背景
ソロモン諸島のガダルカナル島近海で行われた数々の海戦の結果、日本海軍は周辺海域での制空権を失うことになった。そのため、ガダルカナル島に展開している日本陸軍部隊への物資補給が、輸送船に対する空爆により極めて困難となっていた。そのため鈍足の輸送船の使用を諦め、高速航行可能な駆逐艦に物資を積み込んで夜間の間に輸送を完了することを目的とした計画を日本海軍は立案する。
当初はその場しのぎの一時的なものとして考えられていた駆逐艦による輸送計画だが、それ以外の有効な輸送手段が皆無に近かったことから、ガダルカナル島からの撤退まで常態化することになる。なお、日本海軍の駆逐艦は武装は豊富であるものの物資揚陸用設備や装備は皆無に近かったことから輸送効率は極めて低く、現場の指揮官や水兵たちからは不満や反対の声が上がっている。また作戦を命令する立場の第八艦隊司令部は、「夜になると活動が活発になる鼠のようだ」という自嘲の意味を込めて鼠輸送と呼称(アメリカ側は東京急行と呼称)していた。
作戦までの経緯
1942年11月27日までに輸送作戦に参加する艦艇を第二水雷戦隊(以下、二水戦)から抽出した日本海軍は、二水戦司令官の田中頼三少将を指揮官に任命して輸送作戦を開始している。それに先立って、田中少将は作戦予定日の月の明るさ(下弦の半月より若干の明るい更待月)によってアメリカ軍の哨戒部隊に発見される危険性が高いこと、訓練不足により作業時間が遅延した場合、撤退が間に合わず夜明け後に空襲を受ける危険性が高いことなどを理由にあげ、万全を期すために延期すべきという意見具申を繰り返し行っているが、却下されている。
輸送作戦に参加した駆逐艦は8隻、うち6隻が艦隊決戦用駆逐艦として建造された陽炎型駆逐艦や夕雲型駆逐艦であり、しかも全てが九三式魚雷、いわゆる酸素魚雷を竣工時より搭載している艦であった。
田中少将は夕雲型駆逐艦4番艦長波を旗艦とし、6番艦高波とともに警戒隊を編成する。残り6隻は輸送隊として魚雷も発射管に装填している分のみとし、予備魚雷は降ろし物資を詰めたドラム缶を積んで出撃する。(※被弾時に誘爆がなかったことから、高波も予備魚雷を降ろしていたという説も有る)
一方、アメリカ海軍は偵察中だったB-17からの報告でその動きを察知し、迎撃のために重巡洋艦4隻を中核とした計11隻からなる巡洋艦隊(第67任務部隊)を派遣している。余談ながら、連合国軍の重巡陣は第一次~第三次ソロモン海戦での沈没または大破による戦線離脱などにより実働艦が激減しており、本海戦に投入されていた4隻はまさに虎の子であった。
ルンガ沖での遭遇
11月30日の20時頃にガダルカナル島近海に到着した日本艦隊は、高波を前方警戒のために先行させつつ、輸送隊はドラム缶投入の準備作業に入る。21時過ぎに付近を索敵中だったアメリカ艦隊のレーダーが日本艦隊を探知し、ただちに攻撃態勢に入った。ただし、単独行動中の高波と輸送隊それぞれを別々の艦が探知したことから、どちらに攻撃を仕掛けるべきかで混乱が発生し、それが攻撃開始の遅れへとつながった。
日本艦隊側は21時12分に高波が、その1分後には黒潮の見張り員がそれぞれ米艦隊を発見する。輸送隊は本来の輸送任務を優先して、警戒態勢しながらもドラム缶投下の作業を続けた。しかし高波からの続報などにより、敵艦隊が既に輸送隊を発見して攻撃態勢に入っている見られたため、21時16分に田中少将はドラム缶投下の中止と突撃命令を下してる。
21時20分、米艦隊はレーダー照準により雷撃を開始するものの、輸送隊までは距離がありすぎて命中せず、単艦行動中だった高波は魚雷の射界から外れていたために雷撃を受けることがなかった。さらに巡洋艦のレーダーにはガダルカナル島の影と日本艦隊の影が混ざって表示されたために砲撃戦に移行できず、比較的近くに居てレーダーにもハッキリ表示されていた高波に砲撃が集中することとなった。
単独で先行していた高波は主砲2斉射で駆逐艦2隻を炎上させ、更に魚雷8本を発射するものの、圧倒的な数の差から苛烈な反撃を受けて戦闘開始から僅か2~3分で大破炎上し、海上で停止してしまう。「息をすることすら出来なかった」と後に生存者が語り、他艦の乗組員の中には「袋叩きにされる姿を見て涙混じりに合唱念仏をする者すら居た」というほどの集中砲火は、命中弾だけで50発以上、照明弾に照らされた艦体は常に水柱に囲まれ、他艦からは視認すら困難だったという。
しかし、高波の果敢な突撃により攻撃態勢を整える時間を稼ぐことが出来た輸送隊各艦は、まず旗艦長波が雷撃を敢行して反転退避、後続の江風、涼風も同じく雷撃後に右反転して長波に続行。長波より先行していた第十五駆逐隊の親潮、黒潮、陽炎及び第三一駆逐隊の巻波は、十五駆司令・佐藤寅治郎大佐の指揮によりそのまま航行し、敵艦隊をやり過ごしてから右反転し同航とし、親潮、黒潮が敵左舷後方から雷撃を実施する。また、この右反転の際に先行の黒潮らを見失った陽炎、巻波は独自に敵艦隊を追撃、重巡ノーザンプトンに対して雷撃を敢行した。
こうして日本艦隊より放たれた絶大な破壊力をもつ酸素魚雷は、高波への砲撃に気を取られすぎていた重巡4隻に襲い掛かり、瞬く間に4艦全てを命中数1~2本で大破・戦闘不能へ追い込み、後に1隻が沈没という結果となった(高波から発射された魚雷も命中していた可能性が高いとされる)。
主力の重巡が受けた大損害に驚いた米艦隊は後退を決断し、また残存艦の内で予備魚雷は長波以外に積んでいない(とされているが、実際に積んでいたかは不明である)ため、輸送隊も戦線を離脱する。23時頃、辛うじて海上に浮かんでいた高波の乗組員救助のために黒潮と親潮が向かうものの、敵艦接近の報により接舷を断念し撤退している。ただし、このとき接近していた敵艦は、既に雷撃を受けて戦闘不能になっていた重巡(ペンサコラといわれる)であり、高波に対して何ら行動を起こすこともなく500メートル程のところを通過している。
その後、残敵掃討のために戦場に舞い戻った米駆逐艦からの魚雷1本が命中し、高波に搭載されていた爆雷などが誘爆、それがとどめとなり高波は沈没した。艦から脱出し海に飛び込んでいた100名ほどの乗組員は、爆発による衝撃波により多数が圧死、更に流れ出していた重油に引火して発生した大火災に巻き込まれた。最終的な生存者は33名、高波艦長の小倉正身中佐は砲撃戦の最中に右半身に致命傷を負い戦死、脱出を指揮した第三一駆逐隊司令の清水利夫大佐は爆発後に行方不明となる。
結果
この海戦により、日本側は重巡4隻を撃破・撃沈し艦隊戦としては勝利したものの、肝心の物資揚陸は出来ておらず、輸送作戦としては失敗に終わる。特に司令官の田中少将への批判は大きく、後に陸上勤務への左遷への一因ともなった。なお、ルンガ沖夜戦時を含めて4回のドラム缶輸送作戦が田中少将の指揮のもとで実行されるが、連合国軍の妨害に悩まされ続けることとなる。ドラム缶の投下に成功したのは2回、そして2回とも飢餓状態で体力が低下した陸軍兵士では全てを引き揚げることが出来ず、夜明け後に飛来した敵戦闘機からの機銃掃射により大半が破壊されて喪失している。
アメリカ海軍は一夜にして貴重な重巡を4隻を前線から失うこととなり、その穴埋めとして軽巡洋艦を代用とするようになる。この夜戦以降から新型軽巡の戦線投入と損傷した重巡の戦線復帰まで、日本海軍の重巡部隊や水雷戦隊相手に苦しい戦いを続けていた。その一方、狭い海域に大型艦を投入すると身動きが取れなくなるという戦訓から、小型快速の魚雷艇による一撃離脱攻撃と、航空機からの機銃掃射によるドラム缶の破壊へと作戦を切り替えている。
評価
この海戦に対しての評価は日本側とアメリカ側で全くの正反対となっており、日本側では低い評価、アメリカ側では高い評価となっている。
日本海軍の上層部からは「輸送作戦を完遂すべきだった」、指揮下の部下たちからは「敵艦を徹底的に叩くべきだった」と相反する不満が噴出したことが原因で海戦の勝利が誰からも賞賛されていないことと、間に挟まれた田中少将の作戦前後の言動に対する反発が合わさった結果とも言える。ただし、輸送作戦完遂を目指した場合はアメリカ艦隊からの一方的な攻撃を受けることとなり、戦闘続行を目指せば魚雷が尽きた状態で戦うことになるため最終的な損害が膨れ上がる可能性が高いことから、田中少将の判断を擁護する意見も存在する。
一方のアメリカ側では、ドラム缶投下準備中で速力を落していた状態で奇襲を受けたにもかかわらず、突撃を決断して格上の重巡4隻を戦闘不能に追い込んだ田中少将の指揮を評価している。また、集中砲火を受けながらも時間稼ぎに成功した高波を「攻撃タイミングが早すぎて無用の集中砲火を自分から受けた」と批判しつつも、上記の熾烈な砲撃を受けてなお浮かび続けたことから「素晴らしく被害に強い船だった」と賞賛している。ただし、日本側と評価の基準での違いが多く、そのために高評価になっている点は否めない。