ピクシブ百科事典

橋本信太郎

はしもとしんたろう

大正から昭和の太平洋戦争期にかけての海軍軍人、海軍中将。
目次[非表示]

太平洋戦争期に南方方面で作戦に従事した日本海軍将官、和歌山県出身。太平洋戦争末期に発生した第二次世界大戦最後の水上戦闘と言われるペナン沖海戦にて戦死。
練達の水雷戦隊指揮官として知られているが、水雷戦隊のみで行うことを想定されていない物資輸送作戦や兵員収容作戦においても優れた指揮実行能力を発揮しており、戦中より上層部からその手腕を高く評価されている。

経歴

太平洋戦争開戦前

生年、1892年(明治25年)5月11日。
和歌山県の農家の生まれで長じて海軍軍人を志し、海軍兵学校を41期生で卒業する。同期生に連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将、キスカ島撤退作戦礼号作戦を指揮した木村昌福中将、第二水雷戦隊司令官田中頼三中将などが居る。
海軍大尉任官時に海軍水雷学校高等科学生となり、その後は駆逐艦艦長から始まり駆逐隊司令、水雷戦隊参謀、後に司令と水雷畑を歩むことになる。また、旅順要塞参謀長や重巡洋艦筑摩艦長、戦艦日向艦長なども歴任している。

太平洋戦争開戦時

開戦直前の1941年9月に輸送船団の護送や戦艦空母部隊の護衛を主任務とする第三水雷戦隊司令官に着任し、開戦後はインドシナ半島方面での陸軍上陸作戦の支援や輸送部隊護衛を指揮する。インド洋でのイギリス海軍東洋艦隊撃破を目的として行われたセイロン沖海戦では、重巡鳥海空母龍驤を中核とする第一南遣艦隊の一員として参加している。ミッドウェー海戦では主力部隊の護衛任務に就いていたが、空母部隊の壊滅により、為すこともないまま撤退することになった。
1943年にソロモン諸島方面を担当する第八艦隊に編入される。そして餓島と呼ばれた激戦の地ガダルカナル島の攻防と輸送支援、その後の撤退作戦に深く関わることとなる。

ガダルカナルの攻防、そして鼠輸送とケ号作戦

ガダルカナル島での攻防では、第三次ソロモン海戦の第2夜戦での戦闘記録が残されている。
橋本が指揮する第三水雷戦隊は索敵中に米海軍艦隊と接触し、軽巡洋艦川内を中核とした本隊は交戦しつつも形勢不利を悟って後退しているところに、単独行動中だった同戦隊所属の駆逐艦綾波が敵の後ろを衝く形で突撃。集中砲火を受けて轟沈するまでに米駆逐艦2隻撃沈、2隻大破、戦艦サウスダコタの指揮系統機能停止の大打撃を与えている。

個々の戦闘では優位に立つことがあったものの、ガダルカナル島近海の制海権と制空権を奪うことが出来なかった日本海軍は鈍足の輸送船を用いた輸送作戦を断念する。代案として高速航行可能な駆逐艦を用いた夜間限定の輸送作戦(鼠輸送、連合国側呼称:東京急行)を立案して、実行役に橋本が指揮する第三水雷戦隊が選ばれた。
決して成功率の高いとは言えない輸送作戦であったが、橋本自身は10回以上もガダナルカナル島へと赴いて鼠輸送の陣頭指揮を取っている。しかし駆逐艦の損害が膨れ上がり続けたために、ついに日本海軍は同島からの撤退を決定する。

1943年2月に発動したケ号作戦(捲土重来の意、余談ながらキスカ島撤退作戦のケ号作戦は乾坤一擲の意)の陣頭指揮を執ることになった橋本は、支援艦隊や殿を勤めた遅滞戦闘部隊、通信部隊の陽動偽造電文などの助けを借りつつ駆逐艦部隊を指揮して現地の残存兵力の回収に従事する。三次に渡る撤退作戦により、駆逐艦巻雲と遅滞戦闘部隊所属兵士の半数を失うものの1万3千人の兵員を収容することに成功する。
上層部の事前予想では駆逐艦10隻程度の喪失、収容兵員も数千人が限度と考えられていたため、この撤退作戦の大成功とそれまでの鼠輸送の陣頭指揮により橋本は高い評価を受けることとなる。なお、米軍は日本軍の動きを再度の大攻勢の前触れと誤認しており、作戦終了後に投棄された小型艇を発見して初めて日本軍の撤退に気付いたという。

海軍水雷学校長から第五戦隊司令官へ

ケ号作戦終了後の同年3月、橋本は水雷畑の経歴とソロモン諸島方面の活躍を買われて海軍水雷学校長に任命される。しかし、1年も経たないうちに重巡洋艦妙高羽黒を中核とする第五戦隊の司令官に就くことになり、再び激戦が続く南方方面へ赴任する。
第五戦隊司令官としてマリアナ沖海戦レイテ沖海戦に参戦。特にレイテ沖海戦のサマール沖海戦では、羽黒に座乗して重巡洋艦利根や戦艦金剛と共に米海軍護衛空母を砲撃戦で撃沈している。

レイテ沖海戦後、日本海軍は南方で孤立した部隊を第十方面艦隊として再編し、橋本が指揮する第五戦隊も羽黒と足柄を中核として再編されている。同方面には重巡洋艦高雄と妙高も居たが、大破航行不能状態であったため戦隊に編入されることもなく防空砲台として港に係留されているだけであった。

ペナン沖海戦

1945年5月、ビルマ失陥により前線が崩壊状態にあった日本陸軍は、戦線の再構築と兵力配置集中化によりイギリス軍の攻勢に対抗することを企図し、海軍に輸送支援を打診する。しかし、輸送艦がほぼ壊滅状態になっていたため、代用として大型艦であった羽黒に白羽の矢が立ち、橋本は駆逐艦神風を護衛に付けて出撃する。この時、羽黒は第2砲塔損傷で使用不可能の中破状態のうえ魚雷や弾薬を降ろして物資を甲板に所狭しと積み込み、神風に至っては魚雷発射管すら外して物資を積み込んでいた。

その動きは潜水艦隊による索敵をしていたイギリス軍に察知され、要撃及び掃討のために艦隊が派遣されている。
5月16日午前2時頃、ペナン島近海にてイギリス軍駆逐隊に捕捉されて交戦。砲雷撃戦により羽黒は大破炎上する中、橋本は護衛の神風に戦線離脱を命令(電源喪失により通信機能がマヒしており、神風に命令は届かなかったとされている)している。交戦の末、神風の撤退に十分な時間を稼いだと判断した橋本は羽黒艦長とともに総員退艦命令を出す。しかし、その直後に艦橋へ砲弾が直撃。その場に居た将兵はほぼ全滅し、奇跡的に軽傷であった生存者と救助のために駆けつけた乗組員の呼びかけに橋本は答えることがなかった。

1945年(昭和20年)5月16日戦没、満53歳。
戦死後、慣例により海軍大将への昇進も検討されたが、中将の在任期間が短かったこともあり結局昇進することはなかった。

逸話

水雷戦隊司令時代、佐世保港沖にて演習中に指揮下の水雷艇が転覆し、死者行方不明者100人以上を出す惨事が発生している。その水雷艇の名は千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」。これが後に友鶴事件と呼ばれ、第四艦隊事件とともに日本海軍全体を震撼させることとなった。

関連タグ

木村昌福 田中頼三
友鶴事件 第三水雷戦隊
川内 羽黒

コメント