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フランク・J・フレッチャー

ふらんくじゃっくふれっちゃー

フランク・J・フレッチャーは第二次世界大戦初期に活躍したアメリカ海軍の軍人である。
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フランク・ジャック・フレッチャー(1885年4月29日~1973年4月25日)

アメリカ海軍軍人フランク・F・フレッチャー海軍大将は伯父にあたる。


来歴編集

生誕より編集

1885年4月29日、アイオワ州マーシャルタウンで誕生。

1906年に海軍兵学校を卒業し、1908年海軍少尉に任官。2年間の海上勤務を皮切りに、海軍工廠、海軍省人事局などに勤務。

1914年4月、フランク・F・フレッチャー大西洋艦隊第1艦隊司令官坐乗の戦艦フロリダ」(BB-30)に乗り組んで、メキシコベラクルス占領に参加し、名誉勲章を受章。

同年7月の第一次世界大戦勃発後は、哨戒艇駆逐艦の艦長として中立監視パトロール、アメリカ参戦後は船団護衛に従事し、海軍殊勲章を受章。


戦間期はワシントンの海軍作戦本部や太平洋・大西洋艦隊で勤務につく。その間1930年に上級士官の教育機関である海軍戦争大学を修了している。


太平洋戦争編集

1941年12月8日、太平洋戦争が勃発する。日本海軍が真珠湾攻撃。フレッチャーは海軍少将として重巡洋艦ミネアポリス」(CA-36)を旗艦とする第四巡洋艦部隊指揮官の職にあり、艦隊はハワイ南方で砲術訓練をしていた。

12月31日、空母ヨークタウン」を旗艦とする第17任務部隊の指揮官となった。


1942年5月8日、第17任務部隊は珊瑚海で日本海軍空母機動部隊と交戦(珊瑚海海戦)。空母「祥鳳」、駆逐艦菊月」を撃沈するが、空母「レキシントン」、駆逐艦「シムス」を失った。


6月5日、第17任務部隊はミッドウェー島北方海域で第16任務部隊レイモンド・スプルーアンス海軍少将)と共に連合艦隊と交戦(ミッドウェー海戦)。第16任務部隊司令官であったウィリアム・ハルゼー海軍中将が病気療養でスプルーアンス提督に指揮を譲っていた為、スプルーアンスとは同じ階級であったが、フレッチャーが先任の提督として全艦体を指揮する事となった。第17任務部隊は「ヨークタウン」、駆逐艦「ハムマン」を失ったが、日本の主要4空母(「赤城」、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」)と重巡洋艦「三隈」が戦没し、連合艦隊は撤退。フレッチャーは海軍中将に昇進し、第61任務部隊(旗艦「サラトガ」(CV-3))に移った。


8月8日、ガダルカナル島への上陸作戦を援護中、日本軍の空襲を受ける。フレッチャーは貴重な空母を危険に晒す事を嫌って上陸作戦に消極的で、南太平洋海軍部隊指揮官ロバート・ゴームレー海軍中将に一時退避の旨を伝え、上空援護を独断で放棄し撤退。ゴームレーは4時間後にこれを追認した。


8月23日、第61任務部隊はガダルカナル島への日本の増援部隊、その支援部隊と交戦(第二次ソロモン海戦)。空母「龍驤」、駆逐艦「睦月」を撃沈した。海戦はアメリカ側の勝利に終わったが、日本軍を追撃しなかった事で、アーネスト・キング海軍大将(合衆国艦隊司令長官海軍作戦部長)に批判された。

8月31日、「サラトガ」がエスピリトゥサント島北西沖で「伊26」の雷撃を受け、フレッチャーをはじめ、幕僚や乗組員が多数死傷した。

フレッチャーは静養も兼ねて後方の任務に回されることになった。


11月、第13海軍管区の指揮官及び北西海域の指揮官となる。

1943年、北太平洋方面の指揮官となり、終戦までその職を務めた。

1945年2月4日、第90任務部隊千島列島に侵攻し、幌筵島に砲撃を加えた。


退役後編集

1947年に海軍大将に昇進、退役した。


1973年4月25日、メリーランド州のベセスダ海軍病院で死去。享年88歳。アーリントン国立墓地に埋葬された。


余談編集


別名・表記ゆれ編集

フランク・フレッチャー フランク・ジャック・フレッチャー F・J・フレッチャー


関連タグ編集

アメリカ海軍 軍人 フレッチャー級 フランク・F・フレッチャー

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