曖昧さ回避
- ウィリアム・ハルゼー・シニア(1853年4月11日~1920年6月11日)。アメリカ海軍の軍人で、最終階級は海軍大佐。
- ウィリアム・ハルゼー・ジュニア。アメリカ海軍の軍人で、最終階級は海軍元帥。勇猛果敢な戦争指導者として知られた。ウィリアム・ハルゼー・シニアの息子。
- ウィリアム・ハルゼー3世(1916年~2003年9月23日)。第二次世界大戦中はアメリカ海軍に所属し、最終階級は海軍中尉。ウィリアム・ハルゼー・ジュニアの息子。
ウィリアム・ハルゼー・ジュニア
ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニア(1882年10月30日~1959年8月16日)
アメリカ海軍の軍人で、最終階級は海軍元帥。
第二次世界大戦で戦争指導者として活躍し、その勇猛さからブル(雄牛)と仇名された。
日本では慣習的に「ハルゼー」と表記されるが実際の発音は「ホールジー」である。
略歴
1882年10月30日、ニュージャージー州エリザベスで誕生。代々続く船乗りの家系であり、父もアメリカ海軍の軍人であった。近所でもやんちゃな少年として知られた。
1891年、父が海軍兵学校の教官となり、自分も海軍に入ろうと決心。
1897年、海軍兵学校へ入るための指名をもらうため大領領へ手紙を送ったものの返事は無く、指名は得られなかった。
1899年、せめて医務仕官にとヴァージニア大学医学部に入学。母アンが懸命の活動を続け、マッキンリー大統領に面会し指名を獲得する。
1900年、海軍兵学校(アナポリス)に入学。兵学校ではアメリカンフットボールの選手として活躍。一方、素行が悪く落第しかけた事もあった。
1904年、62人中43番の成績で海軍兵学校を卒業。少尉候補生として戦艦ミズーリ(BB-11)に配属された。
1906年、海軍少尉に任官。アメリカが威信を示すため世界一周航海を行った「グレート・ホワイト・フリート」所属の戦艦カンザス(BB-21)に乗組む。
1908年10月18日、東京湾に到着。東郷平八郎主催の舞踏会に出席する。チェスター・ニミッツやレイモンド・スプルーアンスらは日本海海戦の英雄である東郷と会え、気さくに声をかけられた事に感動していたが、ハルゼーは日本嫌いなので何の感銘も受けず、『ヘラヘラ笑って俺たちを欺こうとしてる』と考えていた。
1912年、海軍次官フランクリン・ルーズベルトのカンポベロ島別荘への水先案内人として出向き、ルーズベルトに尊敬の念を抱く。
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。
1916年、海軍少佐に昇進。
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結。大戦中の功績により海軍十字章を授与される。
1920年、父が心臓発作で死亡。
1921年春、ロングビーチで行われた演習で駆逐艦6隻を指揮して戦艦4隻と交戦。アメリカンフットボールで培ったフォーメーションで翻弄し、模擬魚雷22本を命中させた。しかし、近接発射だったため戦艦に150万ドルの損害を与え、上層部から叱責された。
1926年、海軍大佐に昇進。航海局長ジェームズ・リチャードソン海軍少将から航空機の教育課程に興味があるかという手紙を受け取り受験したが、視力検査で不合格になった。
1933年、海軍大学校に入学。9月に卒業し、陸軍大学校へ交換留学生として入学。
1934年、陸軍大学校を卒業。
1934年、航空局長アーネスト・キング海軍少将から空母サラトガ(CV-3)の艦長職を提示されたが、当時のアメリカ海軍ではパイロットの資格がなければ航空関係の指揮官になることはできなかったため、裏から手を回して視力検査をごまかしペンサコラ飛行学校に入学。
1935年5月15日、パイロットの資格を得る。同年、サラトガ艦長に就任。
1938年3月、海軍少将に昇進し第2空母戦隊の司令官に就任。
1940年6月13日、海軍中将に昇進し、航空戦闘部隊司令官兼第2空母戦隊司令官に就任。上司である太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官は海軍兵学校で同期のハズバンド・キンメルであった。
1941年11月28日、空母エンタープライズ(CV-6)を旗艦とする第8任務部隊を率いてウェーク島に航空機を輸送するため出発。この折にウェーク島を日本が奇襲するとの情報もあり、日本を刺激するこの輸送で日本軍と遭遇した際にどこまでやってよいのかキンメルに尋ねると「常識で判断しろ」と回答を得、将兵には「発見した艦は全て沈め、遭遇した航空機はすべて撃墜しろ」と命令を下し、日本と戦争を起こすつもりですかとの部下の抗議には「責任は俺が取る。まずは障害を取り除き、その後で議論しよう」とやる気満々であったが、12月8日に日本海軍の真珠湾攻撃を知ると「奇襲攻撃とは卑怯な!」と激怒した。
12月31日、チェスター・ニミッツがキンメルの後任として太平洋艦隊司令長官に着任。
1942年2月、第16任務部隊の司令長官に任命された。日本軍へのヒットエンドランを行い、時には艦砲射撃を加えるなど果敢な指揮を行った。第8任務部隊と空母ヨークタウン(CV-5)を主力とする第17任務部隊(フランク・フレッチャー海軍少将)を指揮し、ギルバート諸島とマーシャル諸島を攻撃。
3月、エンタープライズを主力とする第16任務部隊を指揮して南鳥島、ウェーク島を攻撃。
4月、ホーネット(CV-8)を主力とする第18任務部隊による日本本土空襲(ドーリットル空襲)の護衛のため第16任務部隊を指揮。
5月、皮膚病で入院するためレイモンド・スプルーアンス海軍少将を代行指揮官に推薦。
6月5日、ミッドウェー海戦では代行指揮官のスプルーアンスが活躍した。
10月18日、ガダルカナル保持に自信を持てず、消極的な指揮で解任されたロバート・リー・ゴームレー中将の後任として、南太平洋方面軍司令官に就任。就任演説では「この戦争に勝つために大事なことが3つある。ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、ジャップをもっと殺せ!」と述べ、以後も期待された通りの積極果敢な指揮で将兵の士気を向上させた。
10月26日、南太平洋海戦では日本艦隊発見の報には「攻撃せよ、繰り返し攻撃せよ」と命令した。
11月13日、第三次ソロモン海戦第一夜戦で日本海軍の戦艦(比叡、霧島)によるヘンダーソン飛行場砲撃は阻止されたが、第67任務部隊は司令官ダニエル・J・キャラハン海軍少将も戦死するなど大損害を受け、日本海軍も一時的に後退しただけで飛行場攻撃は諦めていなかった。
11月14日、午前2時に日本海軍第七戦隊の重巡洋艦がヘンダーソン飛行場を砲撃したが、被害は微少であった。
ハルゼーは唯一健在の第16任務部隊から戦艦2隻、駆逐艦4隻のウィリス・A・リー海軍少将を指揮官とする第64任務部隊を急遽編成させた。参謀達が修理中の空母エンタープライズの強力な護衛がいなくなる事や、寄せ集め部隊がどこまで戦えるかという不安から反対したが、自分の意見を通した。
11月14~15日の第三次ソロモン海戦の第二夜戦では駆逐艦隊が壊滅、戦艦サウスダコタ(BB-57)が停電した所を日本海軍の戦艦霧島から滅多打ちに遭うなど第64任務部隊は苦戦したが、ワシントン(BB-56)がレーダー射撃で霧島を沈め、ヘンダーソン飛行場砲撃を阻止し任務を果たした。
11月18日、海軍大将に昇進。
1943年3月15日、第3艦隊司令長官に就任。アイスクリーム製造機を利用する将兵の列に並んでいると「上官優先」と言って割り込もうとした少尉二人がいたため、一喝して後に戻らせた。
4月15日、ブリズベン(オーストラリア)でダグラス・マッカーサーと会談。それ以前は「自己宣伝をするくそったれ」と嫌っていたが、マッカーサーに直に会うと人間的魅力に取り込まれ「われわれはあたかも永年の親友同志のように感じていた」「当時63歳であった彼は50代のような精悍さであった」と書き残している。スプルーアンスの第5艦隊がマリアナ諸島攻略を次の目標としている事にフィリピン復帰が宿願のマッカーサーは猛反対し、ハルゼーを「わたしについてきてくれるなら英米連合の大艦隊の指揮権を与えようと思う」と説得したが、キングとニミッツはマッカーサーの意図を見透かしていたので阻止した。
1944年10月20日、レイテ沖海戦が始まる。
10月24日、レイテ島攻略部隊を支援していたハルゼーは小沢治三郎中将の陽動策にはまり、三群に分かれた第3艦隊の総力(当初はサンベルナルジノ海峡守備に第34任務部隊を編成する予定であったが、分離編成しないままの状態であった)を率いて担当海域を逸脱し、艦載機のほとんどない空母機動部隊(第三艦隊)攻撃の為に北上した。ハルゼーが空襲で手酷く叩いた栗田艦隊は反転しており脅威ではないという判断であったが、これは栗田艦隊の偽装反転で既に進撃を再開しており、25日に日付が変わって間もなくサンベルナルジノ海峡を通過し、輸送船団の停泊するレイテ湾に迫っていた。
第7艦隊のトーマス・キンケイド海軍中将はサンベルナルジノ海峡には第34任務部隊が居るという前提で主力をスリガオ海峡に投入して西村艦隊を壊滅させていたが、サマール沖海戦で麾下の護衛空母艦隊が栗田艦隊と交戦した事で栗田艦隊は既に海峡を突破している事を知り、ハルゼーに救援要請を送った。しかし、ハルゼーは向かわせた空母第1群だけで充分と考え、主力を率い北上を続けた。
ついには普段現場に口を挟まないニミッツも第34任務部隊の現在地を知らせるようハルゼーに電文を送ってきたことから、ハルゼーは漸く主力を反転させた。
しかし、「ヤキ1カ」に敵機動部隊の電文を受けた栗田艦隊はこれを攻撃すべくUターンし、レイテ湾からは危機が去った。ハルゼーの栗田艦隊への攻撃は軽巡洋艦能代、駆逐艦野分・藤波・早霜を沈めただけで主力は取り逃した。
戦闘後、ハルゼーは「艦隊の主力である敵空母部隊の撃滅を第一とするのは当然である」と正当性を主張したが「Bull's Run」と揶揄された。
12月18日、フィリピン東方沖でハルゼーの艦隊はコブラ台風に巻き込まれ、駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破という大損害を受ける。そのためコブラ台風は「ハルゼー台風」とも呼ばれる。
1945年3月、ホワイトハウスに招待され、ルーズベルト大統領からゴールド・スター勲章を授与される。
6月5日、ハルゼーの艦隊は再び台風に遭遇し艦船36隻が損傷。査問委員会が設置されたが、キングから「更迭は対日戦勝の功績を陸軍とマッカーサーに集中させるだけ」と意見があり、無罪となった。
8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏。ニミッツから「空襲作戦を中止せよ」と命令がきたが、日本人を信用していないハルゼーは「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」という命令を出している。
9月2日、戦艦ミズーリでの降伏文書調印式で日本側代表・重光葵がもたついているのを引き延ばしだと思い「サインしろ、この野郎!サインしろ!」と罵った。
10月25日、帰国。
11月22日、海軍を退役。
11月29日、ハリー・S・トルーマン大統領より海軍元帥に任命される。
1946年4月、上院で元帥を身分上終生現役待遇とする法案が可決。
1958年8月、戦時中の乗艦・空母エンタープライズのスクラップが決定。ハルゼーが保存委員会の委員長を務めていたが叶わなかった。
1959年8月16日、ロングアイランド(ニューヨーク州)で心臓発作により死去(76歳)。国葬となり、アーリントン国立墓地に埋葬された。
余談
- チェスター・ニミッツはハルゼーを「卒の中の将」と評し、アーネスト・キングは「頭の悪い奴」と評した。上層部からの戦争指導者としての評価は低かったが、兵卒からは絶大な人望があった。
- ジョン・F・ケネディ大統領がPTボート艇長をしていた時、ハルゼーの就任演説の「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、ジャップをもっと殺せ!お前が職務を上手く遂行すれば黄色い雑種を殺す力になることができる」が標語としてツラギ基地の入り口に掲げられていた。
- 彼の功績を讃え、リーヒ級ミサイル巡洋艦8番艦とアーレイバーク級ミサイル駆逐艦47番艦は「ハルゼー」と命名された。
- ニミッツはサンベルナルジノ海峡守備を放棄して第三艦隊を攻撃に向かったハルゼーを呼び戻すため「第34任務部隊は何処にありや? 全世界は知らんと欲す」と暗号電文を打った。「全世界は知らんと欲す」は敵が暗号文を解読し難いよう付け加えた無意味な語句だったが、あまりに文章として通っているので暗号を解読した担当が「全世界は知らんと欲す」を削除する事無くハルゼーに届け、ハルゼーは揶揄されていると思い激怒した。しかし自制心を取り戻し、小沢艦隊攻撃から栗田艦隊への対応に主力を向けた。
- アメリカ海軍の航空畑の第一人者の一人であったが、珊瑚海海戦には間に合わず、ミッドウェー海戦では皮膚病で入院した為に参加できない、ガダルカナルの戦いでは南太平洋方面軍司令官となって現場での指揮が出来ないなど、彼が機動部隊の指揮を直接執って日本機動部隊と交戦した事はレイテ沖海戦しか無かった。レイテ沖海戦での「Bull's Run」はマリアナ沖海戦でスプルーアンスがマリアナ上陸部隊護衛を優先して、日本海軍主力を取り逃したと批判された事から、そのような批判を受けない為に日本軍の主力と思われた囮の小沢艦隊攻撃に全力を投じたためであった。
- 友情に厚いところがあった。
- 駆逐艦オズボーン艦長の職を離れる際には、後任となるスプルーアンスを気遣って乗組員に「新任の艦長が生真面目だからといって煙たがらないように、これ以上公明正大で有能な艦長はいない」という内容を述べ、また皮膚病で入院した折には航空畑ではなく大砲屋のスプルーアンスを後任に抜擢して驚かせている。
- 真珠湾攻撃の責任をとらされ左遷されたキンメルは海軍兵学校の同期で、ハルゼーの結婚式では案内係を務めた。ハルゼーは太平洋艦隊司令長官としてのキンメルの仕事ぶりを高く評価し擁護している。
- 敗北主義的であるとして南太平洋方面軍司令官を解任されたゴームレーとは海軍兵学校時代、アメリカンフットボールのチームメイトで長年の友人であった。ハルゼーが南太平洋方面軍司令官就任の命令に最も厄介な任務だと感じたのは、厳しい戦況の他にも親友の経歴に疵をつける役割を自分が取るためであった。