艦艇から補給し、油槽船は大型艦艇にのみ補給すれば良い様に手配した。なお、連合艦隊が手配した補給船団は、結局間に合わなかった。
ここでどの様に進撃するかが問題となった。レイテ湾へのルートは4つ
・新南群島を北に迂回する第1ルート
・パラワン水道を通過してシブヤン海に入る第2ルート
・スル海を北上してシブヤン海に入る第3ルート
・スル海を東進してスリガオ海峡より侵攻する第4ルート
このうち第1ルートは1番遠回りで25日到着は不可能であり、残りの3ルートのうち第4ルートが最短であるが1番早く敵制空圏内に入るので早期発見される危険が高く、第3ルートも早期発見の可能性では第2ルートより高かった。第2ルートは反面狭いパラワン水道を長期間通過するので敵潜水艦の待ち伏せの脅威があった。
このため、栗田艦隊は新たに第3部隊を編成して低速の第2戦隊を配置。低速小規模のこの部隊を第4ルート、主力を第2ルートから高速で進撃させて敵潜水艦の警戒区域を突破、2隊で挟撃作戦をとることにし、指揮を第2戦隊司令官・西村中将に執らせた。
一方、第2遊撃部隊はその用途について所属する南西方面艦隊と連合艦隊との間で意見の違いがあり、中々決定を見ないまま、台湾・馬公で準備していた。ようやくレイテ湾に突入することが決したのは21日午後であり、マニラに向けて出港するが途中で第1遊撃部隊行動予定詳細を受け、マニラに行けば間に合わなくなると判断し、コロンに向かう事こととる。23日18時にコロン湾に入るが当てにしていた補給を受けられず、艦隊はそのままレイテ湾に向けて出撃する。
米潜水艦の雷撃(10月23日)
補給を何とか済ませた第1遊撃部隊は主力が22日早朝、第三部隊は同日午後にブルネイを出撃した。翌23日未明、第1遊撃部隊がパラワン水道を航行していたところを2隻の米潜水艦が発見。2隻はこのことを味方艦隊に通報すると、日本艦隊に向けて魚雷攻撃を実施した。
この潜水艦を察知出来ていなかった栗田艦隊は不意打ちを受ける形となり、旗艦の愛宕とその姉妹艦、摩耶が沈没。高雄も大破してブルネイに後退した。
日本艦隊は敵艦隊と戦う前から強力な重巡洋艦3隻を1度に失うという被害を受け、出鼻をくじかれる羽目となったが、栗田中将は大和に移乗して作戦を続行した。
シブヤン海海戦(10月24日)
10月24日の午前中、小沢中将率いる機動部隊は偵察隊を出撃させる。予定ではこの日に敵を北方へ誘致し栗田艦隊の進撃を支援する手筈となっていた。午前中に偵察機が米機動部隊の一群を発見、残余の航空機を出撃させ攻撃に向かわせるが瑞鶴隊以外は会敵できずにフィリピンの友軍基地に避難。瑞鶴隊も大した戦果を挙げられず、友軍基地に着陸した。
ところが予想に反して米艦隊は中々食いつかず、小沢提督は麾下の第四航空戦隊と護衛の駆逐隊を前衛部隊として前進させるが、米機動部隊が小沢艦隊を発見するのは夕方となり、後述するシブヤン海で栗田艦隊とハルゼー機動部隊との戦闘となる。
一方の第二航空艦隊は早朝の偵察で敵機動部隊の一群を発見。攻撃隊を出すが迎撃機に阻まれ攻撃に失敗する。それでも迎撃を潜り抜けた彗星1機が空母プリンストンを攻撃し同艦は大破。後に沈没している。
アメリカ艦隊は潜水艦や偵察機の情報から日本艦隊の動きを察知しており、ハルゼー率いる機動部隊が栗田艦隊への攻撃を開始した。
航空支援の無い栗田艦隊は米艦載機部隊の容赦のない攻撃に晒され、特に武蔵には雷爆撃が殺到して沈没寸前にまで追い込まれた。
その他、妙高が被雷し戦場を離脱。大和や長門、利根なども爆弾が命中する被害が生じ、浜風には火災が発生するなど各艦の損害が深刻化し始めていた。
艦隊の被害状況を見た栗田提督は、一時反転して空襲を避けることを決意し、艦隊を反転させて海域を離脱した。
ところがその頃になってようやく小沢艦隊を察知した米機動部隊が攻撃を中止して北上したため、栗田は再度反転してレイテへと進撃を再開する。しかしこのタイムロスにより西村・志摩の両艦隊と翌日未明にレイテ湾へ同時突入することは不可能となった。
また空襲で大破した武蔵には、当初は利根、清霜、浜風、島風が交代で護衛についてコロン湾への回航を行っていたが、損傷復旧の甲斐なく武蔵は19時35分に沈没、清霜と浜風が生存者を救助し2隻は退却。利根と島風は損害が軽微であることから沈没前に護衛を取りやめて本隊に再合流している。
スリガオ海峡海戦(10月24 - 25日)
山城・扶桑を主力とする西村艦隊は、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して南のスリガオ海峡から突入する使命を受けて進撃していた。途中アメリカ艦載機の攻撃を受けるが、敵の目が栗田艦隊に向いていたため、たいした被害もなく航行を続けていた。
しかし、スリガオ海峡にはオルデンドルフ中将率いる水上部隊・約40隻が展開されており、
16インチ砲搭載艦を含む旧式戦艦および重・軽の巡洋艦からなる砲撃部隊に加え、駆逐艦からなる水雷戦隊、哨戒任務の魚雷艇部隊が鉄壁の迎撃態勢を敷いて待ちかまえていた。
作戦予定では栗田艦隊は24日日没時にはサンベルナルジノ海峡を通過していないといけなかったが5度にわたる空襲により大きく遅れていた。西村提督は14時に現在位置を知らせているが当時栗田艦隊は空襲の真っ最中であり、栗田は第五次空襲後に反転した報告を16時に発信。しかし西村艦隊に対する明確な指示はなく、スリガオ海峡に迫った同艦隊は20時に艦隊単独での突入を決意する。栗田からは25日9時に合流するよう連絡が来たのは、彼らが突入を開始して米魚雷艇と交戦状態に入った23時前であった。
24日深夜、米魚雷艇部隊が西村艦隊と接触すると、次いで駆逐艦部隊が西村艦隊と交戦を開始し、魚雷攻撃を行った。最初の第一波で扶桑が大破航行不能となり、やがて大爆発を起こし船体が真っ二つになり沈没。その後第二波の雷撃を受けた山雲が轟沈し、満潮は大破し間もなく沈没。朝雲も大破し後退するが、夜明け後追撃してきた米巡洋艦に攻撃を受け沈没した。
西村艦隊は損害を省みず突入を続けたが、海峡出口には戦艦を主力とする砲撃部隊が待ち受けており、西村艦隊をレーダーに捉えると暗闇の中から艦砲射撃を開始した。
レーダーが使い物にならなかった西村艦隊は、敵艦の発砲炎をたよりに応戦するも、最上が多数の命中弾を受けて大破し、戦艦山城は弾薬庫引火により沈没した。
山城の沈没に際して西村中将は戦死し、西村艦隊は最上と時雨を残して壊滅。時雨と最上は反転・離脱した。
西村艦隊に後続していた志摩艦隊も続いて突入したが、まず阿武隈が魚雷艇の攻撃で大破し戦線離脱。また旗艦の那智が進撃中、後退してきた最上と衝突してしまう。この折に最上の指揮を執った荒井艦長代理も時雨の西野艦長も、志摩艦隊の存在は知らされておらず驚いたという。
志摩艦隊は旗艦が損傷し、西村艦隊も壊滅した事を受けて撤退を決意し、阿武隈に潮、最上に曙の護衛をつけてそれぞれコロン湾へ回航を命じたが、26日に空襲を受けて阿武隈は沈没し、最上は航行不能となり曙の魚雷で処分された。
栗田艦隊は25日早朝、西村艦隊壊滅を知った。
エンガノ岬沖海戦(10月24・25日)
南下を続けていた小沢艦隊であるが24日の攻撃は奏功せず、さらにハルゼー機動部隊が喰い付いたのが夕方にずれ込んだ結果、栗田艦隊はシブヤン海で空襲に晒されて武蔵が沈むなどの損害を被ってしまった。そのため栗田艦隊は一時的に反転後退する決断をし、小沢艦隊にもその連絡が入った。
ところがその後の栗田艦隊の再反転報告がなく、夜半になり小沢は栗田艦隊は撤退したと決断する。実際は栗田艦隊から突入を再開した事を示唆する無電は飛んでいたが、小沢艦隊だけ受信できなかった。
このままでは自艦隊だけが敵中に孤立すると危惧した小沢は前衛部隊に合流を指示し、合流後の翌25日7時頃より北上を開始。
この小沢艦隊をハルゼー機動部隊は猛追、8:15頃より米軍の4度に渡る空襲が開始。小沢艦隊直掩戦闘機隊は優勢な米攻撃隊を相手に奮戦したが数の差は歴然としており、以降小沢艦隊は猛烈な波状攻撃にさらされ続けた。
この攻撃により第1次空襲で千歳と秋月が沈没し、第2次空襲では瑞鶴と多摩が被雷。千代田が大破し航行不能となった。
小沢中将は第1次空襲で被雷し通信能力が低下した瑞鶴から大淀に変更して戦闘を継続したが、一方のハルゼーは、サマール島沖にで田艦隊が護衛空母部隊との交戦を開始したことを受けて、直ちにレイテ湾に戻るよう命じられたため、3個群のうち1個群と高速戦艦部隊を率いて反転、小沢艦隊の追尾はシャーマン中将率いる2個群が引継いだ。
第3次空襲では瑞鶴と瑞鳳に攻撃が集中し、2隻共に大破航行不能となり沈没。これにより所属する4空母全てが沈没あるいは大破となり、生き残った直掩戦闘機も不時着水、小沢機動部隊は壊滅した。
なおも空襲は続行され、17:30頃に第4次空襲となる。この時点で小沢艦隊は四散しており、
・その後方を戦艦日向と駆逐艦霜月が追跡
・損傷した軽巡洋艦多摩が単独で内地に退却
・第3次空襲があった海域で駆逐艦初月・若月・桑が瑞鶴と瑞鳳の生存者を救助中
・先に沈んだ千歳の生存者を救助した駆逐艦槇が単独で本隊を追跡中
・前夜に溺者救助で離れた駆逐艦杉、桐が合流できずに行動中
という状態だった。
その様な中来襲した米攻撃隊は過半の80数機が本隊の大淀、伊勢に、10数機が後続する日向に殺到する。
狙われた伊勢は対空砲火と的確な操艦術で攻撃を至近弾以外は全て回避することに成功。日向も至近弾のみでほぼ無傷で切り抜ける。日没後には他の残存艦も海域を離脱して日本本土へと撤退した。
追撃戦の指揮を執るミッチャーはデュポーズ少将率いる巡洋艦部隊を先行して追撃させ、同隊はまず航行不能の千代田を発見、千代田は対空砲で果敢に反撃するが戦力差は圧倒的で撃沈され、乗員全員が戦死。デュポーズ隊は更に追撃し、乗員救助をしていた初月(桑は救助を終えて北上していた)と、千代田捜索を続けていた五十鈴、それに加わった若月を発見し攻撃する。
3隻は直ちに退避行動にでるが、初月は独断で迎撃行動を行い2隻の脱出の時間を稼ぎ沈没する。また単独で退避中の多摩は夜半に米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
小沢艦隊は確かにハルゼー機動部隊を北方に誘致することは成功した。しかしその囮を行った理由である「栗田艦隊を機動部隊の脅威から取り除く」事には失敗した。そもそも小沢艦隊司令部には囮の役割を何時から何時まで行って栗田艦隊を空襲の脅威を取り除くかの認識が乏しく、其のことは麾下の艦である大淀の戦闘詳報でも厳しく指弾されている。
また最近では栗田艦隊が24日夕刻に一時反転した事を小沢艦隊は退却したと受け止め、続く再進撃の報告が届かなかったため栗田艦隊がレイテ湾に向かっている事を把握しておらず、同隊は退却したと考えていた事が判明している(第四航空戦隊司令官・松田千秋少将の証言による)。
その為小沢艦隊側は敵中に孤立すると考え後退し、状況をより細かく執拗に報告しなかったので敵艦隊誘致成功の報は届かず、栗田がレイテ突入を見送る要因の一つとなったともいわれている。
サマール沖海戦(10月25日)
シブヤン海海戦後、進撃を再開した栗田艦隊は25日未明にサンベルナルジノ海峡を通過した。
この時点での栗田艦隊勢力は戦艦4隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦11隻まで減少していたが、艦隊はレイテ突入を続行した。
25日朝、大和の対空電探が敵機を探知し、大和の見張り員が35km先のマストを確認した。
それは上陸支援任務を行っていた米護衛空母部隊であったが、栗田艦隊はこれを正規空母6隻の主力機動部隊と誤認し攻撃を開始。
大和、長門以下第一戦隊が主砲による砲撃を行い、麾下の重巡部隊が突撃を行った。
栗田艦隊攻撃を受けた護衛空母部隊は、小沢艦隊を追撃中の第3艦隊ハルゼー機動部隊に救援を要請すると、逃走を図りつつ保有の艦載機と護衛の駆逐艦による反撃を行った。
このときの米護衛空母ガンビアベイの勇戦は現在でも語り継がれ、アメリカ海軍の士官候補生が必ず学ぶ教材となっている。
駆逐艦「ヒーアマン」からの魚雷に挟まれ、長門と大和が反対方向へ16kmの航行を強要された他、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」の抵抗により金剛は護衛空母部隊への突撃から脱落した。
護衛空母部隊に突撃した重巡部隊と水雷戦隊には敵艦載機による熾烈な反撃が行われ、重巡洋艦を狙った攻撃が日本艦隊に殺到した。
この攻撃で羽黒が急降下爆撃を受けて損傷。矢矧は敵機からの機銃掃射を受けて、第十戦隊司令部に死傷者を出す被害が生じ、駆逐艦の雷撃で損傷した熊野はコロン湾を目指して戦場を離脱した。
また鈴谷が搭載魚雷の誘爆により沈没し、鳥海は被弾の後に雷撃処分。筑摩も敵艦載機の攻撃で航行不能となり沈没した。
その後、各艦からの戦果報告で十分な戦果を上げたと判断した栗田は、艦隊に集結命令を出して攻撃を一時中断した。
反転・栗田艦隊退却
艦隊は一時集結して程なく進撃を再開した。
進撃を再開した栗田艦隊に対し、米軍は付近にいた残りの護送空母部隊2部隊と、偶々補給のためハルゼーとは別行動をとっていたマケイン中将指揮の第1群等から空襲が始まる。
また栗田艦隊側も見張り員から北方方面の水平線に敵マストを目撃したなどの報告が相次ぐ(実際にはそこには米艦隊はおらず、誤認と思われる)。栗田と同じく大和艦橋にいた宇垣纏第一戦隊司令官も、部下の参謀にそれを確認させたうえで、北方に向かうべきではと栗田艦隊の参謀に意見するが、この時点では栗田は突入を優先させ、宇垣の意見具申は通らなかった。
ところがその直後に南西方面艦隊司令部発信とされる敵機動部隊の存在を知らせる電文(通称「ヤキ1カ電」)が届いた。栗田艦隊は敵からの空襲が行われる最中であったが、艦隊司令部や第一戦隊司令部の参謀が集まり協議に入る一方、南西方面艦隊や基地航空部隊に対してこの部隊への攻撃を要請する。
「ヤキ1カ」電に関しては大和以外の第1遊撃部隊の艦艇に着電記録がなく、発信者も不明な点から捏造説も根強く言われているが、以下の点から捏造はあり得ない考えられている。
理由1
捏造というのなら、上記のように攻撃要請を他部隊に出すのは自身の捏造を敢えてばらす行為であり不自然。
理由2
この電文は栗田艦隊司令部の戦闘詳報にすら着電記録はなく、上記の攻撃要請の記録が唯一である。捏造だというのなら何故着電記録を捏造せず、簡単に疑われる様なことをしているのか不自然。
理由3
栗田艦隊とは全く離れた他部隊にも、同時期に似た内容の電文が記録されており、各部隊はそれに則って行動をしている。
①第二航空艦隊はヤキ1カ電の5分後に発信されたとされる「0940地点『ウキ5ソ』に敵空母3隻見ゆ」の情報を元に退避していた第三航空戦隊の残余機に攻撃を依頼している。なおこの依頼は栗田艦隊の攻撃要請の前に出されており、栗田艦隊が情報源であることはあり得ない。またウキ5ソはヤキ1カの近距離である。
②第六艦隊司令部は「0900ヤンメ55に敵空母あり」の情報を麾下の潜水艦に発信しているが、ヤンメ55はヤキ1カとウキ5ソの中間地点である。
③軍令部の記録員だった野村実氏によると、この頃軍令部の作戦図にヤキ1カ付近に敵機動部隊の書き込みがあったと証言。この書き込みは作戦部長の中沢祐少将も手帳に記録している。
ほぼ同時期にヤキ1カ付近の海域で米空母発見の報告が、形を変えて各部隊で受電されている事から、電報自体は存在していないと、このようなことは起こりえない。
なお不思議な事に、第二航空艦隊と第六艦隊の記録には、こちらも情報源である発信者の記録がない。
理由4
ヤキ1カ電は南西方面艦隊からのものと栗田艦隊側は認識していたが、南西方面艦隊司令部では発信した記録はないとされている。しかし「南西方面艦隊は発信していない」という証拠は実はなく、これも戦後になってから言われだしたことで、当時はそのような事は言われていなかった。なお南西方面艦隊は当時3個の艦隊(南西方面艦隊の他、フィリピン海域を担当する第三南遣艦隊や、インドシナ方面の航空支援を担当する第十三航空艦隊)を兼務しており、その業務は多忙を極めた。そしてレイテ沖海戦直後の10月31日に司令長官も含めて大幅な人事異動があり、レイテ沖海戦でのちゃんとした戦闘詳報を残せていない。新たな司令部もその後の米軍ルソン島侵攻に巻き込まれて、記録を残せる状態ではなかった。「発信していない」という話の情報源は全くの不明であり、勝手に独り歩きしてしまっていると言える。
栗田艦隊はこの情報を元に反転するか突入を継続するか議論が行われる。その結果、
・突入しても既に上陸から5日が経過しており、既に上陸部隊は射程外に、物資も揚陸し終えて輸送船に無く、揚陸地点も判別できないのでどれだけ戦果を挙げられるか不明。
・25日もサマール沖海戦後より数度の空襲を受けており、実際この時点でも空襲を受けている最中だった。小沢艦隊からの情報もない事から敵の誘致に失敗している可能性が高い。
・基地航空部隊の戦果も上記の理由から効果をあげていないと考えられる。これであると仮に突入して上陸部隊を壊滅(その結果栗田艦隊も壊滅する)させてもハルゼー機動部隊は健在であり、フィリピンの防衛は実質失敗する。
・それよりもサマール沖海戦の様に、敵機動部隊を攻撃して少しでも戦果を挙げた方が戦局に貢献できる
と判断し、12:30過ぎより艦隊は北上を開始。
反転した栗田艦隊は間もなく敵艦載機攻撃を再度受けるようになる。そのため被害がさらに拡大した。
終結・決死の逃避行
栗田艦隊の退却後、日本艦隊撃滅を目指すハルゼー提督は追撃部隊を率いて栗田艦隊に迫った。
日没後に栗田艦隊を追撃した水上部隊は司令部を含む本隊を取り逃がしたものの、筑摩の乗員を救助していた野分を捕捉し、これを撃沈した。
26日未明、米軍偵察機はミンドロ島の南方を航行中の栗田艦隊を発見し、米機動部隊は日の出と共に攻撃部隊を差し向けた。
この攻撃で退避中の熊野が損傷して、早霜が擱座。早霜の救援に向かった藤波が撃沈され、能代もまた沈没した他、大和も2発の直撃弾を受けて、大浸水が発生した。
その後、艦隊は何とか追撃を振り切り、28日夜にブルネイへと帰還した。各艦の燃料は底を尽き掛けており、ギリギリの帰還であった。
レイテ沖海戦と、それに続くレイテ島での一連の戦いの敗北の結果、米軍に大打撃を与えて講和に持ち込むという日本の思惑は完全に挫折した。1945年1月、小磯首相は、レイテ決戦をルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大すると発表し、事実上レイテ決戦の敗北を認めた。
栗田艦隊が突入せずに反転した事に関しては、戦後になって米軍側の実情が分かったこともあり批判される様になった。確かにレイテ湾突入による米上陸部隊殲滅だけを優先に考えるのなら、反転するのは妥当ではなく、空母を全て失った小沢艦隊の奮闘も、作戦が狂った為に単独突入した西村艦隊の壊滅も、武蔵をはじめとする指揮下艦艇の喪失も、そして戦死した数千の将兵の犠牲も全てが無駄になったとして批難するのも一理ある。
しかし、反転を是とする考えも多い。その理由として、
①
栗田艦隊側が危惧した通り、既に上陸から5日も経過し、上陸部隊が既に大和の主砲ですら届かないほど内陸部に進撃し、揚陸物資も揚陸し終え、どこにあるか分からない状況下で、偵察機による観測射撃が出来ない栗田艦隊(艦隊搭載の水偵は全て対潜哨戒や偵察任務後に友軍基地に退避していて、この時点では1 - 2機しかなく、それだけで艦隊の観測射撃をするのは不可能だった)が洋上からの観測だけで地上の敵味方を識別したり、揚陸物資が何処にあるか探し当てて攻撃するのは不可能であり、既に手遅れである。
②
本来なら敵機動部隊を殲滅して栗田艦隊の突入を間接支援する基地航空部隊が台湾沖航空戦で壊滅し、その一翼を担う空母機動部隊も同様に戦力を激減させていて、作戦の根幹が崩れているのに敵の性急な侵攻に振り回される形で作戦を変更せずに実施しており、こうなる事はほぼ既定路線であった。
③
小沢艦隊は囮作戦に成功した訳ではなく、実際は栗田艦隊を敵航空機の脅威から守る事ができていない(実際当日の軍令部ではそう判断していたし、小沢提督自身も成功したとは認識していない)。
そのため栗田艦隊の戦力は半減し、将兵も連日の戦闘で疲弊し、仮に突入しても戦果は挙げられずに徒労に終わった可能性が高い。
④
西村艦隊の単独突入して壊滅したのはこの小沢艦隊が囮任務が必要な時に出来ず、それにより栗田艦隊の行程が遅れてしまい、西村艦隊が単独突入を取らざるを得なくなった事が要因であり、挟撃のはずが米第七艦隊のそれぞれを各個撃破できる余裕を与えてしまった。実際西村艦隊を壊滅させたオルテンドルフ部隊は補給の上北上を開始し、栗田艦隊をレイテ湾侵入前に捕捉できる位置にあった。
⑤
艦隊自身は敵主力か輸送船団どちらかを選ぶときは敵主力攻撃を優先してよいと連合艦隊から許可をえており、反転はその承諾の元おこなわれている。
等が理由として挙げられている。
また本来のこの作戦での海軍の目的は「敵機動部隊壊滅」と「敵上陸部隊への攻撃」の2つであるのだが、「敵上陸部隊攻撃」だけであると考えてる人が多く、それ故に突入しなかった栗田を批判し命令違反だという人もいる。実際は役割分担上栗田艦隊他、水上艦隊はレイテ湾突入を目標としていただけで目的はこの2つの達成であり、これによって「南方との輸送路の確保ができる」と考えていた。
もし仮に海軍の作戦が批判者が言うように「上陸部隊の殲滅」だけであるとし、栗田艦隊が反転せずに突入し、上陸部隊を壊滅できたとしても、その結果栗田艦隊自身は壊滅し、小沢艦隊も囮として壊滅するのだから、ハルゼー機動部隊が無傷で残る事になり、制海権は米軍に帰し、フィリピン周辺は封鎖され本土と南方の輸送路は結局寸断されてしまう。連合艦隊参謀神重徳が栗田艦隊参謀たちと作戦説明をした際に、栗田艦隊を突入させる理由として
「フィリピンを取られたら本土は南方と遮断され、日本は干上がってしまいます。そうなってはどんな艦隊をもっていても宝の持ち腐れとなる」
と言ったのも、基地航空隊がもう1つの作戦目標である「敵機動部隊壊滅」を成功させるという前提あってこそであり、その前提が崩れてしまい、栗田艦隊も敵上陸部隊攻撃が不可能となったのなら、もう一つの作戦目標を少しでも達成して戦局に貢献しようと考えるのは問題ある事とは言えず、反転を「今までの犠牲を無駄にした」と批判するのは見当違いともいえる。
では海戦後の海軍での栗田の評価はどうだったかというと、現在と大きく異なり非常に高かった。これは上記のように1個艦隊で敵機動部隊の一群(これは誤認であるが戦後になるまで日本側は誰もその誤りに気付かなかった)をサマール沖で壊滅させるという誰も達成できなかったことをやってのけたからであり、反転した事に対しての批判は一部キャリア軍官僚以外は殆どなかったという。
彼はこの海戦後に旧海軍兵学校長の職を拝命、終戦を迎えている。この事を一部旧海軍関係者から「前線から遠ざける遠回しの左遷」ともいわれているが、旧海軍兵学校は将来の旧海軍将官を育てる重要な機関であり、どこの海軍でもその長を「左遷先」という海軍は存在しない。前任者も『鬼貫』の異名をもつ終戦時の総理・鈴木貫太郎や、開戦時の軍令部総長永野修身など、後に中枢部で要職を務めている将官も多くいる。栗田と同僚の艦隊司令長官でも草鹿任一(当時南東方面艦隊兼第11艦隊司令長官)や大河内伝七(同南西方面艦隊兼第3南遣艦隊兼第13航空艦隊司令長官)も兵学校長を経ている。
またフィリピンの一連の海戦で水上艦艇をほとんど失い。燃料も欠乏し残余の艦艇も行動できなくなっている状況で、栗田の様な開戦以来現場で戦い生き残った提督を、戦力のなくなった水上艦隊の指揮官として放置するよりも、兵学校長として働いてもらった方が有益であると考えたとも見られる。
レイテ沖での一連の海戦後、アメリカ軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、潜水艦による海上交通路破壊に加えて、航空機による通商破壊をも本格化して日本の南方航路封鎖を強めた。これに対抗して日本側は生き残ったあらゆる艦艇、戦艦や空母までも輸送任務に使用し、北号作戦や南号作戦を行って資源確保に努めた。栗田艦隊が突入効果がないと判断して反転し、結果的に戦力の温存が図られたことが、かえって貴重な護衛戦力を残す事になり、レイテやフィリピンで死闘を繰り広げる陸軍将兵に貴重な補給や補充を少しでも行えた理由となった。只その為に残った艦艇もレイテ沖海戦後1~2か月で多くが沈められ、残余の艦艇は内地に帰還したり、シンガポールなど米軍の反攻の及んでいない地域に退避したりと艦隊は四散し、連合艦隊は完全に海上戦力を失った。1945年3月以降は南方航路の維持も最早不可能となった。
南方航路を失ったことで、旧日本軍艦艇は本格的な整備施設のない南方と燃料が枯渇した内地とに分断され、残存艦艇の多くは浮き砲台として港湾に係留されるか、輸送任務に従事するなどしたが、空襲と潜水艦の雷撃によって行動可能な艦艇は徐々に失われていった。
その後、1945年4月に大和の沖縄水上特攻が行われ、5月にはマラッカ海峡でペナン島沖海戦が生起したが、これが旧海軍最後の水上戦闘となった。
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