概要
大日本帝国海軍が公式に重巡洋艦として最後に竣工させた高雄型の1番艦。設計は藤本喜久雄造船大佐(軽巡洋艦「夕張」を設計したことでも有名な平賀譲造船大佐のライバル)。
1927年4月28日に横須賀海軍工廠にて起工。1930年5月12日に進水。
進水式には香淳皇后が臨席し、式典の模様はラジオで実況され、1933年8月26日には横浜沖で行われた特別大演習での観艦式にて、昭和天皇が乗艦する戦艦「比叡」の供奉艦として参列した名誉ある重巡洋艦である。
就役後は第2艦隊第4戦隊(旗艦愛宕、高雄、摩耶)に所属する。
排水量1万トンという枠の中で最大限の火力を搭載して飢えた狼と呼ばれた妙高型のコンセプトを踏襲しつつ今度は排水量ギリギリの中に問題点であった狭小な居住区画の拡充や戦艦に次ぐ準主力艦として旗艦設備を押し込んだ。その為城郭のように艦橋が際だって巨大化した。
しかし台風による大被害が発生した第四艦隊事件を機に、愛宕と共に大型化しすぎた艦上構造物の縮小工事を行い若干重心を下げている。
高雄は1番艦ではあるが、同時に起工した2番艦「愛宕」の方が先に竣工しているため、時に「愛宕型」と呼ばれることも在る。
全体的には居住性や指揮能力などが強化された一方、速力や安定性等でやや妙高型に劣った。
1941年12月8日の太平洋戦争開戦時は南方作戦に従事し、第4戦隊としてフィリピン、ルソン島のリンガエン湾上陸作戦の支援にあたった。
1942年初頭はジャワ海で蘭印作戦に従事。この作戦では3月にオランダ商船「Enggano」、米駆逐艦「ピルズバリー」を撃沈。またチラチャップ近くで船団を襲撃しタンカー「Francol」、「depot ship Anking」、掃海艇1隻を沈め、オランダの貨物船2隻を捕獲し、護衛のオーストラリアの戦闘帆船「ヤラ」も撃沈した。
4月中旬、一時日本に帰投した際にドーリットル空襲に遭遇。反撃として空襲を行った米機動部隊を捜索したが会敵出来なかった。
5月2日、「高雄」、「摩耶」は米潜水艦に撃沈された「瑞穂」の救援に赴き、乗組員を救助する。
6月のミッドウェー作戦にむけて第四戦隊を再編制し、その時に「摩耶」と第2小隊を組み、ミッドウェー作戦と平行して進められたアリューシャン作戦に参加、これを成功させた。
8月7日に「ガダルカナル島の戦い」がはじまるとトラック泊地へ進出。8月24日第二次ソロモン海戦、10月26日南太平洋海戦参加。11月15日には第三次ソロモン海戦にも参加。
1943年2月にガダルカナル島からの撤退を支援。その後はトラックを拠点に中部太平洋で活動した。また8月には対空兵装の強化を受け、電探が新たに搭載された。
1943年11月5日に第二艦隊としてラバウルに進出。そこで米空母艦載機による攻撃「ラバウル空襲」を受け、重油補給中に命中弾2発を被弾。このうち1発が1番砲塔と2番砲塔の間に命中し、たまたま一番砲塔の扉が開いていたため爆風で炸薬が引火。結果、戦死者23名を出した。その後は横須賀に帰投し、1944年1月19日まで修理にあたり、再びトラックへと進出した。
2月1日、被雷と悪天候のため艦首が切断されて航行不能となった大鷹型航空母艦「雲鷹」の護衛を命じられ、駆逐艦「皐月」、「潮」、「曙」、「初霜」、「白雲」、「玉波」、「沖波」、「岸波」等と協力して追撃する米潜水艦を撃退し、無事に横須賀に帰港した。この時の戦果で米潜水艦1隻撃沈を報告している。その後はパラオ、リンガ泊地、タウタウイ泊地で訓練に従事する。
1944年6月19日のマリアナ沖海戦に戦艦「大和」と共に参加。だがこの時、小沢艦隊から発進した日本軍攻撃隊を敵編隊と間違え、右舷高角砲で誤射して数機撃墜してしまうという失敗をやらかしている。その後は一時帰国し、7月20日にリンガ泊地に進出した。
10月22日には第一遊撃部隊に属し「レイテ沖海戦」に参加。
10月23日、パラワン島沖を航行中に米潜水艦「ダーター」の放った魚雷4本が接近。艦長が取舵回避を叫ぶも航海長と操舵士は旗甲板で天測中のため副長が舵を取り2本の回避に成功。だが残り2本が右舷魚雷発射管真下と右舷後甲板に命中した。
この時の被害は戦死者33名、第三・第四罐室を破壊され、外軸スクリューも失って大破し洋上で機関停止の状態に陥ってしまう。ボイラー用の真水タンクも損傷し蒸気が発生出来無くなるが、海水を蒸留して水を作って罐を焚くという涙ぐましい努力によって機関再始動。撤退中も執拗に「ダーター」の追撃を受けたが駆逐艦「長波」「朝霜」の援護によって「ダーター」は止めを刺せず、挙げ句の果てに迷って座礁して自沈してしまった。
この「レイテ沖海戦」では僚艦の「愛宕」「摩耶」も撃沈されてしまったため、事実上第四戦隊は壊滅となった。
駆逐艦「清霜」に護衛されて11月8日にシンガポールに到着。
1945年1月11日、シンガポールで修理中に強襲したB-29重爆撃機を主砲と高角砲で迎撃し、内1機を撃墜。同時に当時の戦況から帰国は困難として損傷した艦尾を切断し、応急防水措置を施した状態でシンガポール防衛のために同港残留が決定。出撃可能な状態に見せかけるため、艦尾を椰子の葉で覆い、迷彩も実施された。大部分の乗組員は臨時陸戦隊員となり、機銃は付近の陸上陣地に移動された。
7月31日、シンガポールのセレター港でイアン・エドワード・フレーザー大尉率いる潜水部隊とイギリス特殊潜行艇XE級潜水艦による爆破破壊工作の標的となり、仕掛けられた爆弾により第三砲塔右舷艦底が爆発。幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室に浸水があったものの、死傷者はなく損害は軽微だった。後に損害状況を確認した際、爆弾4個のうち1つしか起爆していないことが確認されている。
1945年8月15日、終戦。満身創痍ではあるものの、なんとか終戦まで沈まず、大日本帝国海軍で珍しい水上に浮いたまま終戦を迎えた重巡洋艦となった(他に妙高)。
直後にシンガポールへ乗り込んできた米軍第十方面艦隊司令部によって高雄は一時接収され、乗組員817名中157名が高雄運用のために残留し、艦長以下660名がマレー西岸バトパハに移動を命じられ、約2年間の強制労働を強いられた。
降伏処理などが進められる間、「高雄」は航行能力以外は健在であったため「妙高」と共にシンガポールにおける人員宿泊・他艦船の修理・通信などの担任母艦(ホテルシップ)として使用された。
その後は賠償艦としてイギリスに引渡された。だが中華民国の雪風やソ連の響と違い、イギリスは海軍大国で膨大な数の艦艇を抱えていたため、イギリス海軍は高雄を不必要として、マラッカ海峡に沈められてしまう不幸な最期だった。
それから45年以上経って海上自衛隊がこんごう型護衛艦(イージス艦)を建造した際、その巨大な艦橋から高雄型重巡洋艦を建造中と紹介されたことがあった。
艦名の由来
艦名の由来は京都府にある高雄山から。よく勘違いされているが台湾の高雄市(たかお-し)からではない(なお、台湾の高雄市の地名は日本統治時代にそれまでの現地名称「打狗(ターカウ)」を改名する際に発音の似ている京都の高雄を当てた)。大正時代には台湾は日本国内だったので台湾の山にちなんだ艦名(防護巡洋艦新高)の例はあったが、日本海軍の場合、都市名から艦名をつけることはなかった。
また、「高雄」という漢字を東京都八王子市にある「高尾山」の旧名か何かだと勘違いされることもあるので要注意。
余談
擬人化の際のイメージ
『艦隊これくしょん』で擬人化キャラクターが定着するが、その後なぜか、
他にも「穏やかツリ目」「実直」「提督Love」とやたらかぶる面が多い。
艦これのイメージが強すぎたのか、それとも“高雄”というワードになにかあるのか。
客演
太平洋戦争の主要な海戦に参加していた艦ではあるが、参加した海戦が軒並み映像化に恵まれなかったこともあって戦争映画では『連合艦隊司令長官山本五十六』での艦隊の賑やかしや『連合艦隊』で名前のみの登場など端役にとどまっていた。アニメだと『ストライクウィッチーズ2』にて映像化されたが、役的には同じく端役だった。
しかし2023年公開の終戦直後の1947年を舞台としたゴジラ映画『ゴジラ-1.0』にて、「シンガポールで自沈処理待ちだった所、ゴジラ駆除のため日本に引き戻される」という形でまさかの登場。
映画内の話だが、史上初のゴジラと交戦した日本海軍艦となった。
本作の年代設定は山崎貴監督曰く“「大和」「赤城」と並ぶお気に入りの軍艦(それぞれ『アルキメデスの大戦』と『永遠の0』で登場済み)である「高雄」を出したい”という思いも大きかったとのこと。
史実の「高雄」は1946年に沈められており、1947年が舞台の本作では矛盾しているように思われるが(そもそもゴジラや大戸島といった架空の存在がある時点で一種のパラレルワールドとも言えるが)、山崎監督がYouTube上での対談で明かした所によると、「高雄」沈没数ヵ月前のクロスロード作戦直後からゴジラによる問題が発生したため、米軍が「高雄」を修理したことで1947年中も稼働していたらしい。
……それともう一つ「オタクやマニアは1年の誤差は許してくれるから」とのこと。山崎監督は過去にも1958年を舞台にした『ALWAYS 三丁目の夕日』で1959年に生産が開始されたダイハツ・ミゼットMP型を古びた姿で登場させたことがある。
また、史実の損傷を反映してか、後部マストが切断されていたり、艦尾も切断されたままになっているといったデザイン上のちょっとしたコダワリも。
小説版では元乗員たちが動かしていることが語られている。
結果こそお約束だったが、劇的な初登場やこの時の戦闘でゴジラに手痛いダメージを与えるなど短いながらも大きな見せ場をもらった他、敷島や野田といった主要人物に奥の手まで見せたことで終盤の作戦群に大きく影響することとなった。
また、これ以降ゴジラは人間の艦艇に対してさらに強い警戒心を抱くようになり、後の海戦で自分に迫ってきた小型艦を高雄の同型と誤認して切り札の熱線を空撃ちしてしまい、そのために後続の艦隊の接近を許してしまう大きな隙を晒すこととなった。
なお、高雄が現実的でない至近距離からゴジラを砲撃したり、ゴジラが戦闘艦艇でない木造船に追いつけなかったのに、高雄には追いついたけた事への不自然さを指摘する声もある。
しかし、近距離砲撃については高雄の射撃シーンで測距儀がゴジラの方を向いておらず、「砲塔ごとでの各個射撃だったのでは」という推測がある。測距儀を用いなければ精密射撃は期待できないため、近距離で砲撃したのかもしれない。
ゴジラに追いつかれたのも、前述のように艦尾を切断されたことで速度が落ちたから、という推測もある。史実でも艦尾が切断された際、スクリュー2本は健在だったが20ノット程度しか発揮できなくなった。なお、切断時に舵も無くなってしまったが、スクリューを左右交互に回せば舵代わりにできるため、自力航行は可能。自沈前にも乗員たちが最後の自力航行をしようと提案したとされる。
関連項目
外部リンク
護王神社 - 艦内神社の勧請元
ホテル高雄 - 元乗組員が戦後足利で設立したホテル。