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牟田口廉也

むたぐちれんや

帝国陸軍中将。インパール作戦を立案・指揮し、麾下の第15軍を全滅させた。
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大日本帝国陸軍中将。明治21年生まれ、陸軍大学校(29期)卒。

盧溝橋事件太平洋戦争開戦時のマレー作戦、シンガポール攻略戦の指揮をとる。猪突猛進の傾向が強かったものの、上官の命令に忠実であり(指揮官としては失格なのだが)最前線に立って敢闘することから同じような精神性の上層部主流派からは評価されていた。マレー作戦では苛烈な攻撃精神を山下将軍に心配されたが、緒戦の勢いに乗ったまま戦果を上げつづけたことから昇進を重ね、昭和19年のインパール作戦を立案。杜撰な作戦により麾下の第15軍を殲滅に追いやり、本人は後方に逃亡。帝国陸軍随一の愚将として戦史に名を残した。

なお、元々は皇道派だったが、二・二六事件以降は、保身の為に統制派の首魁である東條英機に擦り寄った事でも、つとに有名。

盧溝橋事件

盧溝橋事件の際に、現場に居た支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であり、部下からの反撃許可要請に対して、すんなり許可を出している。これが日中戦争が始まった直接のきっかけであった

ちなみに、中国側から発砲後、部下を事実確認および交渉の為に中国軍側に軍使として行かせる命令を出しているが、その部下が帰って来ない内に、心変わりして反撃命令を出している。佐賀県出身だけあって、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて早く死ぬはうに片づくばかりなり」に忠実なシグルイ精神である。(但し、「早く死ぬはうに片づ」けようとしたのは、自分の命ではなく、部下の命)

なお、牟田口は元々、中央でのデスクワークが長く、また、同郷だった真崎甚三郎の影響で皇道派だったのだが、この前年に起きた二・二六事件のトバッチリで中国に飛ばされていた。つまり、この時点で、牟田口には前線指揮の経験・スキルは、ほぼ0である

また、牟田口が指揮していた支那駐屯歩兵第1連隊は、盧溝橋事件の前年に大幅増強されてるが、その理由の1つは、「中央の言うことを聞かなくなった関東軍に対する牽制の為」とする説も有る。早い話が、関東軍のお目付け役を期待されてたのに、関東軍と似たような真似をしでかしたのである色々と駄目だろ。日中戦争の原因の1つは、日本陸軍内の内輪もめの解決に失敗した結果と言う見方も可能であろう。

日中戦争が無ければ太平洋戦争も無かった事を考えると、大日本帝国を滅ぼした元凶の一人は、ある意味で、コイツである。

なお、後の牟田口廉也の言動からすると「自分のせいで戦争が始まり、国に迷惑をかけた」と言う自責の念は持っていたようであるが、その自責の念により、その償いとして、日本に有利な条件で戦争を終らせる事が可能な程の戦果をあげなければならないと考えるに至り、後のインパール作戦強行に繋る。

インパール作戦

インパール作戦ではビルマ・インド国境の険しい山脈を攻略するにもかかわらず、補給を軽視。現地でを調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」と称する作戦を立案した。(なお、牛用の餌は荷物に含まれていない)

当然、牛が山を越えられるわけもなく、現地の事情を知る南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団はほぼ全員が、補給が不可能という理由から猛反対するが、牟田口はビルマ方面軍の河辺正三大将(盧溝橋事件時の牟田口の上司)に対し「支那事変はわしの一発で始まった。だからインパール作戦を成功させ、国家に対して申しわけが立つようにせねばならん」と作戦実行を強硬に主張した。

余談ながら、牟田口が第18師団長(=前線で指揮を取らざるを得ない役職)時代にインパール方面への攻撃計画が南方軍および大本営から立案された際(昭和17年立案の第21号作戦)、彼は「補給が困難である」ことを理由に猛反対していた。元部下などの証言から、牟田口は士官時代から補給などの後方支援を理解せず軽視している(もっとも、陸海問わず一部の例外を除いて旧日本軍に共通する傾向である)のだが、自分が最前線に向かうのは無謀すぎることを認識できる程度の理解はあったようだ。

現場の将兵にとって不幸だったのは、東條英機をはじめ無謀な作戦を中止させるべき存在であるはずの軍上層部が、悪化する一方であった戦局の打開をこの作戦に期待して、牟田口を制止するどころか後押ししてしまったことである。

牟田口は作戦が始まると「日本人は草食動物だから補給の必要はない。草を食って戦え」と暴言を吐き、前線に出てくることすらしなかった。

牛はインパール山中で餌にするべき草が無く次々と倒れ、兵士が携行していた食糧が尽きると、前線ではほとんど食べるものがなくなった。この間、牟田口自身ははるか400km離れた後方のリゾート地・メイミョウにある指令本部でのんびり過ごしており、夕方になれば芸者遊びに現をぬかしていた。
なお、前線のコヒマからメイミョウまでは金沢から仙台くらいの距離がある。

前線では、補給が途絶し、戦闘以前にマラリアなどの熱帯性伝染病や飢え・激しいスコールで地獄絵図と化していた。これを見かねた前線の指揮官、第31師団長佐藤幸徳中将が何度も撤退を進言するも聞き入れられなかったため独断で部隊を退却させるという前代未聞の事態に発展した。
第33師団長柳田元三陸軍中将、第15師団長山内正文陸軍中将も撤退を進言した。

インパール作戦は誰が見ても失敗すべくして失敗した作戦にもかかわらず、本人は「勝手に退却した佐藤が悪い」と主張。佐藤の独断退却は抗命罪で死刑になることを覚悟しての行為であったが、牟田口は軍法裁判で自らの責任を追及されることを恐れ、佐藤を精神病ということにしてジャワ島送りにした。現場の司令官が師団長を解任する権限はなく、牟田口による解任は統帥権を犯す行為である。(当時の陸軍では、陸軍省と陸軍参謀本部は同格の機関であり、現場指揮などの「軍令」は陸軍参謀本部の管轄、人事などの「軍政」は陸軍省の管轄であった。つまり、牟田口がやった事は、同じ陸軍とは言え、別の組織の管轄事項を犯す事であった。しかも、師団長を任命したのは、形式的には大元帥陛下=天皇である)
また牟田口は上記の柳田・山内をも更迭。山内はこの作戦中にマラリアに感染しており、日本に帰る事が出来ないまま病死した。山内は「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」という恨みに満ちあふれた言葉を残している。

作戦の失敗が確実になると司令部の庭に祭壇を築いて戦勝祈願の儀式を始め、参謀を呆れさせた。
このような状態で人の意見を全く聞かなかったため、第15軍の幕僚や参謀たちはとっくに牟田口を見捨てていた。

このような暴挙が可能になったのも、牟田口が東條英機に上手く取り入っていたため。一応形式的な処罰人事は受けたものの、その後さっさと陸軍予科士官学校長に返り咲いている。(ただし、東條英機は、牟田口更迭直前の1944年7月末に失脚しており、牟田口への処罰が甘いのは、東條による情実人事ではなく、当時の陸軍が将官に甘い処分を下す傾向が有った為である可能性も考えられる。後に特攻隊の部下を見捨てて敵前逃亡した富永恭次に対する処分も予備役編入で済んでいる)

インパール作戦の顛末

インパール作戦の投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人という悲惨な結果となった。すなわち事実上の全滅である(ただし、インパールでの犠牲者数は諸説ありよく分かっていない。裏を返せば、自軍の戦死者・行方不明者の数も、ちゃんと把握出来なかった程の末期的状況だったのだ)。彼らは、牟田口・東條をはじめとする陸軍上層部によって殲滅されたと言っても過言でない。インパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。

なお、インパールの将兵にとってさらに不運だったのは、牟田口が更迭されたあとの後任、木村兵太郎中将も牟田口に匹敵する無能だったことである(早い話が、木村は、東條英機の腰巾着の1人であり、東條内閣時代は陸軍次官→軍事参議官兼兵器行政本部長を勤めていたのだが、1944年7月末の東條英機の失脚に伴ない、前線に飛ばされたのである。似た様な運命を辿った人物としては、東條内閣時代に陸軍人事局長→陸軍次官を勤め、後に特攻隊の部下を見捨てて敵前逃亡した富永恭次が居る)。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、ガタガタと手が震えるほど取り乱し、一目散にタイに逃亡してしまう(ちなみに、木村はこの後大将に昇進した)。ビルマに残っていた日本軍やインド国民軍の将兵、在留邦人、傷病兵などは見捨てられた。インパールの生き残りには、イギリス軍に追い立てられ、連合国側に寝返ったビルマ国民軍に襲撃される悲惨な逃避行が待っていた。こうして、ビルマ戦役における日本軍の戦死者は、最終的に14万4千人に達した。

さらに言えば、第15軍は、インパール作戦開始前に、上位組織であるビルマ方面軍および南方軍に対して、補給・輜重・衛生・病院・工兵(補給の為の道路施設など)などの部隊の大幅増設を要請しているが、無い袖は振れる訳もなく、増設された部隊は要求の2割程度となっている(酷いモノだと、自動車中隊が、150個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が26、実際に増設されたのが18、輜重兵中隊が、60個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が14、実際に増設されたのが12)。つまり、元から補給が間に合わない事が、誰の目にも明らかな状態で強行された作戦だったのだ。

ちなみに、インパール作戦の目的の1つは、中国国民党軍への補給路を絶つと言うものである。つまり、敵の補給路を絶つ為の作戦なのに、肝心の自分達の補給が不十分どころでは無い状態だったのだ。

もっとも、牟田口廉也の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が作戦中止を考え出してから、実際に作戦中止命令が出るまで(主として政治的ゴタゴタにより)2ヶ月近くかかるなど、インパール作戦の悲惨な状況は、牟田口一人のせいとばかりは言えない。とは言え、それは、牟田口廉也以外にも駄目な奴は山程居た、そもそも、当時の日本の政府・軍部そのものが末期的状況にあった、と言うだけであり、牟田口廉也を免責する理由にはならない。なってたまるか。

戦後

連合国軍から戦犯として一応は逮捕されたものの、あっさり不起訴処分となり、戦時中の責任は問われなかった。これは連合国に対する罪を問うものであり、日本兵をどんなに死なせようが、そのこと自体の責任は問題とはされなかったからである(まあこれは当然と言えば当然)。前述した東條や木村といった東京裁判で裁かれたものを除き、牟田口など無謀な作戦をゴリ押しし自軍に多大な被害を及ぼした軍人の多くは戦後もおとがめなしのまま天寿を全うしている。

牟田口本人もインパール作戦に参戦した兵士達の生き残りやその遺族から恨まれていることは知っており、作戦の失敗を反省するような言葉を一応は口にしていたものの、当然本心では部下のせいであると考えていた。昭和37年にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことをきっかけに、「自分の作戦は正しかった。部下のせいで失敗した」と主張するようになる。あまつさえ家族に遺言を残し、自分の行動を弁解するパンフレットを葬儀の席で配布させ死んでからも弁解と言いわけに終始した。

上記の行動から、能力面のみならず人格面でも評価は最低である。

インド国民軍やイギリス軍の一部将兵の評価を根拠に「補給途絶により撤退のやむなきに至ったが、インド独立の礎となった」という評価もあるが、リップサービスを真に受けた結果であることは言うまでもない。

そのリップサービスも、日本に同調しつつ覇権主義を警戒していたマハトマ・ガンディーなどの穏健な非暴力主義者への牽制も考慮すべきである。一例として、ガンディーの運動がイギリス本土でも話題になり、議会に招待して演説させるべしという世論が高まった。その際、イギリス政府はガンディー以外の独立運動家を主義主張や勢力の大小を問わずに数十人招待し、それでもって議会演説の時間を変えずに細分化させることで、ガンディーをその他大勢の一思想家に貶めて政治的に封殺している。戦後も英国(と宗派対立を煽った一部インド人)においてはガンディーの功績を過小に見積もる傾向があり、その代わりとしてインパール作戦やインド国民軍が引っ張り出されている可能性も捨てきれない。

余談ながら、インパール侵攻の政治的見地からの評価はあるものの、先に記述したとおり侵攻作戦を立案したのは大本営と南方軍上層部であり、牟田口は自分が行かなくて済むようになってから賛成しだしたに過ぎないので、これを牟田口の評価と結びつけるのは相当の無理があるだろう。

ちなみに、太平洋戦争時の帝国陸軍には、牟田口や木村以外にも規格外れの無能・ダメ軍人(富永恭次や花谷正、立花芳夫など)や、上に断りなく陰謀をめぐらせ戦争を始めた問題児(辻政信石原莞爾など)の例が大変多い。

もちろん、硫黄島の戦いで奮戦してアメリカ軍を苦戦させた栗林忠道中将や、インドネシアやラバウルにて占領統治と防衛指揮で見事な手腕を見せた今村均大将、上層部の無茶な講和条件に翻弄されつつも中国国民党指導部と密接な信頼関係を築き上げて敗戦後に200万人以上の在中日本人帰還を成し遂げた今井武夫少将など、有能かつ真っ当な陸軍将官も存在していた。しかし、真っ当ゆえに自分から部下の不祥事の責任を取って職務を解任されたり、陸軍上層部主流派から疎まれて左遷させられたりと、おおむね冷遇されている者ばかりであった。

日中戦争が始まった時も、牟田口は現場司令官でしかなかったのだが、当時の陸軍が一現場司令官の判断に引っ張り回され、上層部がこれを追認するグダグダな組織になっていたという一例。この陸軍の欠陥をついて確信犯的に暴走し、やりたい放題をしでかしたのが石原莞爾や辻正信である。こんな無能やキチガイが昇進する昭和期の帝国陸軍って一体....。

牟田口コピペ

インパール作戦が失敗に終わり、命からがら引き上げてきたズタボロの兵士達に向かって、彼が演説したという内容である。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

牟田口がこの説教を垂れている間にも、栄養失調や病気でやせ細り疲弊しきった兵士たちはバタバタと倒れていったという。

あまりの無能さにF機関を率いたインド国民軍の生みの親・藤原岩市少佐は激しく諫言し「誰も止めないから勝手に死ね」と公然と見限った。

ただしその藤原岩市も戦後になると牟田口と並び「インパール作戦失敗は牟田口に反感を持っていた三師団長たちが職責を全うせず個人的な感情を容れて部隊をわざとゆっくり進ませたせい(統制前進説)」と戦史家に偽証しており、戦後しばらくの間はインパール作戦について扱った本でも柳田・山内・佐藤ら3人を批判する内容が書かれていた。

この演説に凝縮される「現場でズタボロになっている実務者達に、後方でラクをしているDQN上司が偉そうに非現実的な根性論をたれる」構造は現在の諸問題にも通じるところがあり、
またこれを転じた形で、「現場の苦労や疲弊などを伴う深刻な問題に関して、第三者やマスメディア等が薄っぺらい根性論を振りかざして一方的に責め立てる」という状況を説明するのにも取り上げられる。
医療崩壊が問題になった頃はよく医療系、科学系のブログで上記を改変したコピペが出回った。

余談

ちなみに、海軍にも牟田口格郎という軍人がいる。
軽巡洋艦・大淀の艦長として礼号作戦北号作戦などに参加した歴戦の猛者であり、戦艦伊勢の艦長に就任後、呉軍港空襲にて戦死した。最終階級は大佐で、死後少将に昇進している。
牟田口廉也は特に縁戚関係はなく、たまたま苗字が同じなだけなのだが、陸軍の牟田口が有名になりすぎたために、「牟田口という名の軍人」という色眼鏡で見られる風評被害を受けている。

関連イラスト

すごいよ!牟田口さんその2
すごいよ牟田口さん!



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武部直美 - 賛否両論で知られる東映プロデューサー。アンチスレでついたあだ名が「ニチアサの牟田口廉也」⇒アンチスレ

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