概要
大日本帝国陸軍中将。
1888年(明治21年)10月7日生まれ、佐賀県佐賀市出身。
陸軍大学校(29期)卒。
典型的なエリート軍人官僚として昇進を重ねたが、「皇道派」(天皇親政による中央集権的な国家を理想とする大日本帝国陸軍内派閥)に所属していたので二・二六事件への関与を疑われて、満州に左遷され、これまでは実戦経験が皆無であったのにも拘らず、勇猛な前線指揮官として盧溝橋事件、太平洋戦争開戦時のマレー作戦、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦で戦功を重ねていく。猪突猛進で常に最前線に立って陣頭指揮をとるなど、当時の大日本帝国陸軍軍人の理想像であったことから、陸軍上層部の信頼も厚く、軍司令官まで昇り詰める。
ノリにノった牟田口は、インド国境の街インパールを占領して、ビルマ奪還を狙う英軍を撃破する戦術的な目標と、インドに進撃することで英国の植民地支配を動揺させ、独立機運を高めて連合軍からの脱落を狙うといった野心的な目標も掲げたインパール作戦を立案。しかし、元来の強引な性格が災いし、無理に無理を重ねた杜撰な作戦計画を立てたうえ、良識ある参謀らから多数の反対意見があるも、耳を貸すこともなく突っ走った。その無謀な作戦は、牟田口を高く評価していた陸軍上層部の後押しもあって、昭和19年に杜撰な作戦計画のまま実行された。作戦は当初、順調に進み、一時はビルマの連合軍補給拠点を脅かして、イギリス首相ウィンストン・チャーチルを慌てさせたが、麾下の第15軍の足並みの乱れで絶好のチャンスを逃し、その後は、強引な作戦計画ゆえに補給に苦しみ、多大な餓死者、病死者を出してを壊滅状態となって、ビルマ戦線崩壊の崩壊の元凶ともなった。この「インパール作戦」の作戦立案から敗北に至るまでの経緯もなかなか酷いもので、その中心であった牟田口は帝国陸軍の愚将の1人として語り継がれている。
経歴
エリート軍人官僚牟田口
佐賀県出身、佐賀藩の士族福地家の出身であったが、親戚の牟田口家に養子として出され、以後は牟田口姓となる。幼少から利発であり、この時代のエリートコースとして軍人の道を歩んだ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校も一発合格し(陸軍大学の入試は難関で数回の受験は当たり前だった。終戦時の陸軍大臣阿南惟幾大将も4回目の受験でようやく合格したほど。なお、陸軍大学校の受験者は一期につき1つの連隊から1名だけであり受験出来ただけで、その連隊で最も優秀な若手将校と見做されているレベルだった)、将来が嘱望されたが、陸大卒業の席次は中の下で、配属は作戦や予算といった花形部署ではなく、どちらかというと日陰部署である兵站となった。しかし、これがのちの牟田口の軍歴に幸いする。
牟田口が参謀本部の兵站部署に配属されたときは、日本軍はシベリア出兵の泥沼にはまっており、(シベリア出兵の過酷さは少女漫画『はいからさんが通る』がリアルだったりする)牟田口は兵站任務の調査としてシベリアにスパイとして派遣されて、現地情報の諜報活動に従事した。その後に日本人居留民が赤軍ゲリラに虐殺された尼港事件が発生したが、牟田口はシベリアの状況に詳しかったことから、現地の状況調査と居留民保護のため、部隊を指揮して事件のあったニコラエフスクに向かったが、既に居留民は全員殺害されていた。その後もしばらくは現地で活動を続けて、手際よく後処理などを行って、危険な任務をよく完遂したと高く評価されることとなった。
さらに同郷だった真崎甚三郎の影響で、陸軍内派閥の「皇道派」に属したことによって、人事面で優遇されて出世街道をばく進していくが、そんな牟田口の軍人人生の岐路となったのが、「皇道派」の青年将校たちが決起した二・二六事件であった。牟田口は計画に直接関与したわけではなかったが、反乱首謀者たちから人望があって親しくしていたことから関与が疑われ、他の山下奉文らの「皇道派」将校と共に左遷されることとなり、陸軍中央の参謀本部から支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長に転任となった。これ以降、牟田口には前線指揮の経験・スキルは、ほぼ0だったのにも拘らず、勇猛な前線指揮官としてキャリアを積んでいくこととなった。
盧溝橋事件
牟田口が中国に来たときは、日本軍が戦力増強を進めていることに蒋介石の国民党政府が激しく反発しており、一触即発の状況となっていた。支那派遣軍が大幅増強された理由は、中国軍への対抗ということもあるが、その他に「中央の言うことを聞かなくなった関東軍に対する牽制の為」とする説も有る。
北京にある盧溝橋を挟んで両軍が対峙しており、日本兵が中国兵から暴行を受けるなど小競り合いも発生していたが、そんなある日、牟田口の上官となる河辺正三旅団長が作戦会議のため、部隊の指揮を牟田口に一任して出張した。
その夜、日本領事館公舎内にある軍官舎で就寝していた牟田口の元に前線指揮官より、演習中に中国軍から発砲されて兵士が一人行方不明になったとの報告があった。(のちにこの兵士はトイレに行っていたということが判明)
牟田口が前線指揮官に調査を命じると共に、現地政府関係者と部下将校に中国側との接触と事情聴取を命じた。やがて盧溝橋付近に展開している中国軍司令部から、自分らは発砲していないとの回答があり、牟田口が訝しがっていると、前線指揮官から再度報告があり、今回は複数回にわたって、日本軍側を狙って射撃してきたため、中国軍側が意図的に攻撃してきていることは明らかだとして反撃の許可要請があった。
牟田口は上官の河辺もいないことから、当初は穏便に済まそうとの思いもあったが、度重なる挑発行為に元来の強気な性格もあって、前線指揮官に反撃を指示した。このときは、上官の河辺が慌てて帰ってきて、牟田口に停戦を命じたため、一旦は戦闘が収束したが、一度、火が付いてしまった牟田口がこれで収まるはずもなく、中国軍が挑発してきたらすぐに反撃できるように戦闘準備を整えさせており、最初の激突から数日後、現地部隊同士で停戦に向けて協議をしていたのにも拘らず、牟田口は再度の交戦を命じた。
自分の意志に反して部下が暴走していることに驚いた河辺は慌てて牟田口の元を訪れたが、牟田口のプライドに配慮して、黙っているだけであったので、牟田口は河辺の考えを察したもののそれをあえて無視して戦闘中止を命じなかった。その後に牟田口は前線に出ると、自ら軍刀をかざして敵陣に斬りこんだという。
後のインパール作戦で早々に戦場から離脱し「腰抜けのチキン」扱いされることとなる牟田口も、勝ち戦で意気軒昂のときは、佐賀県出身だけあって、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて早く死ぬはうに片づくばかりなり」に忠実なシグルイ精神を見せつけて、勇敢な指揮官として連隊将兵に慕われていた。
ちなみに牟田口が連隊将兵に慕われていたのは、勇敢さだけではなく、自分の勘違いを認めて、部下将校に頭を下げて謝罪したり(今日の価値観では信じられないが、当時は軍の上官が部下に頭を下げることなどほぼなかった)、連隊将兵が備品を大量に亡失してることを一切咎めることなく、自ら派遣軍司令部に行って「自分が何でも罰を受けるので亡失した備品を補充して欲しい」と要請したりして、「頼りがいのある上官」であったからである。これは、初の部隊指揮官として部下の人心掌握をするために牟田口が意識的に「頼りがいのある上官」を演じたものであるが、この後、軍内で昇進を重ねていくことによって、本来の傲慢な性格によって、部下へのあたりも次第に酷いものとなっていく。
牟田口の独断専行は本来であれば命令違反の重罪であったが、なんやかんや言っても牟田口を高く評価して可愛がっていた河辺は「わしが命令した」と牟田口をかばったため、命令違反は不問となった。
その後、現地軍同士で一旦は休戦協定が結ばれたものの、既に陸軍上層部は中国大陸での戦線拡大を決めており、続々と援軍を送り込むことを決定していた。また、盧溝橋での発砲も、戦後に中国共産党による謀略であったという説もあり、いずれにしても両軍の激突は時間の問題であった。
そのような状況で、牟田口の強気な作戦指揮と河辺の曖昧な部下統制で始まった小競り合いが全面衝突(日中戦争)の引き金となってしまった。日中戦争が無ければ太平洋戦争も無かった事を考えると、大日本帝国を滅ぼした元凶は、結果から見れば、この河辺と牟田口のコンビであったと言っても過言ではないだろう。
なお、後の牟田口廉也の言動からすると「自分のせいで戦争が始まり、国に迷惑をかけた」と言う自責の念は持っていたようであるが、下手に自責の念を持っていたせいで、償いとして、日本に有利な条件で戦争を終らせる事が可能な程の戦果をあげなければならないと考えるに至り、後のインパール作戦強行に繋っていく。
あと、本件に関しては、前述の通り「関東軍への御目付け」も役目の1つだった部隊が満洲事変みたいな真似をやってしまった、という若干の問題も有るには有る。
シンガポール攻略戦
連隊長として戦功を積んでから、関東軍での勤務を経て、昭和14年には陸軍予科士官学校長として内地勤務になった。牟田口は前線指揮官よりも、左遷前のように、陸軍中央でのエリート官僚としての栄達を望んでおり、校長として学生の教育だけでなく、校舎の改築などの教育設備の充実などに、官僚時代に培った実務能力でテキパキと処理して、陸軍上層部にアピールするが、やはり元「皇道派」というレッテルと連隊長としての武勇伝により、第18師団長として再度の前線勤務を命じられた。
総理大臣兼陸軍大臣の東條英機は太平洋戦争開戦にあたって、最も重要な戦争目的であった南方資源地帯獲得のため、東南アジアの欧米植民地攻略部隊の人事を最優先とするよう、部下で忠実な僕であった富永恭次陸軍人事局長に命じた。
そこで軍司令官として任じられたのが、名将・猛将として陸軍内に名を轟かせていた山下奉文、今村均、飯田祥二郎、本間雅晴の各中将であったが、軍司令部の幕僚や各師団長にも優秀な人材が集められたことから、盧溝橋で活躍した猛将牟田口にも白羽の矢が立ったものである。
牟田口の第18師団は、大英帝国植民地マレーシアとシンガポールの攻略を目指す、山下率いる第25軍の隷下となった。シンガポールはジブラルタルと並んで、大英帝国が巨費を投じて構築した難攻不落の要塞と評されており、この攻略が南方作戦成否の命運を左右すると考えられていた。
山下と牟田口は同じ「皇道派」として、二・二六事件のとばっちりで同じ時期に中国大陸に飛ばされるなど、同じ境遇であったことから懇意にしており、山下は牟田口と精強部隊と評価されていた第18師団に全幅の信頼を置いて、師団の一部をマレー半島コタバルからの奇襲上陸させたのち、師団主力は時期を見て英軍防衛戦の背後に敵前上陸させて、一気にマレー半島の英軍を殲滅させようと計画していた。
牟田口はその信頼に応えるべく、自らコタバルで敵前上陸する佗美浩少将が率いる佗支隊に訓練を行い、あまりの厳しさに指揮官らが音を上げて参謀に泣きつくほどであったが、開戦前には精強な部隊に仕上がっていた。
そしてついに開戦の日となったが、牟田口に鍛え上げられた佗支隊は、その期待に応えて見事にコタバル上陸に成功、その後も猛烈な勢いでマレー半島を進撃したことから、皮肉なことに牟田口の師団主力が上陸前にマレー半島の勝敗は決してしまい、牟田口は続くシンガポール攻略作戦から戦闘に加わった。その間、牟田口は日中戦争での勝利体験で英軍を舐めてた第18師団主力の将兵に対して「シンガポール要塞を舐めるな」などと叱咤、また直に演習を指導して、精強部隊であった第18師団主力を更に鍛え上げた。
ジョホール水道を渡ってのシンガポール上陸作戦では、師団主力の最前線に立って部隊を指揮し、上陸直後には敵兵の投げた手榴弾で負傷するも、血まみれになりながら部隊指揮を続けた。その後も応急処置だけで前線に立ち続け、師団を視察にきた第25軍参謀辻政信からその勇敢さを感心されている。
その後も重要軍事拠点ブテキマ高地の攻略や、港湾設備、軍事設備が集中するケッペル港などへ進撃した。特にケッペル港では英軍守備隊が最後の防衛拠点として、激烈な反撃を行っており、砲撃は攻めている日本軍の数倍の砲弾数を第18師団に浴びせ続けていた。
英軍の激しい抵抗を前に、牟田口は自ら2個連隊を率いてケッペル港に夜襲をかけると主張したが、この時は師団参謀と辻が泣きながら制止したためどうにか諦めたという。このように、今日に刷り込まれた「腰抜けのチキン」という牟田口の印象からは信じられない武勇伝が続くが、勝ち戦で乗りに乗っているときは気持ちも高まって勇敢になるものの、敗戦で落ち目になると臆病になるというのは、ある意味人間味溢れる(笑)とも言えるだろう。
それからまもなくしてシンガポールは陥落し、ここでも牟田口はマスコミなどから猛将として称えられることとなった。華々しい戦勝報道の裏で、マレーとシンガポールでは第25軍発令による大規模な華僑の虐殺が行われており、牟田口は師団長としてその虐殺に関わったうえ、シンガポールでの戦闘中にも赤十字を掲げていた病院に第18師団の兵士が突入し、軍医から傷病兵まで皆殺しにするなどの戦争犯罪も発生しており、牟田口は戦後にこのときの罪に問われて逮捕勾留されることとなる。
その後第18師団はビルマ(現在のミャンマー)に転戦、ここでも牟田口は感染症に罹患し高熱だったにも拘らず、常に最前線に立ち続け、前線指揮官は牟田口が乗馬で先頭を突っ走るのでそれを追うのに必死であったという。第18師団は英軍最後の軍事拠点マンダレーを攻略し、英軍をビルマから完全に駆逐した。ここでも牟田口の武名は高まったが、ここが牟田口の栄誉の頂点となり、これから先は転げ落ちるかのように評価を落としていくこととなる。
インパール作戦
作戦決定まで
牟田口は常に『盧溝橋の責任』から自分の手で戦争の決着をつけたいと考えており、第18師団長時代には自分の権限でも可能な範囲で、ビルマ北部から中国に侵攻し重慶の蒋介石政府を撃破したいと考えていた。一方で南方軍は、インドに侵攻する「第21号作戦」を計画しており、その実現性を第15軍司令官の飯田と牟田口に打診してきたが、牟田口はその作戦案を「補給が困難」という理由で反対している。後のことを知ってれば「おまいう」とツッコミが入りそうだが、飯田や牟田口の反対もあって「第21号作戦」は一旦棚上げとなった。
「第21号作戦」が断念された理由の一つとして、ビルマ北部からインドの間には険しいアラカン山脈が横たわっており、進軍も補給も困難だというものがあったが、牟田口もそれに対する妙案を持ち合わせてはいなかった。逆に言えば、その険しい地形が敵をも阻み、天然の障壁となってビルマ北部を安全にしていた。
しかし、その状況を一変させる出来事が発生する。1943年2月、英軍特殊部隊出身のオード・ウィンゲート准将が1個旅団を率いて、ビルマ北部から国境を越えて日本軍戦線の奥深くに入り込み破壊活動を成功させた。その討伐を指揮した牟田口は、地形的に安全と思われていたビルマ北部が全く安全地区ではないと認識し、「守っているだけでは負ける、だから逆に攻勢に転じて英軍の軍事拠点インパールを攻略し英軍の攻勢を未然に撃破するべき」と考え、さらに「第21号作戦」では困難と考えた北部ビルマからインドへの進撃の逆バージョンをウィンゲートが実現させたことによって「自分が散々打ちのめした英軍ができることを自分と日本軍ができないはずがない」と構想(と言うか妄想)するようになった。
その後に牟田口は第15軍司令官に昇進して権限が拡大すると、構想(妄想)は更に膨らみ、中国との決着だけではなく、大東亜戦争全体の決着に寄与したいと考えるようになり、「第21号作戦」に反対したことを悔やんで、次は自らの手でビルマ北部からインドのアッサム州に攻め込み、大英帝国のインド支配に楔を打ち込み、インド独立を促すという、大規模侵攻作戦を構想(妄想)するようになる。
自分の壮大な構想(妄想)を実現するべく、第15軍参謀に具体的な作戦計画を検討するように指示した。しかし、ウィンゲートの作戦が成功した要因は、大量の輸送機によって空路で潤沢な補給を受けられたことと、山岳でも酷使に耐えられるロバを輸送用に多数連れていたことであったが、そのいずれも第15軍には準備困難なものであった。それを理解していた第15軍参謀長は「作戦は補給の面から実施困難」と反対意見を述べたが、“検討”といっても実施ありきの牟田口はこの参謀長を「弱気」として早々に更迭してしまった。このような強引な人事は第15軍内での反対意見を封じ込めていった。
第15軍の意見を(強引に)まとめた牟田口は、上部組織である緬甸方面軍に作戦認可を上申した。ここでも当たり前に反対意見が噴出したが、なんとここで不幸にも緬甸方面軍司令官に牟田口を愛でる将軍河辺が着任、最悪の盧溝橋コンビが揃うこととなった。
河辺の牟田口評は理解不能なほど高く、南方軍や大本営といった上部組織の参謀たちが否定的な意見を述べても、牟田口への信頼が揺らぐことはなく、「牟田口の願いをかなえてやろう」とフォローし続けた。
なお、この点に関しては、牟田口廉也にはこれっぽっちも責任が無いが、当時の日本軍は、戦争中でありながら定期の人事異動を行なう、と云うお役所仕事にも程が有る真似を平気で行なっており、インパール作戦の立案や準備に関わっていた者が人事異動で居なくなり、事情をよく知らない者が後任になると云う冗談のような事態も起きてしまった。
それでも、良識ある上部組織の参謀たちは作戦慎重論を主張し続け、作戦実施するにしても、牟田口の強引な作戦を少しは見直しさせようと必死であったが、やがて米軍の進撃が加速し、太平洋正面での敗戦が続くと、東條と陸軍要職を占める取り巻きたちは、ビルマやインドで多大な戦果を挙げて、太平洋での敗戦で求心力を失いつつある東條の復権を図ろうと牟田口の壮大な構想に期待するようになっていく。
そこで、悪い意味での日本面(軍事面・1868-1945)が顔を出し、作戦を実現したいという大きな流れができあがってしまい、同調圧力の中で、最も需要なはずの戦術論をおざなりにして、作戦を実現することだけにエネルギーが注がれていくことになってしまった。そのため、一部の良識ある参謀らを除いて、緬甸方面軍、南方軍、大本営は、牟田口の強引な作戦計画に異を唱えることもなく、作戦実現のために暗躍し、作戦に反対している良識ある参謀たちを人事異動させるなどして、反対論を封じていった。
インパール作戦は、牟田口の熱意がないと実現しなかったが、逆に言えば、牟田口だけでも実現はできず、大日本帝国陸軍全体でのフォローが不可欠だったのである。
やがて、牟田口の強引な作戦案は、河辺の後ろ押しで南方軍の決裁を受けた後、大本営にも上申された。そこでは剃刀の異名を持つキレキレの真田穣一郎作戦部長が強硬に反対したが、真田は杉山元参謀総長に別室に呼ばれて「(南方軍司令官の)寺内さんたっての願いだ、何とかやらせてくれ」という人情論で押し切られて、結局、この強引な作戦案が認可されることとなってしまった。
ジンギスカン作戦
牟田口の作戦計画は下記の通り
①第31師団が英軍のインド領内の補給基地ディマプルからインパールに続く幹線道路(インパール街道)を遮断するため、途中にある街コヒマを攻略し、インパールへの補給路を断つ。
②第15師団はアラカン山系を突破して、インパール街道上に到達して、北方からインパールを叩く
③第15軍主力の第33師団は比較的平坦なインパール正面から、戦車部隊や重砲部隊などと進撃、途中の英軍拠点を攻略した後、第15師団と協力してインパールを攻略する。
④作戦はスピード重視で3週間のうちに決着をつける。進軍速度を上げるため、物資の携行はなるべく抑えて、各兵士は食糧3週間分のみを携行、アラカン山系を進撃する第15師団と第31師団は火砲などの重装備を最低限に抑える。
⑤夜討ち朝駆けで奇襲を行い敵を退却させ、なるべく敵とは戦闘しないようにする。
牟田口はインパール攻略後はそのままインドアッサム州に攻め込むことを構想していたが、さすがに河辺を初め上部組織からの慎重論に忖度して一旦は諦めた。しかし、それはあくまでもポーズにすぎず、チャンスがあればどさくさ紛れでインド奥深くまでの侵攻を命じる腹積もりであった。
強気一辺倒の牟田口も、さすがにインパール作戦の最大の問題点は補給能力の不足ということは理解しており、作戦計画上申に伴って、上位組織である緬甸方面軍および南方軍に対して、補給・輜重・衛生・病院・工兵(補給の為の道路施設など)などの部隊の大幅増設を要請しているが、当時の日本軍に、無い袖は振れる訳もなく、増設された部隊は要求の2割程度となっている(酷いモノだと、自動車中隊が、150個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が26、実際に増設されたのが18、輜重兵中隊が、60個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が14、実際に増設されたのが12)。つまり、元から補給が間に合わない事が、誰の目にも明らかな状態で強行された作戦だったのだ。
しかし、そこで諦める牟田口ではなく、後世にまで悪評を轟かせ、失笑を買うことになる『ジンギスカン(チンギス・ハーン)作戦』を思い立つことになる。
大本営から大幅な増強が認められなかったトラックに代わって、牛や羊を大量に準備して物資輸送に使用し、現地に着いたらその牛や羊も食料として食いつなごうという作戦であった。
これは、名前の通りチンギス・ハーンのモンゴル帝国の風習を参考としたもので、牧畜民族であるモンゴル民族は、軍や物資の輸送に牛や羊といった家畜を使ったが、長距離の行軍時には、その肉を食糧としていたことに基づくものであった。
牟田口は作戦のために現地で牛や羊などの徴発を命じ、数万頭が準備できたため、部下やマスコミなどに「この作戦はわしが考えた」とドヤ顔して披露して回ったが、これは後の悲劇の壮大なフラグとなってしまった。
作戦計画を知らされた各師団は、当然ながら一様に補給について懸念を示した。牟田口は作戦期間を3週間としているが、もし作戦が長期化した場合の不安を払拭できず、第15軍参謀に善後策を問いただすと「軍司令部は野草を食糧にする方法を検討中」との信じられない回答があった。さすがに各師団は「無責任なこと言うな」とさらに問い詰めたが、参謀は「軍司令官の命令だから仕方がない」と回答してきている。
そして当の牟田口は第33師団への訓示で「ビルマにあって、周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」と大真面目に訓示し、兵士を心底呆れさせた。
ピンとこない人のために捕捉すると、我々が普段食べている植物性の食物は人類の歴史を通して、食用・栽培に適したものの中から選ばれ、長い時間をかけて作物化と収穫量向上を目的とした品種改良を重ねたごく一握りのものであり、何万という人間の栄養はそこらへんに生えている草ごときで補えるものではない。我々が日常生活で野草を採って食べたりしないことを考えると、お判りいただけるだろう。
作戦開始
第15軍は補給の不安は解消されないまま作戦準備を進めていたが、作戦開始直前にまた牟田口にとって予想外のことが発生した。昨年にビルマ北部に侵入して牟田口にインパール作戦を構想させるきっかけとなった英軍のウィンゲートが、今回は大量のグライダーで第15軍の背後に空挺降下すると、陣地を構築して立て籠ってしまった。この陣地は、戦車・装甲車や機銃座で固めた円陣を、上空から輸送機が物資をパラシュート落下で空中補給し続けて支えるという、敵中に孤立しても維持できる画期的な陣地であった。日本軍は、その様子を見て、地上、空中を最大限活用した「円筒形陣地」と名付けたが、英軍の呼称名は「アドミンボックス(管理箱)」である。この陣地によって、第15軍全体の補給路が脅かされることとなってしまった。
第15軍は殆どの戦力をインパール作戦に投入する予定であり、やむなく牟田口は残った予備戦力でこの「円筒形陣地」を攻撃させたが、大損害を被って撃退された。牟田口は作戦が開始されたら、これまでの軍人人生でやってきた通り、今回も速やかに前線に出て陣頭指揮を執るつもりであったが、このウィンゲートの「円筒形陣地」対策のために、現在のメイミョウにとどまざるを得なくなり、これが後にインパール作戦に大きな影響を及ぼすことになった。
そして、なかなか司令部が前線に出てこないことを前線部隊は不満に感じ「兵士が苦しんでいるのに司令部の連中は後方のメイミョウで酒食と女に溺れている」などという真偽不明の風評が広まって、牟田口と司令部の信頼を失墜させ、軍内のコミュニケーションを崩壊させる一因になっていく。
暗雲立ち込めるインパール作戦であったが、牟田口にとって朗報もあった。作戦開始前の1944年2月に、ビルマ奪還を焦る英軍は3個師団(最終的には5個師団に増強)をもって西ビルマの重要拠点アキャブに攻め込んできた。アキャブ方面は第55師団(師団長花谷正中将)の1個師団が守っていたが、牟田口に似て脳筋の花谷は、牟田口と同様に守っているだけでは勝てないと考えて、逆に圧倒的に戦力が勝る敵に対して攻勢をかけることとし、ここに第二次アキャブ作戦が開戦した。
花谷はパワハラというレベルじゃない冷酷非情な作戦指揮を執り、第55師団将兵は玉砕するまで戦わされたが、日本軍決死の防衛戦で英軍は大損害を被って足止めされて、結果的に5個師団を西ビルマに拘引されることになり、一時的にインパール、コヒマ方面の防備を弱体化させて、軍司令部がウィンゲート対策に追われる中でも、第15軍の各師団は円滑に進軍を開始することができた。
昭和19年3月8日、第15軍は英軍の妨害を受けることなく円滑にチンドウィン川を渡河した。他の師団に先駆けて渡河したのが、軍主力となる第33師団であったが、第33師団の進撃路は他2師団と比較すると平坦であったため、戦車や重砲といった重装備の部隊も伴っていた。
まもなく、第33師団の先行の歩兵部隊が撤退中の敵師団を包囲したという報告が牟田口の元に届いた。作戦が始まったばかりの吉報に牟田口は狂喜乱舞し、第33師団の柳田元三師団長に包囲殲滅を命じた。
インパール作戦を指揮した英軍側の第14軍司令官ウィリアム・スリム中将は、牟田口の攻勢が近いことを察知すると、分散していた前線をインパール盆地に集約し、そこで日本軍を迎え撃とうと計画したが、第二次アキャブ作戦での激戦も続く中、戦力の移動は思い通りにはいっておらず、撤退が遅れたインド師団が第33師団に包囲されたものであった。
慌てて現地司令官は救援部隊を出撃させたが、これでただでさえ乏しかったインパール方面の英軍予備戦力をすべて使い果たしたことになり、スリムは開戦早々に訪れた英軍の危機に頭を抱えることとなった。しかし、包囲されたインド師団のイギリス人師団長は「パンチ男(ワンパンマンではない)」の勇名を誇る勇猛な軍人であり、師団の動揺を鎮めると、堅陣を敷いて第33師団を待ち構えていた。
第33師団の先行部隊は包囲したインド師団に攻撃するが、堅陣を構築して待ち構えられていたうえ、装備は包囲されているインド師団の方が第33師団よる遥かに優れており、殲滅どころか大損害を被って撃退された。牟田口は攻撃失敗の報告を受けると、烈火のごとく怒り更なる攻撃を命じたが、そうこうしているうちに救援部隊が到着し、また、包囲されていインド師団も自力で突破するため反撃を開始しており、包囲していた第33師団先行部隊が逆に包囲されるといった「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!」状態に陥ってしまった。そこで柳田は牟田口の督戦を無視して、先行部隊に包囲を解くことを命じ、インド師団は一目散にインパールに向けて撤退し、その前面に堅陣を構築してしまった。そして自らの指揮不徹底によって、インド師団を危機に陥れたスリムは胸をなでおろすことになった。
この柳田の命令無視により牟田口の怒りは増したが、柳田は作戦計画時からインパール作戦には反対で、想定以上の英軍の強さに更にその想いは強くなり、牟田口に対して作戦中止を進言した。作戦早々に大戦果を取り逃がしただけではなく、作戦中止まで求めてくる柳田に牟田口の怒りは頂点に達して、この後は柳田を徹底無視するといった陰湿ないじめを行った。第33師団への命令は柳田ではなく、牟田口と同系統の脳筋タイプで牟田口を慕っていた師団参謀長に行い、師団に督戦に訪れたときにも、柳田は同席させないという徹底ぶりであった。
絶好のチャンス到来
第15軍の最も北方を進む第31師団の先頭は、ノモンハン事件でも善戦敢闘した「不敗の名将」こと宮崎繁三郎連隊長であり、驚異的なスピードで進撃していった。宮崎隊はサンジャックで優勢な英軍空挺部隊を撃破して、大量の鹵獲品を獲得すると、またもや驚異的なスピードでアラカン山系を踏破し、英軍司令官ウィリアム・スリム中将の想定より2週間も早くコヒマに到達してこれを占領してしまった。
牟田口は宮崎がコヒマを攻略したと聞くと再び狂喜乱舞し、内心に秘めていた、英軍のインド領内の補給拠点ディマプルの攻略の最大のチャンスが到来したと判断し、作戦計画にはなかった宮崎隊によるディマプル攻略を第31師団に命じた。しかし、当初の作戦計画にない命令に第31師団佐藤幸徳師団長が戸惑っている間に、この命令が河辺の耳にも達し、牟田口を溺愛し、盧溝橋のときには独断専行を許した河辺ではあったが、今回については、大本営へ上申した作戦計画にないインド領内奥深くまでの進撃命令を見逃すことをせず、牟田口に命令取り消しを命じた。
牟田口は「ディマプルは木から落ちてくる果実みたいに楽に攻略できる」「是非とも進撃させてほしい」と粘ったが、官僚的に思考が硬直化していた河辺は譲ることはなく、牟田口は渋々これに応じた。
実はこのとき、牟田口の野生の勘の通り、ディマプルには、第15軍が後方からの補給がなくとも何か月も戦い続けることができるような、莫大な物資や食料や武器弾薬が山積みされていたのに対して、英軍は第二次アキャブ作戦に5個師団を投入していたこともあって、ディマプルには殆ど戦闘部隊はおらず、経理などの後方部隊が慣れない陣地構築作業を行いながら、「俺たちは戦うためにここにいるんじゃない」とか戦争中の最前線とは思えない泣き言を言ったり、街の住民が避難の大行列を作っていたりと全く防衛体制は整っておらず、宮崎隊が進攻していれば攻略できた可能性が高かった。名将宮崎もそれを感じており、鹵獲した英軍軍用車両から2台を師団長車として準備し、佐藤を待っていたが、佐藤がコヒマに来ることも、ディマプルへの進攻を命じることもなかった。
ディマプルは英軍のみならず、フーコンからビルマ領内をうかがっていたアメリカ軍と中国軍など連合軍全体の補給拠点となっており、ここの失陥はビルマ戦線全体の戦況を大きく変える懸念があった。
そのため、スリムはディマプル陥落を覚悟し途方に暮れ、報告を受けたイギリス首相ウィンストン・チャーチルも頭を抱えて、極東方面の連合軍司令部のなかでは、ディマプルが陥落した場合、連合軍はインド奥深くまで一旦撤退して戦線を立て直すべきという検討がなされたほどであったが、宮崎隊がそのままコヒマに止まったため、チャーチルやスリムらは胸を撫でおろしている。宮崎隊はその後、体勢を立て直して続々と増援を送ってくる英軍と、コヒマを巡って激しい攻防戦を繰り広げることとなった。
この時点で第31師団にディマプルを攻略できたか?については、肯定的な意見(どちらかと言えば英軍側に多い)と否定的な意見(日本軍側に多い)どちらもあって、現代となってはその是非は確かめようもない。
歴史にif(もしも?)はなく結果が全てではあるものの、ディマプルを攻略できたと仮定した場合、これは第15軍というか日本軍にとって、千載一遇のチャンスを逃したことになった。
ディマプル攻略による、ビルマ方面連合軍の最重要補給拠点奪取と、大量の物資の鹵獲による日本軍の継戦能力強化は、戦況を大きく動かして、結果的にこの後の悲劇を回避できた可能性はあった。晩年にこのことを知った牟田口は自分の自己弁護活動に残りわずかの余生を捧げることとなる。
苦戦
もっとも険しい道を進む第15師団は、極限まで重装備を減らして、山中を進んでいった。山内正文第15師団長は無理な作戦と承知していたが、軍命令を忠実に守って、この無茶な行軍を見事に成し遂げて、インパール街道に達した。
そして、街道上の数か所の拠点を占領しインパールへの補給路を遮断したが、占領した高地からはインパールの街が一望でき、ついにインパールの近くまで迫ったと兵士の士気も上がった。
これでインパールは孤立することとなり、市内は一時パニックとなったが、英軍はアメリカからのレンドリースで大量の輸送機を準備しており、一般市民を空路で脱出させ、大量の物資を絶え間なく補給し続けて、そのパニックを早々に収拾させてしまった。
第15師団の進撃はここまでで、インパール方面から出撃してきた戦車を伴う英軍の反撃に、その場で釘付けとなってしまった。
最初で躓いた第33師団も、その後は体勢を立て直してどうにかインパール盆地入り口まで達したが、ここでも英軍は強固な「円筒形陣地」を多数構築して日本軍を待ち構えており、第33師団は大苦戦を強いられてここで釘付けとなってしまった。
このように、第15軍の3個師団は牟田口の杜撰な作戦にも拘らず、正に超人的な努力で困難な行軍を成し遂げたが、もはや攻勢限界に達していた。牟田口得意の『ジンギスカン作戦』も、チンドウィン川渡河時点で多数の家畜が溺死し、その後も、平地での農耕用に飼育されていた牛や、そもそも高地には生息していない羊が険しい山道を進むはずもなく、家畜は放棄されて、作戦開始早々に失敗していた。
補給についても、比較的平坦地を進んだ第33師団に細々と行っていただけで、他の2個師団には殆ど補給品は届いていなかった。
そのため、3週間分の食糧は尽き、第15軍の兵士たちは牟田口の想定通り、本当に野草を食べないといけなくなった。ほかにも、タケノコ、野イチゴ、キノコ、ミミズなど食べられると判断されたものは何でも口にするようになった。また、現地の住民からの食糧徴発も行われたが、農閑期で現地住民の食糧の備蓄も殆どなく徴発は捗らなかった。もはや第15軍の兵士は食料確保に躍起となり、戦闘どころではなくなってしまった。
作戦頓挫
上記の通り、インパールやコヒマで激戦が続く中でも第15軍司令部はウィンゲートの空挺部隊対策のため、インパールの最前線よりはるか400km離れた後方のメイミョウにあった。
なお、前線のコヒマからメイミョウまでは金沢から仙台もしくは九州の北端と南端くらいの距離(早い話が日本で言うなら県をいくつもまたぐ位の距離)がある。
全体の戦況を知ることはできない前線部隊では、なかなか前線に前進してこない牟田口ら第15軍司令部に対して不満が蓄積していた。英軍はこの日本軍内での不満を捕虜の証言などで察知すると、あることないこと書いたビラを多数作成して、前線にばら撒き、軍司令部と前線部隊の信頼関係を破壊するプロパガンダを盛んに実施した。
当時、ビルマの従軍記者の間では「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性)、三に新聞ジャーナリスト」と囁かれていたほど牟田口の女性好きは有名であり、その事前の風評もあって、インパール作戦開始後も、牟田口は、夕方になれば芸者遊びに現をぬかしており、日本内地の大阪飛田遊郭からとびきり美人の芸者をメイミョウに呼び寄せて自分の推しにして、前線での兵士の苦闘を尻目に、推しは推せる時に推せと言わんばかりに毎晩ハッスルしていたとか、牟田口だけではなく、第15軍あるいは緬甸方面軍の多くの幕僚も同様で、彼らは毎日、定時(17:00)を過ぎると、仕事を放り出して一目散に「清明荘」(メイミョウ)あるいは「萃香園」(ラングーン)と呼ばれた料亭に向かい、芸者とハッスルしていたという風評が広まっていた。
インパール作戦での日本軍の行軍・戦闘は夜間が多かった(制空権がない日本軍は昼間にほとんど行動できなかった)ため、まさに現場の兵士がもがき苦しんでいるそのときに、遊興の限りを尽くしており、牟田口だけではなく緬甸方面軍の陸軍上層部が腐っていたなどとの風評が広まると、前線部隊の不満は頂点に達して、司令部の信頼を失墜させていった。
この牟田口とビルマの日本軍首脳部の体たらくエピソードは、牟田口をはじめとした当時のビルマの日本軍首脳陣の無能さと醜さをもっとも象徴しているものとして、頻繁に取り上げられて、もはや歴史的事実みたいに語られているが、そもそも第15軍司令部が作戦開始後もメイミョウから前進できなかったのは、作戦開始直前に第15軍の背後にウィンゲート旅団が空挺降下し「円筒形陣地」を構築して後方を脅かしており、その対応に追われていたたうえ、フーコン地区に侵入してきた米軍に指揮されていた米軍式装備の中国軍への対応も行わねばならず、インパール、円筒形陣地、フーコンと3方面の敵への対応でてんやわんやで、ゲイシャガールとにゃんにゃんしているヒマなどは全くなく、英軍のプロパガンダにまんまとのせられたところも大きい。
話は少し脱線するが、戦後のアメリカ軍の調査で、マスコミが未発達でメディアリテラシーが低かった日本軍兵士はプロパガンダに耐性が弱く、特にビラの効果は絶大で、多くの日本兵の遺体のポケットから日本軍上層部の批判を書いた謀略ビラが見つかり、生き残って捕虜となった兵士もビラのプロパガンダを信じて、積極的に機密を漏洩するなどの効果があったと分析している。一方で日本軍が放送していた謀略ラジオ番組「ゼロ・アワー」も絶大な効果を発揮しており、パーソナリティの一人「東京ローズ(アイバ戸栗)」のハスキーボイスに魅惑され、戦意が低下する連合軍兵士が多かった。これにより、「ゼロ・アワー」は近代戦史上で最も成功した謀略放送の一つとも言われている。
そもそも、牟田口のゲイシャガールとのチョメチョメ話は、実はこれを証明する一次資料は殆ど存在せず、出典の多くは戦記作家高木俊朗の“ノンフィクション風戦記小説”であり、事実か疑わしいとの指摘もあっている。(詳細は後述)また、緬甸方面軍においても、不破博中佐や後勝少佐など、できる範囲で戦況の改善や作戦中止などで尽力し続けた良識ある参謀も多く、緬甸方面軍や第15軍参謀の司令部全員がゲイシャガールとパンパンしていたような描写は全くの事実無根である。
ウィンゲートの「円筒形陣地」への対応が新設された第33軍に引き継がれると、第15軍司令部は、作戦開始してから1か月半後にようやく前線に近いインダンギーまで進出した。ここで牟田口は作戦の実情を始めて知って愕然とし、作戦の失敗も認識したが、自分が主導してきた作戦を途中で諦めるわけにもいかず、作戦に積極的に介入するようになった。とはいえ、牟田口にできることは、前線部隊まで出向いて部隊の状況を無視した督戦を行うことだけであり、既に牟田口や司令部への信頼を失っていた前線の指揮官たちは繰り返される攻撃命令に辟易としていた。
牟田口は苦戦の責任を自分の責任とはせず、部下の師団長に転嫁することとし、まずは自分に反抗的であった第33師団長柳田の解任を決めた。次に、「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と内心では牟田口の無能ぶりに怒りを覚えながら、軍の秩序を守るため表立っては牟田口の批判をせずに、無理無茶な命令でも朴訥にこなしてきた第15師団長山内も解任することとした。しかし、山内は持病の結核が悪化し、その情報は軍司令部も認識しており、牟田口はこの解任を健康上の理由であったとしている。山内は最後まで表立って牟田口を批判することはなく、病床でも「申し訳ない」と詫びながら、日本に帰る事が出来ずに病死した。
第31師団独断撤退
前線では、食料不足の飢えに加えて、雨季が到来したことによって、マラリアなどの熱帯性伝染病も蔓延して地獄絵図と化していた。これを見かねた第31師団長佐藤が何度も撤退を進言するも聞き入れられなかったため、師団長独断で部隊を退却させると通告してきた。
牟田口は慌てて「他の師団で第31師団を救援するから、あと少しとどまってくれ」と懇願したが、佐藤はそれを聞き入れることなく、ついに大日本帝国陸軍始まって以来初めての師団長独断による撤退を決意した。佐藤が撤退を強行したのは、作戦開始前に軍司令部補給部門と取り交わしていた補給の約束が全く守られなかったことに加えて、かつてから佐藤は牟田口のことを毛嫌いしており、その感情的な理由もあった。
佐藤が牟田口を嫌った経緯は、まだ「皇道派」が勢力を持っていた頃、そのつてで参謀本部庶務課(参謀の人事を統括する部署)にいた牟田口に対し、「統制派」に属していた佐藤は、牟田口が自分のことをスパイしていたと勘ぐっており、その結果として自分の昇進が遅れたと思い込んでいたからであった。
佐藤の独断撤退は第31師団の将兵は救っても、側面がいきなりがら空きになる第15師団を危機に陥れ、さらには戦線を崩壊させることが確実であった。
そのため、牟田口は佐藤を懐柔するために第31師団の撤退を追認し、その代わりに、第15師団の危機を回避し、戦線の完全崩壊を防ぐ目的で、コヒマで激戦中の宮崎隊に第31師団主力のなかから増援を送って増強し、インパール街道の封鎖を続けた上で第31師団主力は後方補給基地まで撤退するように命じたが、牟田口への不信感が頂点に達していた佐藤はその命令も無視した。
しかし、牟田口の命令は無視しても、撤退する自分ら第31師団主力の後方を守る必要があることから、佐藤は宮崎に増援は送らず、現有戦力のみで敵を足止めするよう命じ、最後に「死ぬなよ」と一言だけ告げると、もはや激戦に次ぐ激戦で1個連隊が1個大隊ほどの戦力となっていた宮崎隊を置き去りにして撤退してしまった。
宮崎が圧倒的優勢な英軍相手に、主戦場はテニスコートという狭い戦域で死闘を繰り広げて2ヶ月間もコヒマを持ちこたえてきたのにも拘らず、佐藤は一度としてコヒマに訪れることはなかった。宮崎はそんな佐藤に不信感を抱き、今回の投げっぱなしの命令に怒りも覚えたが、『不敗の名将』らしく、命令を忠実に守ってわずか600人の兵力で2個師団を3週間も足止めし、佐藤らの撤退を支援するという離れ業を成し遂げている。
自分たちの命を守るためとして、抗命罪(命令違反のこと、軍隊では大罪扱い)も覚悟で独断撤退を決断した佐藤に第31師団主力の兵士の多くは感謝している。また、撤退途中にも佐藤は、傷病者を「死ぬばかりが御奉公じゃないぞ」と励まし続け、亡くなった兵士は埋葬して手を合わせ、時には自分の乏しい食糧を兵士に分け与えるなど、常に兵士と共にあった。そのため、生き残った第31師団主力の兵士たちは、戦後になって戦友会主導で顕彰碑を建てて佐藤を称えているが、少数の兵士だけ託されて置き去りにされた宮崎はたまったものではなく、この佐藤への反感からか、宮崎の牟田口評は好意的であり、戦後になっても交流があっている。
もはや、言うことを聞かない佐藤も牟田口にとっては邪魔でしかなく、他の2師団長と同様に解任を決め、大日本帝国陸軍始まって以来の作戦中の全師団長解任という珍事となった。
これを、現場の司令官が師団長を解任する権限はなく、牟田口による解任は大元帥=天皇の権限を犯す行為である。などと批判されることもあるが、これらの批判で全く触れられないのは、あくまでも牟田口は3師団長を解任したいと、上官である河辺に申し出しただけで、牟田口ラブの河辺がそのわがままを聞き入れ、それを正当な権限者である陸軍省が上奏し、形式的な任命者である大元帥陛下=天皇も決裁したもので、正当な手続きを経ており、この解任を持って牟田口だけを「統帥権干犯」の重罪人みたいに扱うのはおかしな話だろう。
(前提の話として、統帥権は正確には天皇の軍令に関する権限・権能の事であり、牟田口のこの行為は、大元帥=天皇の大権への干犯ではあっても、統帥権干犯とは言えない。という指摘もある。)もっとも、インパール作戦は誰が見ても失敗すべくして失敗した作戦にもかかわらず、牟田口が自分の責任を擦り付けて師団長解任を申し出ることは道義的には全くもっておかしな話ではある。
佐藤は、解任される前から、上部組織に軍用無線や報告書で、相手が誰彼構わず牟田口の罵倒をし続けており、さすがに煙たがられていた。そこで緬甸軍司令官の河辺は佐藤が精神病を発症させたので、療養のため師団長を解任したということにした。その対応に対して、緬甸方面軍の良識ある参謀たちから異論がなかったのは、軍から抗命を出さないとする組織防衛的な意味合いもあっただろうが、司令部内での佐藤の扱いも大きく影響していた。緬甸方面軍の参謀によれば「処分はどうでもいいから早く目の前から消えて欲しい」と思われていたそうである。
一方で佐藤は抗命の罪を裁かれる軍法会議で牟田口の作戦指揮の杜撰さと、緬甸方面軍の無作為ぶりをあからさまにしようと張り切っていた。しかし、河辺は佐藤と面談し、牟田口の罵倒を散々聞かされたのち、「病院に行け」とだけ告げて、軍法会議の開廷はしなかった。牟田口も牟田口で「軍法会議で佐藤を厳罰に処せ」と主張していたが、これも無視された。
佐藤はその後、軍医に精神検査を受けたが、全くの正常と診断され、南方軍や大本営からの事情聴取を受け、その場でも牟田口を罵倒し続けたが、結局、牟田口と佐藤の願いはかなわず軍法会議は開廷されることなく、佐藤は内地へと帰されて、戦争を生き延び、戦後も牟田口を批判し続けた。
インパール作戦の顛末
戦況の悪化は留まるところを知らず、牟田口にできることは既になくなっていた。
牟田口は昔から天佑神助にすがっているところがあり、インパール作戦においても戦況が悪化すると司令部の庭に祭壇を築いて戦勝祈願の儀式を始め、参謀を呆れさせた。
このような状態で人の意見を全く聞かなかったため、第15軍の幕僚や参謀たちはとっくに牟田口を見捨てていた。
上記の通り、牟田口はかなり早い段階で作戦失敗を認識しながら、作戦中止を言い出せずにいたが、それは牟田口最強(笑)の庇護者河辺も同様であった。しかし、河辺もインパール作戦の成功に期待している東條ら陸軍上層部の顔をうかがって作戦中止を決めることができなかった。その陸軍上層部も、昭和19年5月には現地に調査団を派遣して作戦の失敗を認識していたが、現地軍に任そうと責任を擦り付けて何の作戦指導も行わなかった。
そんな中で、河辺と牟田口が2人きりで話す機会があった。牟田口は「作戦を中止したい」と喉まで出かかったが、言い出す勇気がなく「顔色見て察してよ」と河辺に顔芸でシグナルを送ったが、河辺は牟田口が何か言いたそうなことに気が付いたが敢えて無視し、牟田口は本心とは逆に「作戦貫徹します」と強がってしまった。
このように、作戦関係者の全員が作戦失敗を認識しながら、誰も中止を言い出すことができないといった有様で、インパール作戦の悲惨な状況は、牟田口一人のせいとばかりは言えない。とは言え、それは、牟田口以外にも駄目な奴は山程居た、そもそも、当時の大日本帝国陸軍そのものが末期的状況にあった、と言うだけであり、牟田口も批判は逃れることはできないだろう
やがて、宮崎の巧みな指揮と、兵士たちの超人的な敢闘で数十倍の英軍を足止めしていた宮崎隊も、昭和19年6月20日についに突破され、インパール街道は打通されて、インパールの孤立化は解消された。補給皆無で敵の食糧や武器弾薬を奪いながら、実に4か月弱も第一線で戦い続けた宮崎と兵士たちは、超人的なという表現だけでは足りない戦いぶりであったが、このインパール街道の打通で第15師団もインパール方面とコヒマ方面から挟撃されることとなり、大損害を被りながら撤退した。そのため、第15師団内では、牟田口に加えて、佐藤の無断撤退に対する非難の声も大きい。
第31師団と第15師団が崩壊すると、主力の第33師団も時間の問題であり、牟田口はここにきてようやく作戦中止の決断をして河辺に上申した、牟田口が音を上げるのを待ち構えていた上部組織は、驚異的なスピードで次々と作戦中止の決裁を行って、最後は天皇に上奏した。
撤退はこれまでの戦い以上に凄惨な状態となり、飢餓と疫病に苦しむ兵士は撤退中次々と倒れてインパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。
兵士たちは食べられるものは何でも口にしたが、その中には戦友の人肉も含まれており、生きるために仕方なかったとは言え、カニバリズムが横行することとなってしまった。唯一の救いは、すぐに追撃を開始した英軍も、マラリアの流行に苦しみ、追撃した兵士の半数の50,000人が罹患するなどで追撃もままならなかったので、戦闘に巻き込まれることは少なかったことだけであった。
牟田口ら第15軍司令部もインダンギーから撤退を開始したが、ここで牟田口の後世の評価を暴落させる(既に落ちるところまで落ちている気もするが)事件が発生する。チンドウィン川まで下がった牟田口たちは、撤退してくる第15軍各部隊を待っていたが、牟田口は部隊がチンドウィン川に到達する前に「補給準備を確認する」といって、一足先にチンドウィン川を渡河し、後方のシュウェボにある補給基地に向かうと言い出した。メイミョウでは一緒にゲイシャガールと××を楽しんだと噂されていた軍参謀長も流石に呆れて「補給の手配ぐらい私がやります」と押しとどめようとしたが、牟田口は翌日わずかな副官だけ連れて、参謀長らには内緒でシュウェボに後退してしまった。ノりにノっていた盧溝橋やシンガポールでは常に最前線に立って陣頭指揮をとっていただけにその落差には愕然とさせられるが、人間落ち目の時は何をやっても裏目に出てしまうものであろう。シュウェボについた牟田口は特にすることもなく、毎日近くの川に魚釣りに行って、よろよろと撤退してくる第15軍将兵に釣った魚をプレゼントしていたという。
インパール作戦の投入兵力約9万人に対して、戦死・病死・餓死で約3万人、他にも傷病者が同数以上出ており、まともに戦える将兵はせいぜい2万人程度と、すなわち事実上の全滅である。そして、どうにか生き残った傷病者も、この後に続く激戦で、体調が万全でない中で戦いに駆り出されてその多くが戦死してしまった。一方で英軍も諸説ありながらも死傷者約2万人~4万人と大きな損害を被っており、第15軍将兵は司令部の杜撰な作戦の中でも敢闘していたことを物語っている。
インパール作戦の後ろ盾であった東條は、サイパンの失陥の責任を取らされる形で退陣に追い込まれており、ビルマ戦線には懲罰人事の嵐が吹き荒れた。牟田口も予備役(平たく言えば定年退職みたいなもの)に追いやられることになったので、一応は責任を取らされたことになる。しかし、予備役入りしてからまもなくで再召集(再雇用みたいなもの)され、かつて務めた陸軍予科士官学校長に再度任じられた。かつて校長だったときは少将時代であり、同じ職位ということは明らかな降格ではあるが、あれほどの失敗の元凶を、予科とは言え士官学校長という重要な職位に据えたことは、当時から、陸軍の牟田口へ対する処分の甘さに対する指摘と、牟田口が適材なのか?という疑問が投げかけられている。
この牟田口への温情人事は、戦後になってから「身内に甘いという」悪い日本面の象徴みたいに扱われて、旧日本軍批判の材料としてもよく持ち出されるが、本来なら死刑であるはずの大罪である抗命罪を犯しながら、河辺が画策した精神鑑定もパスして、全くの正常認定されていた元第31師団長の佐藤も、なんらかの罰を受けるどころか、予備役となった翌日に再招集されて、インドネシア軍の軍事顧問に任じられ、終戦直前には本土決戦準備のためにわざわざ日本に呼び寄せられて 東北軍管区司令部附将官に任じられるなど、軍法違反した大罪人とは信じられないような温情人事をされているが、こちらは全く批判されることがないのは、日本人ならではの判官贔屓か、それとも人徳の差と言えるだろうか。
2度目の予科士官学校長となった牟田口は、ガツガツと名誉を求めすぎて失敗した反省からか、生徒たちには「人生の目的は、名を残すことではない。ではなにか、地位か、富か、みんな違う。自分の使命を果たすことが、人生最大の目的である。」と訓示し、また学校長ながら直に生徒を指導するなど情熱的な教育をしていた。前回の学校長のときも、校舎の改築やその後の朝霞市の移転など教育環境の充実を精力的に行い、その熱血指導は生徒にも好評であったと、当時の学生も証言しており、意外と教育畑が合っていたのかもしれない。
一方で、牟田口をフォローし続けた河辺は、緬甸方面軍司令官はさすがに解任されたもののそのまま現役を続けて、要職を歴任したのち大将に昇進までしている。さらに、この人事は戦況よりも陸軍内の勢力争いみたいな内部事情が優先されたこともあって、緬甸方面軍司令官の河辺の代わりに来たのが、これも陸軍中央の懲罰人事で左遷された東條の腰ぎんちゃくであった木村兵太郎と、風雲急を告げるビルマ戦線には到底ふさわしくない人事であった。
インパールでの敗戦後も、方面軍の指揮能力には期待できないため、現地軍は苦闘を強いられた。牟田口の後を引き継いだ片村四八中将は、インパールで壊滅状態となった第十五軍をどうにか戦える体制に再構築すると、追撃してきた英軍をイラワジで迎え撃ち、12,000人を失いながら、英軍に18,000人の人的損害を与えて、足止めに成功したが、中国国境からは米軍と米式装備の中国軍もビルマ奥深く進攻してきており、もはや、ビルマ戦線崩壊は時間の問題であった。じりじりと後退する日本軍はシッタン河まで追い込まれて、水かさを増したシッタン河を渡河して後退しようとした日本兵の多くが溺死するという悲劇に見舞われた。その際には緬甸方面軍司令部は司令官の木村以下安全なタイ王国に近いモールメンに撤退済みであった。
こうして、ビルマ戦役における日本軍の戦死者は、最終的に14万4千人に達し、フィリピン、中国大陸に続く3番目の戦死者の数となった。一方で、連合軍も英米中国軍合計で20万人以上の死傷者(除戦病者)を出して、第二次世界大戦屈指の激戦地となり、英国国立陸軍博物館のコンテストでは、ノルマンディー上陸作戦、トラファルガー海戦、ワーテルローの戦いなど名高い戦いを抑えて「Britain's Greatest Battle(イギリスの最も偉大な戦い)」に選出されている。
戦後
戦後に牟田口はGHQから戦犯として逮捕された。盧溝橋事件に関係したこともあっていわゆる「平和に対する罪」(A級)容疑での逮捕であったが、牟田口は盧溝橋事件が中国側の挑発で始まったことを証言しようと、係官を通じてジョセフ・キーナン首席検事に東京裁判法廷での証言を求めていたが、当時大佐という下っ端であった牟田口は尋問すらされなかった。
しかし、これで釈放というわけにはいかず、シンガポールで開廷された英軍の軍法会議にて、牟田口はマレー・シンガポールでの華僑虐殺に関わった疑いで追及されることとなり、東京からそのままシンガポールに送られた。
そこの軍法会議で待ち構えていたのは、日本に居住経験あり日本語が堪能ながら、友人を第18師団による病院の虐殺事件で殺害された英軍法務担当士官シリル・ワイルド少佐であった。ワイルドは知日派ながら、日本軍による戦争犯罪行為に怒り、積極的に戦犯を訴追していた。そのため、牟田口にも厳罰を科す覚悟で入念な捜査や準備を行っていたが、牟田口を尋問する直前に不幸(牟田口にとっては幸運)にも飛行機事故で死亡してしまった。
牟田口にとっての幸運はまだ続き、華僑虐殺事件についても、シンガポールでの虐殺は入念に捜査されて多数の旧日本軍人が戦犯として裁かれ、死刑となったが、なぜかマレーでの虐殺はあまり捜査されず、マレーのジョホール州の治安担当であった第18師団司令部関係者は牟田口を始めとして殆ど罪に問われなかった。牟田口の幸運はさらに続き、ワイルドの後任は病院虐殺を問うことはなく、尋問は牟田口の罪を問うよりは、軍事的な質問が中心であり、牟田口は他の戦犯容疑者の前で胸を撫でおろしていたという。それでも約2年半収監されて臭い飯を食わされた。
日本に帰ってきた牟田口を待ち構えていたのは、インパールで家族を失った遺族からのバッシングであった。牟田口が住んでいた街の駅前の交番には、牟田口に文句を言うため家を教えて欲しいという遺族が引きも切らなかったとのことで(教える警官もどうかと思うが、昭和ならではのエピソードというか・・・)また、「息子を返せ」「責任とって腹を斬れ」という手紙も殺到した。
牟田口は「敗軍の将は兵を語らず」と決めてビルマのことを自ら語ることを避け、公の席からは姿を消してひっそりと暮らしていた。戦時中に激しく対立し、戦後も牟田口を罵倒し続けていた佐藤は昭和34年に牟田口より先に亡くなったが、牟田口は佐藤の葬式に参列すると、遺族に対して泣きながら土下座して「自分がすまなかった」と詫びている。これは自宅に押し掛けてきた遺族にも同様で、牟田口は土下座で詫び続けた。
しかし、とある手紙がそんな牟田口の態度を一変させる。昭和37年に、インパール作戦中に英軍司令部で参謀をしていたアーサー・バーカー中佐(最終軍歴は大佐)から「ビルマ戦記の執筆中であり協力願いたい」という取材申し出と「(牟田口の作戦により)日本軍のインド攻略作戦は90%成功していた」「もし、佐藤がコヒマに固執せずディマプルに向かっていたら、増援が到着する前に攻略できていた可能性が高い」と書き添えてあった。
話は少し逸れるが、ちなみにこの手紙については、バーカーは実際に英軍司令部付参謀としてインパール戦に関わっていることからかなりの説得性はあるはずだが、なぜか今日の日本においては、牟田口バッシングに引っ張られて、バーカーの個人的見解みたいに矮小化されることが多い。しかし、ディマプルが危機に陥っていたことは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの回想録や、マウントバッテン、スリムら司令官に加え、バーカーの他にもウィンゲート旅団の参謀や、在ビルマアメリカ軍参謀など多くの連合軍関係者に指摘されているが、今日の日本においては、なぜか軍事評論家ですらその事実を知ってか知らずか全く無視していることが多い。
牟田口はこの手紙を受け取ると、これまで戦後17年に渡って押し殺してきた感情が爆発して、精力的に自分の作戦は正しかったと自己弁護活動をすることになった。特に、コヒマ攻略後に佐藤に対して発した宮崎隊のディマプルへの進攻命令を、河辺と佐藤に握りつぶされたことを残念がり、そのことを詳しく解説したパンフレットを作成し、国立国会図書館にも録音収録させ、マスコミ関係者にもパンフレットを配り、戦友会や自衛隊基地にも押しかけて自説を主張した。
しかし、所詮は歴史にif(もしも?)はありえず、結果が全てであり、自己弁護したところで牟田口の汚名挽回できるわけでもなかった。この自己弁護活動はバーカーからの手紙を受け取った後、大病を患うまで3年間に渡って行われたが、戦後17年間も神妙にしてきたのに、その後のわずか3年間の自己弁護活動が牟田口の評価を徹底的に地に落とした形となってしまった。
大病を患ってからは自己弁護活動も止め「たとえ自分の作戦が正しかったと証明されたとしても、インパールで数万の部下を死なせたという事実が消えはしないのです」と神妙な態度に戻り、その後まもなくして病死した。亡くなるときには病床で敬礼を続けていたが、葬式の遺影は軍服姿ではなく、背広を着用した写真であった。
インパール作戦の評価
インパール作戦は、その作戦計画から決定、そして敗北までの経過があまりにも酷いものであったことから、日本国内においては太平洋戦争でも屈指の惨敗とされ、『史上最悪の作戦』などとも呼ばれている。そのため今日でも、政府や企業などが政策判断や経営判断を誤って失敗なんかすると、「インパール作戦のようだ」と例えられるほどである。
一方で、敵であったイギリスは、スペイン継承戦争のブレンハイムの戦い以来の大勝利であったと勝ち誇っているのに加えて「日本軍は補給途絶により撤退のやむなきに至ったが、インド独立の礎となった」と評価することもある。これは日本に対するリップサービスと評されることもあるが、インパール作戦当時の極東イギリス軍総司令官で、日本を嫌っており、日本に対してリップサービスする義理もないイギリス王室の縁戚のルイス・マウントバッテン将軍(戦後に昭和天皇が渡英した際の晩餐会の出席を拒否したぐらいに反日であった)も「ビルマ戦がアジア解放の狼煙となったことは、この忘れられた大戦争のかくれた真の性格であり、もっとも重大な歴史的事実であったのだ」と述べ、スリムなどの軍人やイギリスの歴史研究家の中でもそう評価している人もいるので、完全なリップサービスというわけではないようである。
もう一方の当事者であるインド国内では、インパール作戦は、大英帝国の支配に抗った独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの功績と共に語られることが多い。国際対立が激化している昨今で、従来のインド独立の原動力として評価されてきたマハトマ・ガンディーなどの穏健な非暴力主義に対して、大英帝国と激しく戦い続け、最後はインド国民軍を指揮してインパール作戦で日本軍と苦闘したボースの武闘主義が再評価されている。
2014年に成立したナレンドラ・モディ政権は特にボースの再評価を進めており、アンダマン諸島の1島にボースの名前をつけ、インド門の傍にボースの巨大な銅像も建てられた。そのボースが率いたインド国民軍が、牟田口の杜撰な指揮下であっても勇敢に戦い続けたことはインド人の誇りにもなっており、戦後から今日まで高い人気を誇っている。
しかしながら、インドの独立とインパール作戦は間接的な関係はあっても、先に記述したとおり侵攻作戦を実現させたのは牟田口単独の力ではなく、あくまでも大日本帝国陸軍全体であり、また、牟田口の第15軍はインドにどうにか足を踏み入れただけで撃退されており、「インパール作戦がアジアを解放した」などと牟田口の評価に結びつけるのは相当の無理があるだろう。
牟田口とボースは初対面時から意気投合し、長い時間、インドの独立について語り合っていたという。ボースは、インド独立の悲願を達成するために何でも利用しようと考えて牟田口に媚びた可能性もあるが、面談後の牟田口評は上々であったという。
強気一辺倒であった牟田口もインパール作戦の失敗を悟ると弱気になり、参謀を務めていた藤原岩市少佐に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した事がある。これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません」と返し「誰も止めないから勝手に腹を切って下さい」と公然と見限ったという。実際に牟田口は自決しておらず、本気の発言ではなかったことは明白である。
ただしその藤原岩市も参謀としてインパール作戦の実行を強く推した一人であり、本来なら牟田口を責められた立場ではないのである。藤原は戦後には責任逃れを図るため「インパール作戦失敗は牟田口に反感を持っていた3師団長たちが職責を全うせず個人的な感情を容れて部隊をわざとゆっくり進ませたせい(統制前進説)」と戦史家に偽証しており、戦後しばらくの間はインパール作戦について扱った本でも柳田・山内・佐藤ら3人を批判する内容が書かれていた。上記のエピソードも牟田口の無能さを強調したい藤原による創作が入っているのではないかと疑われる。
この藤原に限らず、戦後になって旧軍人は責任のなすり合いをすることが多く、特に作戦で明らかな失敗をした上官たちに対しては、部下たちは自分の都合のいいような証言を残しているので、それはある程度差し引いて考える必要があるだろう。
これは、戦記や軍人伝記についても同様であり、今日の牟田口の悪評の大部分(上記の芸者好きエピソードも含めて)は、旧日本軍の醜悪さを世に広めんという使命感を抱いていたらしい“戦記作家”の高木俊朗のビルマ戦線渾身作の5作にも渡る戦記群である、いわゆる『インパール5部作』の記述がソースであることが多いが、この高木も、戦時中は従軍記者としていわゆる大本営発表を垂れ流し国民を煽り、従軍記者として軍から特別待遇を受けていたのにも拘らず、戦後になって「わしは戦時中から反戦主義だった」だったと主張しだして、旧軍人に対し、世間体を気にして反論できないことをいいことに、あることないこと書いて徹底的にバッシングし、高木も関係者も全て物故した今日になって、その記述があたかもすべてが史実かのように定着してしまったものも多い。
高木の小説に対しては、牟田口だけではなく、解任された師団長の記述に対しても関係者から抗議を受けたり苦言が呈されている。命をかけてまで前線で奮闘した第15師団長山内に対しては、最前線で朝食にはオートミールを要求していたとか、洋式トイレを持参させていたとか記述していたが、いずれも事実歪曲との指摘を受けている。第31師団長佐藤にしても、戦中の精神鑑定で「正常」と鑑定されていたのにも拘らず、当初の版では『抗命―インパール作戦 烈師団長発狂す』などと名付け(後の版では削除)、佐藤があたかも精神障害になったかのように印象付けていた。
他にもその記述内には明らかに史実にないこともあったりするが、そもそも『インパール5部作』の1作目『イムパール』(その後インパールに改称)は牟田口を与田内とし、他の登場人物全員仮名であった(後の再版で実名に修正)など正確な戦記ではなく、あくまでもエンタメ重視の“ノンフィクション風戦記小説”(司馬遼太郎の歴史小説みたいなもの)であって、そもそもこれを歴史資料とするのが無理があるのだが、もはや、高木の創作によって定着した人物評を覆すのは困難であろう。
一方で、歴史作家の大家山岡荘八は、親しかった第31師団長佐藤から牟田口の悪評を散々吹き込まれて、高木と同様に牟田口に対して激しい批判を続けていたが、文学界の師匠であった劇作家長谷川伸から、「もっと客観的に見なさい」と苦言を呈されて、インパール作戦を徹底的に調査した結果、牟田口、佐藤双方にやむを得ない事情があったことを認識して、牟田口への一方的な批判を止めて、太平洋戦争戦記の名作『小説太平洋戦争』で牟田口の擁護を行い、軍事雑誌「丸」の企画では対談も行っている。
しかし、今日の日本においては、作家としての知名度では一般的には山岡が高木を上回るが、こと牟田口に対する評価については、山岡の評価よりも高木の評価が圧倒的に広まっているのが実情である。
牟田口の妻は名家の出身であり、軍人をあまり好んでおらず、子供に牟田口の後を追わせて軍人にする気はなかったという。そんな母親の気持ちをくんでか、牟田口の2人の息子は名門大学に入学して文人の道を歩み、企業人や研究家として大成している。なお、牟田口も息子たちが軍人とならないことに反対することもなく、好きなようにさせていた。戦後になって、息子たちは父親の悪評もあってか、反戦主義となったが、父親の軍に関連する遺品を処分することはできず、それは後に更にその息子(廉也の孫)によって公開された。
現在も牟田口への擁護論はほぼ皆無に等しいが、平成以降では牟田口の上司だった河辺正三や東条英機の責任も大きいのではないかという意見も多い。
牟田口伝説
訓示コピペ
インパール作戦が失敗に終わり、命からがら引き上げてきたズタボロの兵士達に向かって、彼が演説したという内容である。
諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴らに日本が負ける物か。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやりぬくんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん… |
もはや中身の無さは語るまでもないが、牟田口がこの説教を垂れている間にも、栄養失調や病気でやせ細り疲弊しきった兵士たちはバタバタと倒れていったという。
しかし、この牟田口の訓示のソースは高木の小説であり、これとほぼ同じ内容の訓示を第二次アキャブ作戦の際に、第55師団の歩兵団長桜井徳太郎少将が行ったとも高木は著作に記述しており、どちらかもしくは両方とも創作の可能性が指摘されている。
上記の演説の真偽はともかく、旧日本軍の悪癖を表現するものとしては説得性もあり「現場でズタボロになっている実務者達に、後方でラクをしている口だけ人間が偉そうに非現実的な根性論をたれる」構造は、ブラック企業をはじめとする現在の諸問題にも通じるところがある。医療崩壊が問題になった頃はよく医療系、科学系のブログで上記を改変したコピペが出回った。
中華レストラン「ジンギスカンハウス」
牟田口は戦後に飲食店を開業したが、その店舗名が中華料理のレストラン『ジンギスカンハウス』であった。店の名前の由来は言うまでもなくインパール作戦中の『ジンギスカン作戦』である。兵士に恨まれそうな店名だが、牟田口の神経ではそれが理解できなかったようだ。 |
これは完全なフェイクニュースで、出元は全くの不明だが2ちゃんねる軍板の『信じられないが、本当だ』スレッドのコピペからネットに広まったものと思われる。なお、戦後の牟田口は戦犯には問われず釈放されたのちは、東京都調布市の自宅で恩給暮らしをしており、飲食店を開店した事実はない。
そもそもジンギスカンとは羊肉の焼肉料理で、発祥も北海道(諸説あり)の国産料理であり、ジンギスカンは中国人ですらなく、なぜこのような話が一部で信じられていたのか謎である。
うそはうそであると見抜ける人でないとインターネッツを使うのは難しい。
このスレッドには他にも多くの牟田口コピペが書かれており、そのまとめサイトと併せて真偽不明の『牟田口伝説』のネットでの拡散に貢献(笑)している。
自分の葬式で自己弁護
晩年に自己弁護に明け暮れていた牟田口は、体調を崩して余命いくばくもないと自覚すると、家族に「自分が死んだときは葬式の参列者にパンフレット(牟田口が自己弁護のために自費で編纂したもの)を配布してくれ」と遺言を残した。牟田口の遺言通り、葬式には会葬返礼品とパンフレットが山の様に積み上げられ参列者に配布された。 |
これも完全なフェイクニュースで、これも他の多くの真偽が疑わしい牟田口伝説と同様に、高木の小説がソースである。永年に渡って妄信されてきたが、後に戦史研究家の関口高史氏が、当日葬儀に参加された方や牟田口の遺族、葬儀の受付をされた方に確認を取ったところ、少なくとも葬儀でパンフレットを配布した事実はないとのことが判明した。
牟田口の葬式には数百人が参列し、陸軍士官学校同期の猿谷吉太郎中将が代表して弔辞を述べた。
(牟田口への悪評は)いずれも根拠なき感情論や誤解に基づくものが多く、固より、そのために君の真価を傷つけるものではなかったとはいえ、一部の悪質な人身攻撃的な批判に対し、君としては心外に堪えなかったであろう。 |
正に猿渡の言う通り、牟田口は死んでまで悪質な人身攻撃的な批判を受けることになってしまった。
英軍から勲章
英軍からは、「牟田口は無謀な作戦を強行し、日本軍三個師団を壊滅に追い込んだから、勲章を与えるべき」とブリティッシュジョークで皮肉られている。 |
敵将スリムからもっとも評価(当然逆の意味で)されていたのは牟田口ではなく第31師団長の佐藤であった。インパール作戦における最大の危機は、コヒマ攻略後のディマプルであったと考えていた敵将スリムは、そのチャンスをみすみす逃した佐藤を最も酷評しており、自分の戦記では「(ディマプルの防衛には)敵の師団長(佐藤のこと)の馬鹿さ加減が不可欠だった」「佐藤はチャンスを活かすことなく、コヒマに到着したら進撃を止めて塹壕に潜り込んでしまった」「空軍が敵師団司令部を爆撃して佐藤を殺害すると申し出てきたが、私は最も我々に協力的な将軍であるからとして必死に止めた」と散々な言いようである。おそらくこの佐藤への酷評がいつのまにか牟田口の評価にすり替わった可能性が高い。なおスリムの戦記には牟田口は殆ど登場せず、対戦相手としては河辺を強く意識していたようであり、つまりスリムからは牟田口はアウトオブ眼中だった。
余談
- 海軍にも同姓の軍人牟田口格郎がいた。
こちらは軽巡洋艦・大淀の艦長として礼号作戦や北号作戦などに参加した歴戦の猛者であり、戦艦伊勢の艦長に就任後、呉軍港空襲にて戦死した。最終階級は大佐で、死後少将に昇進している。
牟田口廉也とは出身地も違い(東京都出身)縁戚関係もないが、同姓で陸軍の牟田口が有名になりすぎたために風評被害を受けている。
- パワポケ2
牟田口をモデルにした無能軍人(任月参謀長)が登場し、資材運搬用の豚とともに敵陣地に侵攻する「トンカツ作戦」を主導した。豚の世話の手間や、豚が行軍の邪魔になることを指摘した主人公に対して「わしのすばらしいアイデアに文句をつける気か!」と叱責し、主人公に豚集めを命じた。結局、戦闘開始直後にブタが逃げ出してしまい「トンカツ作戦」は大失敗に終わる。
牟田口本人が登場、それなりに有能な人物で、その強い押しで主人公櫂直をフォローする頼りになる存在として描かれている。