ここでは史実でのフレッチャー級駆逐艦について解説する。
これをモチーフとした艦船擬人化作品におけるフレッチャー級については、以下を参照のこと。
概要
第二次世界大戦中に製造されたアメリカ海軍の駆逐艦の艦級。一番艦の艦名はフランク・F・フレッチャー海軍大将から。
カサブランカ級護衛空母、ガトー級潜水艦、リバティ輸送船などと共に、アメリカの戦時量産艦艇の代表で、同型艦は175隻で史上最多の駆逐艦である。この数は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦時に所有していた駆逐艦(開戦時の111隻と戦争中竣工の63隻:計174隻)よりも多い。
日本が1936年1月15日にワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約から脱退した後、アメリカ海軍で量産した駆逐艦はベンソン級、グリーブス級、ブリストル級だったが、これらは軍縮条約を引きずっていた(日本の朝潮型駆逐艦は1937年より竣工)。
1942年から軍縮条約の影響を脱した2,000t級の駆逐艦、フレッチャー級の竣工が始まる。
兵装
Mk.12 5インチ両用砲(単装5基5門)が採用され、対空射撃レーダーを組み込んだGFCSが装備された。太平洋戦争時には1.1インチ対空機銃をボフォース40mm連装機関砲、ブローニングM2 12.7mm機銃をエリコンSS 20mm機関砲に更新している。
後にはイギリスの技術協力によりヘッジホッグ対潜迫撃砲が追加装備され、対潜能力も向上した。
雷装は533mm 5連装発射管(2基)を備え、Mk15魚雷を使用した。日本海軍の駆逐艦より雷装は控えめである。ルンガ沖夜戦では雷撃に「待った」をかけられて獲物を逃した一方で、セント・ジョージ岬沖海戦では巧みな指揮・戦術によって、日本駆逐艦相手にお株を奪う先制雷撃で「完勝」を遂げている。
何隻かは航空機用カタパルトを装備した航空駆逐艦に改造されたがトップヘビー気味だったのがさらに酷くなったため元に戻された。
機関
効率の高い高温高圧缶(蒸気圧力43.3キロ/平方センチ、蒸気温度454℃)を採用し、機関部のコンパクト化を図っている。出力では劣るものの、データ上はあの島風(蒸気圧力40キロ/平方センチ、蒸気温度400℃)さえ上回る高温高圧缶である。こんなのを680缶(1隻あたり4缶、後続艦も含めればそれ以上)も生産するアメリカって……
さらに隔壁を設け主機と缶を分離した、2基2軸のシフト配置方式により生存性を高めている。(スペースが余分に必要なため、日本では松型駆逐艦以外採用されなかった。これも小型高出力の機関で実現できたレイアウトである)
船体
前級までの長船首楼型から、一面にフラットな平甲板型が採用された。航海性能をやや犠牲にして強度を追求した設計になっている。
軽量化のため、電気溶接を多用して建造された。装甲は施されていないが、スプリンター(断片)防御のため、主船体や上甲板、艦橋などに肉厚のST鋼を用いて、防御を強化している。ただし、ST鋼の溶接は一筋縄ではいかず、当時は温度管理などに気を遣ったらしい(それでも175隻……)
船体の大きさに余裕があったため、実運用では問題は少なかったが、さすがに大戦後期は対空火器などの増設でトップヘビー気味になり、後期建造艦では艦橋の鋼材を薄くしたり、方位盤の支柱を短縮するなどの対策が必要となった。
舵が1枚しかない点も問題で、旋回半径は米駆逐艦の中でも最大(最悪)クラスだった。このため、朝鮮戦争時に復帰した艦は舵を大ぶりのものに交換し、次級のアレン・M・サムナー級では2枚舵に改良している。
数の力(空前絶後の大量建造)
前述の通り、フレッチャー級は第二次大戦中に同型175隻という大量建造が実施された。これはアメリカ海軍のみならず、世界レベルで見ても空前絶後の建艦数である。
ただし、ただ頭数が多いだけではない。
アメリカは第一次大戦当時も、いわゆる平甲板型駆逐艦(コールドウェル、ウィックス、クレムソン各級)の大量建造を経験している。これらは総数ではフレッチャー級をも上回っていたが、あまりにも急激な建造・増勢であったため、造船所や主機のメーカーごとに品質、性能のばらつきが大きく、機関不調の艦は大戦終結後、早期の除籍に追い込まれている(一方で、状態の良い艦の中には第二次大戦まで活躍した例も見られたが)
これに対し、フレッチャー級は前例のない大型駆逐艦であったにもかかわらず、175隻という多数が建造され、しかも艦ごとの性能に差が少なく、安定していた。
加えて、フレッチャー級に留まらず、その改良型であるアレン・M・サムナー級58隻、ギアリング級98隻(計画では152隻)までリリースされ、しかも、これが全て戦時中に実行されたと考えれば、アメリカの大量生産、品質管理の底力は、正に驚異的と言うほかはない。
戦後
第二次世界大戦が終結すると、過剰になったフレッチャー級は各国に貸与、あるいは売却された。“嫁入り”先は当時の西ドイツ、ギリシャ、ブラジル、韓国などヨーロッパからアジアまで多岐にわたった。特に台湾、メキシコに嫁いだ艦は長寿を保ち、メキシコでは21世紀まで使用された。
日本の海上自衛隊にも貸与され、「ありあけ(ヘイウッド・L・エドワーズ)」「ゆうぐれ(リチャード・P・リアリー)」が1970年代まで訓練、試験などに利用された。珍しくモスボール状態のままで引き渡され、日本で復旧工事が行われている。
当時は既に国産の護衛艦も就役しだしていたが、実際に「ありあけ」「ゆうぐれ」を目にした関係者からは、「あらゆるところに高級材料が用いられ、“持てる国”の艦との思いを新たにした」といった証言も残されている。戦時に建造されたのに。
特に「ありあけ」は、後に2番砲塔をMk.108対潜ロケット砲(ウェポン・アルファ)に換装、さらに新型のバウ・ソナー(低周波ソナー)のテストのため、1番砲塔を撤去の上、艦首を丸ごと交換するなどの改装を経て、艦容が大きく変化した。
2隻とも15年の貸与期間を終えると、アメリカに返還、後に解体されている。
既に海外艦も含めて全艦が退役しているが、博物館船として米国内に3隻、ギリシャ国内に1隻が保存されている。
次級
フレッチャー級の次級として1944年よりアレン・M・サムナー級が就役を開始した。
しかし船体サイズはほぼ同じにもかかわらず、兵装の搭載量が20%以上アップしてしまったため、これにより復元性や速力に問題が出てしまった。
なおこの問題が解決されるのは更に次級のギアリング級になる。
コブラ台風
1944年12月18日、コブラ台風に巻き込まれたフレッチャー級駆逐艦スペンス(DD-512)が横転、船体が切断し沈没した。他にファラガット級のハル(DD-350)、モナハン(DD-354)も沈没、8隻の空母を含む多数の損傷艦を出し、790人の兵士と100機以上の航空機を失う大惨事となった。
これを例にあげてフレッチャー級の復元性が悪かったとする意見もあるが、
- 長時間の戦闘で燃料を消耗していた上に、荒天のため補給もままならず、燃料タンクが空になっていた。
- 沈没した各艦は、空のタンクに海水を充填するなどの安全措置を怠っていた、または不徹底だった(中途半端な充填は、タンク内で海水が波打って、かえって危険である)
- そもそものコブラ台風が当時のアメリカ観測史上2番目(最低気圧907hPa以下、最大風速62m/s、第四艦隊事件時の台風の2倍以上)という、現代で言うスーパー台風並の記録的大型台風だった。
- 台風の進路予測も外れていた。
などの複合的な要因があった点も勘案すべきであろう。
実際に、燃料タンクが空になっていなかった、あるいは適切な対処をしていた他のフレッチャー級や、トップヘビーの傾向が強いとされていた旧型の駆逐艦でさえ、問題なくコブラ台風を乗り切っている。
実際の乗員も、平甲板型故に「前甲板が濡れやすい」といった不満はあったものの、フレッチャー級の航海性能を高く評価していた。
一方で第四艦隊事件で教訓を得ていた日本海軍は大戦中、台風による被害を出さなかった。しかし、第四艦隊事件であらわになった問題点は船体の構造(強度不足)で、そもそもコブラ台風事件とは似て非なる話なので、注意が必要である。
(旋回時の傾斜から復元できずに転覆した友鶴事件とも話が違う)
余談
珊瑚海海戦やミッドウェー海戦において第17任務部隊(旗艦ヨークタウン)を率いたフランク・J・フレッチャー少将(当時)は、フランク・F・フレッチャーの甥である。