ピクシブ百科事典

田中頼三

たなからいぞう

大正から昭和の太平洋戦争期にかけての海軍軍人、最終階級は海軍中将。 (メイン画像左)
目次[非表示]

太平洋戦争開戦時の第二水雷戦隊司令官、山口県出身。生粋の駆逐艦乗りで優秀な水雷屋として名を馳せていたが、慎重でマイペースな指揮を行うので、敢闘精神を重視する上層部からは嫌われていた。さらに世界最強の水雷戦隊という矜持に満ち過ぎた部下たちからも同様に反発されており、戦中及び戦後しばらくは双方の証言と著作が原因で低い評価を受けていた。

経歴

太平洋戦争前

1892年(明治25年)4月27日に山口県山口市の本間家の三男として誕生し、旧制中学卒業後に同じ山口市の田中家の養子になる。その後、海軍兵学校に入学し41期生で卒業する。同期生に日本海軍屈指の水雷戦隊司令及び艦隊指揮官の木村昌福中将甲標的開発に深く関わり産みの親と称される原田覚中将、硫黄島の戦いにて『ルーズベルトニ与フル書』をしたためて戦死した市丸利之助少将(死後中将に特進)などが居る。

第一次世界大戦時は地中海に派遣されることになった第二特務艦隊司令部に、尉官時代の田中提督が実践派の水雷戦専門家として招聘されている。余談ながら第二特務艦隊は、第一次世界大戦で海外に派遣された日本艦隊の中で潜水艦の雷撃を受けるなど最も危険な任務に就いている。その活動はわずか1年半程度であるが連合国側の各国元首から賞賛され、第二特務艦隊は『地中海の守護神』と称えられ、マルタ島のイギリス海軍墓地には戦死者の慰霊碑が建立されている。

太平洋戦争開戦

開戦直前に第二水雷戦隊の司令官に着任した田中提督は、最新鋭の陽炎型駆逐艦を始めとした精鋭駆逐隊を指揮下に置き、主に旗艦である神通に座乗している。
開戦後はフィリピン東南アジア方面での侵攻作戦に従事し、スラバヤ沖海戦にも参加している。ミッドウェー海戦ではミッドウェー島攻略担当の第二艦隊(旗艦、愛宕)の護衛隊として参加しているが、南雲機動部隊の壊滅により作戦続行不可能となり撤退となった。

ガダルカナル島の戦い

ガダルカナルを巡る戦いでは過酷な状況下での索敵や輸送作戦に従事することとなり、第二次ソロモン海戦では神通が空襲により中破している。この頃、田中提督は上層部及びガダルカナル島上陸部隊と戦術を巡って対立しており、第三水雷戦隊と上陸部隊護衛任務を交代することとなる。ただし第三次ソロモン海戦時に、田中提督は海戦後の状況が混乱としているスキに輸送船を故意に揚陸地点に座礁させて将兵と物資の揚陸を短時間で完了するという奇策(ただし、浜辺から運び出しきれなかった物資や兵器は夜明け後に空襲を受けて失われている)を用いており、同方面での輸送作戦は引き続き任されていた模様。

ルンガ沖夜戦

ガダルカナル島周辺の制空権を奪われることになった日本軍は、鈍足で空襲を避けきれない従来の輸送船から、高速で夜間の間に物資を届けることが出来る駆逐艦を用いて兵員や物資の輸送を計画する。特に物資については短時間で駆逐艦から降ろすために、中身を半載して海面に浮かぶようにしたドラム缶を数珠繋ぎにした上で海上投下し、浜辺で待つ陸軍兵士に牽引揚陸させる輸送作戦(俗称、鼠輸送)を展開する。

田中提督自身は物資搭載量の少ない艦隊決戦用駆逐艦を運用想定外の輸送任務に使用することに関して強く反対してた。しかしガダルカナル島で飢えと病に苦しむ日本軍将兵の惨状と、「あくまで急場しのぎの一時的なもの輸送作戦」と考えている上層部に押し切られる形で、第二水雷戦隊のうち駆逐艦8隻を率いて輸送任務に就いた。しかし、輸送作戦を阻止したいアメリカ軍はその動きを察知し、重巡4隻を主体とした11隻の艦艇で構成される巡洋艦隊を派遣し、ガダルカナル島ルンガ岬沖にて両軍は相対することになった。田中提督は輸送任務完遂のために夜闇に紛れてアメリカ軍をやり過ごすことを考えていたが、攻撃態勢をとっている敵艦隊の様子から戦闘が避けられないことを悟り、ドラム缶の投下中止と全艦突撃命令を出して反撃を開始している。

戦闘そのものは日本軍の勝利に終わるものの、肝心の輸送作戦は失敗に終わる。さらにこの海戦から、狭い海域に艦艇を派遣するより航空機による襲撃や小型高速の魚雷艇による一撃離脱攻撃が効果的という戦訓を得た(この戦訓は後のレイテ沖海戦スリガオ海峡海戦における西村艦隊迎撃や、海戦後の日本海軍の輸送作戦(多号作戦)対策にも用いられる)アメリカ軍により、その後のドラム缶を用いた輸送作戦は成果が上がらない状況に陥っている。

この作戦中、田中提督自身が座乗する駆逐艦照月は、ドラム缶投下で見張り員すら満足に配置できない状況下で魚雷艇の雷撃を喰らって沈没している。この一件について、元部下が戦後に著作で照月の部隊中央への配置や田中提督の判断を批判している。しかし、この元部下は自分の好いている対象を徹底的に美化(自分の子供や孫を生誕直後に絶世の美形と記していた)する反面、嫌悪する人物をこれまた徹底的に卑下(野獣のような顔付など)する点が多く、客観的かつ合理的な分析を行っているかについては疑わしい。
余談ながら、照月沈没後に第八艦隊司令部で行われた検証で田中提督の指揮判断に誤りは無いという判定が下されている。そもそも物資投下の現場指揮を執るべき指揮官がそれを監督せずに、部隊の先頭に立って索敵や迎撃を行うのは作戦目的に全く合致しない本末転倒な判断と言える。

なお、田中提督が指揮した鼠輸送作戦は合計4回あるが、うちにドラム缶の投下に成功したのは2回のみ。そして、2回とも飢餓状態の日本陸軍将兵では揚陸させることが出来ず、夜明け後に機銃掃射を食らってドラム缶の大半は海の藻屑と化している。


陸上勤務

1943年1月、田中は第二水雷戦隊司令官を解任の上、陸上基地勤務を命じられる。そのまま海上勤務に戻ることもなく、ビルマ方面の臨時設置基地の管理・警備の責任者として終戦を迎えていることから、左遷というより流刑に近い扱いを受けている。

戦後

戦中の低評価が祟ったためか戦後は伝記が組まれるなど英雄視されることもなく、特に特筆すべき事柄のない平穏な日々を送っている。取材に訪れた作家に対して、「することが無さ過ぎて(陸上勤務を任されてから今に至るまで)ずっと晴耕雨読の生活をしている」という趣旨の発言をしている。

1969年(昭和44年)7月9日、死去。

評価

日本側の評価では田中提督は敢闘精神に欠けるとして、上層部や部下たちから批判されている。しかし、宇垣纏連合艦隊参謀長が「現場から遠く離れた参謀たちが好き勝手に文句を言うのはどうかと思う」という意味合いの発言をしているため、上層部全体が嫌っていたのではない模様。

指揮官先頭突撃による果敢な戦闘指揮を好む部下たちからは反発されているものの、先頭に立った旗艦が集中砲火を浴びて早々に轟沈し指揮系統が乱れるという実例が発生しているため、戦局を中衛ないし後衛から俯瞰して確認しつつ指揮を取る田中提督の姿勢は決して的外れではない。
田中提督更迭後に発生したコロンバンガラ島沖海戦では、先陣を切って突撃した旗艦神通が集中砲火を受けて司令官と司令部要員が全滅し、実戦経験豊富な前線司令部そのものが消滅するなど、人材面で大きな損失が発生している。第二水雷戦隊司令部は、他の水雷戦隊司令部から人材を転属させることで形だけは元通りになった。だが、それにより他の水雷戦隊を解隊することに繋がったり、体裁を整えるための昇進を行ったことでの人材面での質の低下が見られるなどの影響が発生している。

また太平洋戦争開戦後、比較的初期段階から制空権の重要性と航空支援のない水雷戦隊が空襲に対して脆弱であることに気付いており、航空戦を軽視する同僚や上司との対立もあった。これらの事柄やガダルカナル島方面での作戦行動について慎重論の立場から反対意見を述べていたことから、煙たく感じた現地司令部の判断により陸上勤務への左遷になったと言われている。

一方、アメリカ軍側の田中提督への評価は、日本側と逆の高評価である。ルンガ沖夜戦では駆逐艦高波の突出による時間稼ぎが功を奏したとはいえ、数と質で勝る重巡艦隊から奇襲攻撃を受けた状態からあえて突撃命令を出して撃退に成功しているなど、田中提督の冷静沈着な状況判断能力に評価点を見出している。
このアメリカ軍からの賞賛を聞いた田中提督は「自分は突撃を命令しただけ、活躍したのは部下たちの方」と答えるに留まり、自身の判断について深く語ることもどこかの陸軍中将のように自己正当化の根拠にすることもなかった。

ただし、これらの証言や資料をもってしても、戦中の作戦指揮において優秀な戦闘指揮官であると断定しきるだけ(そして、愚将と断じるだけ)の言動が乏しいことから、未だに評価が定まっていない点もある。

逸話

飲酒すると歌いながら踊りだす奇癖があった。

ルンガ沖夜戦時、敵重巡からの砲撃が座乗していた駆逐艦長波の周囲に次々と着弾したが、田中提督はその砲撃の腕前についてのんびりと批評している。次の瞬間にも直撃弾を食らって戦死する危険性がある状況下での発言に、それを聞いた周囲の者たちは「豪胆なのか、冷静なのか(もしくは状況が理解できないほど愚かなのか)」と判断に困った模様。

ケネディ大統領が戦死しかけたときの日本軍側指揮官が田中提督である、という都市伝説が存在している。しかし、ケネディ大統領が乗っていた魚雷艇が沈んだときには既に陸上勤務に左遷させられていたため、実際には別人によるものである。→駆逐艦天霧

関連タグ

木村昌福 橋本信太郎 原田覚 市丸利之助
第二水雷戦隊 ルンガ沖夜戦
神通 長波 高波 照月
ドラム缶

pixivに投稿された作品 pixivで「田中頼三」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 17439

コメント