「摩耶」は日本海軍に存在した軍艦名のひとつ。
摩耶型砲艦の初代
初代は小野浜造船所(神戸に存在した官営造船所。元々はキルビーという英国人が設立した民間造船所で高い技術力を持っていたが、初代大和を建造中に資金に行き詰まったことやキルビーが急死したことで海軍に引き取られた)にて建造され、日清・日露戦争で活躍した摩耶型砲艦のネームシップ。同型に鳥海、愛宕、赤城がある。
日露戦争後に除籍され、赤城とともに民間に払い下げられている。貨物船として使われたのち、1935年に姿を消した。
高雄型重巡洋艦の二代目
二代目は神戸川崎造船所において建造され、昭和3年12月4日起工、昭和5年11月8日進水、そして昭和7年6月30日竣工した高雄型重巡洋艦の最終4番艦。
こちらの艦名も、神戸の摩耶山に由来する。
1927年(昭和2年)当時、川崎造船所は、いわゆる「(第一次大戦後の)戦後恐慌」「(関東大震災後の)震災恐慌」に端を発する深刻な経営難に陥っており、海軍艦艇の建造を断念せざるを得ないところまで追い詰められていた。この窮地を救ったのが日本海軍と地元・神戸市であり、緊急融資などの救済策により、ようやく命運を継いだのである。
「摩耶」の艦名は、この時の神戸市の恩に報いる意味もあったと伝えられる。
ただし、より標高の高い山形県鶴岡市(旧:西田川郡温海町)の摩耶山からつけられたとする異説もある。後者の標高は1020mで、前者のほぼ1.5倍とのこと。
同型の高雄、愛宕が受けた艦橋の縮小工事は、日米開戦により機会を逸した。
太平洋戦争開戦時には第二艦隊第四戦隊に所属、南方各地の攻略作戦に参加した。昭和18年1月、第五艦隊第二十一戦隊に異動、この間の3月、アッツ島沖海戦で米艦隊と交戦している。8月、再び第二艦隊に戻る。11月にラバウルに進出直後、空襲に遭い中破。その復旧工事を受ける際、対空兵装を大幅に増設されており、これによって他の高雄型とは大きく異なるシルエットとなった。
イージス艦のような大柄な艦橋が高雄型の特徴であるが、さらにその周囲に多数の対空機銃座が設置されている、と二重に独特な要素を持っているため、他の重巡洋艦や姉妹艦と見分けるのは容易である。
最後はレイテ沖海戦緒戦の昭和19年10月23日、パラワン水道で米潜水艦「デース」の雷撃により沈没したが、この際に戦艦「武蔵」に救助された乗組員が、翌日のシブヤン海での「武蔵」沈没を体験したことで知られる。
(因みに2015年に「武蔵」を発見したことで知られる、故ポール・アレン氏が設立した沈船捜索チームが2019年4月19日にフィリピンにあるパラワン島中部西岸沖の水深1850メートルの海底で発見されたことを同年7月2日に公表された。)
「火垂るの墓」作中では、主人公兄妹の父親が2代目「摩耶」の艦長という設定だった。
ちなみに、作中で庵野秀明が非常に精緻な「摩耶」を描いたにもかかわらず、実際のフィルムでは黒塗りにされてしまったという逸話がある。
4番艦?それとも3番艦?
2代目摩耶は、海軍省の艦艇分類表などでは4番艦として扱われ(本項目でもこれに準拠)、近年発行された「軍艦の散りぎわ」など、同型の鳥海を3番艦、こちら摩耶を4番艦と記しているものが多い。しかし逆に摩耶を3番艦とする文献もあり、艦これの同名のキャラクターはその3番艦説に準拠していた。
起工は鳥海が先だったのに、進水は摩耶が追い越していたために、このような混乱が生じたものと考えられる(ちなみに、就役は鳥海、摩耶とも同日、昭和7年6月30日である)。