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概要編集

1891年生、長野県出身。


1912年に陸軍士官学校に入学、成績は優秀で次席であった。

1927年からアメリカに駐在武官として赴任、一端帰国後カナダにも赴任した。この経歴から「知米派」の代表格であり、国際事情にも明るかった。


太平洋戦争開戦後は香港の戦いなどの指揮で活躍。

1944年に小笠原兵団司令官兼第109師団長となり父島に着任するもアメリカ軍の攻略先は硫黄島と判断し司令部を進出させる。硫黄島での地上戦が避けられない見通しとなったため、来る闘いに備え栗林は硫黄島の地下に壕を建設させ、地下陣地を構築させた。

翌年硫黄島の戦い勃発後は早急な万歳突撃などを起す事も無く、徹底した粘り強い防禦戦を指揮して米軍相手に1ヶ月近く持ちこたえた。しかし彼はこの戦いに勝利する事は困難であることは最初から理解しており、敵に時間と人命の消耗を強要する目的で作戦準備を整えて指揮を執り続けた。圧倒的な米軍に対し次第に追い詰められ、いよいよ戦闘も末期に近づいた1945年3月に大本営に決別電文を送り、階級章を外して部下達とともに夜間米軍陣地に突撃し戦死した。

遺体は特定できないままであり、その最期の詳細は現在でもわかっていない。


圧倒的な兵力差があった米軍に対して、健闘したその姿は敵であった米軍サイドにも高く評価されている。

中将になってからの硫黄島の戦いでの活躍が印象深いため「栗林中将」と呼ばれることが多いが、上記の決別電報を送った直後に大将への昇進措置がとられているため、最終的な階級は陸軍大将である。


3人の子がおり、妻子に対してこまめに手紙を出していた。特に末子のたか子に宛てて書いた「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている 夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ないことです」 という内容の文がよく知られている。


なお、たか子は後に新藤たか子名義で女優としても活動しており、政治家の新藤義孝は彼女の子(栗林の孫)にあたる。


余談編集


●温厚で知られるが、硫黄島において海軍陸戦隊将校と激しく対立(これは栗林は前述のように敵に出血を強要するつもりで地下陣地建設を進めていたが、海軍は飛行場にこだわり、飛ばす飛行機も無い飛行場の工事を続けようとしたためにそちらに資材や労力を取られたためで、海軍士官を更迭する権限は無かったためある程度妥協を強いられた)し、一部では横暴だったと否定的な証言も残されている。また兵や民間人には優しかったが、将校に対しては厳しかったとも言われる。配下の陸軍士官で徹底持久方針に従わない者には、片端から更迭や人事異動で応じたという。男爵で洒落者的な戦車第26連隊長西竹一中佐が戦車を硫黄島では貴重な水(飲用水用のものであったかは不明)で洗った事に激怒して厳罰にかけようとしたとも言われる。


●香港の戦いでは配下の部隊が捕虜虐殺事件を起こしており、終戦時存命だった場合戦犯指定を受けた可能性もあった。


●硫黄島では将校にも兵士と生活面で同じである事を求め、自身も兵と同じ食事を取り、水も配給の竹筒一本分であることを守っていたという。


●陸軍幼年学校を出ていない為に陸軍大学卒業後の留学先もエリートが赴くドイツではなくアメリカであり、大本営勤務も無いなど非主流派であり、小笠原兵団司令官着任も、徹底した開戦反対によって、疎まれた事による事実上の左遷だったとも言われている。


演じた俳優編集


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大日本帝国陸軍 硫黄島の戦い

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