概要
ワシントン海軍軍縮条約に基づき建造された10,000トン級重巡洋艦であり、青葉型重巡洋艦の発展型。艦名は新潟県の日本百名山、北信五岳の最高峰である妙高山に因む。
経歴
妙高型重巡は八八艦隊計画に基づき7,200トン級重巡洋艦として設計建造が計画されていたが、ワシントン海軍軍縮条約により前述の10,000トンとして再設計されている。主砲と魚雷、速力のいずれの点でも優れた性能を求めた軍令部に対し、設計を担当した平賀譲造船官は魚雷兵装を廃する形の試案を提示して認可させることになった・・・と言うのは誤解で平賀氏本人による一次資料である技術会議議事録において「居住性向上と軽量化の為に魚雷発射管12門搭載を主張していた軍令部を説得して8門搭載に削減する事が決定した」と否定されている。
後に平賀譲が欧州視察による不在の隙をついて、軍令部は藤本喜久雄 造船官に魚雷発射管12門+予備魚雷各2発搭載型としての再設計を命じている。この結果、戦闘力と偵察能力、速力の全てにおいて高い性能を持つ重巡洋艦となった。しかし、魚雷発射管の強引な増加とそれに伴う居住区画不足、さらには居住区追加増設などにより条約制限である排水量10,000トンを1割ほど超過している上、装甲などの防御面でやや不安な面を残している。
妙高型重巡洋艦のネームシップであるものの、昭和天皇即位記念の大観艦式に間に合わせるために2番艦の那智の就役が優先されており、4番艦であった羽黒よりも3ヶ月ほど遅く就役している。そのような事情から、以前は那智級重巡洋艦と誤解している戦史研究家や誤記されている資料も存在していた。
昭和10年には演習のために編成された第四艦隊に参加していたことから、岩手沖にて発生した第四艦隊事件に巻き込まれた妙高は船体中央部の鋲が緩むなどの被害を受けている。
戦歴
日中戦争では、昭和12年(1929年)の夏に行われた上海上陸作戦に従事している。
また妙高型重巡4隻で第五戦隊を編成し、その旗艦となっている。
1941年12月8日の太平洋戦争開戦直後は、フィリピン方面に進出しダバオやホロ攻略作戦に従事。翌1942年1月にB-17による爆撃を停泊中に受けて(太平洋戦争開戦後の大型軍艦で最初に発生した損害)、数十名の死傷者を出している。この損傷のため、第五戦隊旗艦を那智に一時移譲させて、佐世保に回航して修理を受けている。
スラバヤ沖海戦時は当初別働隊として動いていたが、姉妹艦那智と羽黒の弾薬が尽き掛けている旨の連絡を受けたことから、援軍として足柄と共に急行し連合軍艦隊を撃破している。
その後は、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ブーゲンビル島沖海戦、渾作戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等の激戦に参加する。
ブーゲンビル島沖海戦では日本海軍が得意としていた夜戦にもかかわらず、レーダーにより正確な砲撃を行ってきたアメリカ海軍に先手を取られて艦隊陣形が乱れて、衝突する艦も現れた。妙高も駆逐艦初風と衝突し、自身の被害は極めて軽微だったものの初風は艦首切断状態になって大破・航行不能(後にアメリカ軍の追撃を受けて轟沈)となっている。
混乱状態であったものの、羽黒の突出によりアメリカ軍の攻撃がそちらに向いたことから指揮系統の建て直しを図ることが出来たため、照明弾を撃ち上げての砲雷撃戦を行っている。この海戦では戦術、戦略両面において日本軍の完敗という結果になったが、この戦いに参加したアメリカ軍水兵の日誌に妙高と羽黒の巧みな砲雷撃戦についての称賛が記されている。
渾作戦では羽黒と共に参加するものの、作戦指揮の迷走と誤判断により何ら成果を出すこともないまま消耗し、マリアナ沖にアメリカ機動艦隊が襲来したことからなし崩し的に中断、あ号作戦に移行することになった。マリアナ沖海戦では司令長官の小沢治三郎中将直属部隊に配属されている。
レイテ沖海戦では栗田艦隊に所属していたが、シブヤン海での空襲で武蔵とともに被弾し、早々に落伍して戦場からの撤退を命じられた。このとき、第五戦隊司令部を羽黒に移乗させている。
レイテ沖海戦の敗北後、損傷修理のために駆逐艦潮とともに日本へ向けて航行していたが、サイゴン沖にて米潜水艦による夜間雷撃をうけて艦尾切断、航行不能となる。しかし、主砲と高角砲を使った電探によるレーダー射撃で反撃を行い、不発弾だったとはいえ命中させて、米潜水艦を大破撤退に追い込んでいる。
その後、羽黒が救援のために海防艦や哨戒艇を率いて急行してきて、無事にシンガポールまで曳航して帰還することができた。しかし、既にシンガポールの港湾施設は度重なる空襲などにより機能不全に陥っており修復不能だったことから、白地に茶と緑による迷彩を施されて防空艦として高雄とともに終戦まで港に留まることとなった。
戦後
終戦後、身動きこそ取れないものの自力で発電や通信が可能だったことから、妙高とほぼ同様の状態だった高雄は降伏処理や復員のための要員宿泊施設や通信担当として活用されていた。
その後はイギリス軍に接収されたが、引渡しを受けたイギリス海軍は妙高と高雄の処分を決定し、最終的にマラッカ海峡にて海没処分された。
それから45年以上経って海上自衛隊がこんごう型護衛艦(イージス艦)の3番艦みょうこうに襲名された。1993年4月8日に起工し、1994年10月5日に進水、1996年3月14日に就役した後に第3護衛隊群第63護衛隊に編入され、舞鶴に配備された。