硫黄島の戦い
いおうとうのたたかい
マリアナ諸島を攻略して日本本土への爆撃の拠点としたアメリカ軍は、その能力を最大限に活用する為、マリアナからでは爆撃機援護するには航続距離が足りない戦闘機の発着や、損害を受けた爆撃機の緊急着陸先に適し、また日本側にとっては爆撃隊の進路を報告したり、日本本土よりマリアナをゲリラ的に爆撃する為の中継点となる硫黄島の攻略をめざした。その攻略ではリッチモンド・ターナー中将率いる第51任務部隊と、それに対抗する小笠原兵団司令官栗林忠道中将率いる日本軍が戦った。
硫黄島こそアメリカ軍の目標と読み、父島から司令部を進出させた栗林はアメリカ駐在経験もあり、この戦いの勝利そのものは難しい事を最初から理解しており、そのため「1日でも本土への進軍を遅らせる」ことを目標とし、島内に長い地下壕を構築して持久戦に持ち込むことを考え、「バンザイ突撃禁止」などの指令を出していた。
また寄せ集めながらも兵力は増強され、混成第2旅団を主力とする兵力2万名以上、大砲360門以上などが配置された。
だが島は火山島であるため地下壕を掘る作業は熱と湿気に苦しめられるものであった。また真水も不足していた。
昭和20年2月16日に第5艦隊に護衛された約11万名のアメリカ軍上陸部隊が到着。艦船攻撃を第一目標と認識する摺鉢山の海軍所属の砲兵が堪えきれず栗林の指令を破り上陸用舟艇に応戦して壊滅したものの殆どの日本軍は地下壕に身を潜めて米軍の上陸を待ち、内陸部に引き込んでから一斉攻撃を行ってアメリカ側に多大な損害を与えた。
地下壕を十二分に利用して頑強に抵抗した日本軍であったが、23日には工事が間に合わず他の地下壕と通路を連結できず孤立していた要衛摺鉢山が占領され、26日には元山飛行場も占領された。
その後も日本軍は粘るも徐々に米軍側に制圧されていき、米軍側は地下壕に爆弾を投げ込んだり火炎放射器を放つ等して地下壕の日本側を虱潰しに駆逐していった。
また神風特攻隊も千葉から派遣され米軍の空母や貨物船に損害を与えた。
1ヶ月半近くに渡る戦いの末、日本軍は徐々に追いつめられていき、3月頃には玉砕の様相が濃くなっていった。
そのため3月16日に栗林は大本営に訣別電報を送り、その後他の幾人かの幹部とともに制服の階級章などを外して身分がわからないようにした状態で26日に約400名の将兵とともに米軍陣地に夜襲をかけて戦死した。栗林の遺体は特定できず、最後の詳細はわかっていない。
この攻撃に参加した海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助少将は『ルーズベルトニ与フル書』を懐中に隠して出撃しアメリカに目論み通りこの書は渡った(しかしルーズベルト大統領は既に死去していた)。
その後も散発的な戦闘はあったものの、ほぼ島全体は制圧された。
太平洋戦争中でも米軍の戦死傷者が日本軍を上回る希有な戦闘である事からアメリカ側にも大きなインパクトを与えた。(日本軍戦死者約18000名、捕虜約1000名、アメリカ軍戦死者約7000名、負傷者約19000名)
なお、この戦闘に参加したオリンピックの馬術競技金メダリストでもある戦車第26連隊長西竹一中佐も戦死している。
また多数の映画等の題材にもなっている。
この戦いの場所である硫黄島の読みは現在「いおうとう」であるが、平成19年にこの読みに統一されるまでは「いおうとう」「いおうじま」のどちらも使用されていた。
なので戦闘を指す際の読み方はどちらでも間違いではない。
ただし上記の読み方固定に関しては「イオージマ」の名に格別の思い入れがある米軍関係者やOBの一部からブーイングがでていた。