花谷正
はなやただし
大日本帝国陸軍中将。1894(明治27)年生まれ、陸軍士官学校(26期)・陸軍大学校(34期)卒。
大日本帝国陸軍随一のパワハラ精神の持ち主であり、殴る蹴るといった物理的なものに加えて、罵倒、誹謗中傷、果ては自決強要までと精神的なものまでそのパワハラは多岐にわたった。花谷のパワハラにより精神を病んで、実際に自決まで追い込まれた部下もいたとされる。
主な戦歴としては、関東軍在籍時に「満州事変」を首謀し、満州国建国の基礎を作る。第二次世界大戦においては、ビルマで第55師団長として「第二次アキャブ作戦」を指揮し、英軍の反攻を迎撃して一旦は英軍1個師団を包囲したものの、新戦術「円筒形陣地」の前に大損害を被ってしまった。しかし、部下の犠牲を全く厭わない苛烈な作戦指揮で英軍にも大損害を与え、結果的に作戦目的であった「インパール作戦」の牽制と、ビルマ西部の重要拠点アキャブの防衛には成功している。その後は「インパール作戦」失敗後の英軍の大攻勢の前に「シッタン作戦」で師団は壊滅状態に陥り、師団長を更迭された。
戦後は旧満州関係者と懇意にしており、満州国政府の有力者であった岸信介とも関係は続いていた。1957年に63歳の若さでこの世を去ったが。葬式には岸を始めとする多数の満州人脈が参列した一方で、軍関係の参列では、パワハラを受けていた多くの元部下が参列しなかったので、先輩や同僚の参列ばかりになっていたといわれる。
とにかくエリート意識が強く、日頃から、当時はエリート軍人の王道であった、陸軍幼年学校(陸幼)卒や陸軍大学校(陸大)卒の経歴を鼻にかけ、相手が上官であろうと陸大卒でなければ「大学校を出てない奴(無天)はだめだ。低能め」と暴言を吐いた。同じ陸大でも、専科(戦時に設けられた速習課程)卒だと「本科でないとだめだ」と言って徹底的にいじめぬいた。ただし、陸大本科卒の将校でも花谷のパワハラの被害者になっているので、学校歴はあまり関係ないのかもしれない。
口癖は「命令違反だ」「処罰する」「腹を切れ」と物騒なものばかりであったが、特に、高級将校には厳しく接しており、その指導は罵倒や自決強要などの精神的な虐待に加え、物理的な体罰も常用していた。高級将校が些細なミスなどをおかすと「ろくに実戦の経験も戦況判断もないこの穀つぶしの無能野郎めが」などと罵倒して、高級将校の面目を失わせることも度々であったが、それは上記の通り、学歴を重視するエリート意識が強かったためであろう。そのため、部下は「師団長は血も涙もない鬼のようだ」と言い合い「赤鬼」というあだ名で呼んでいた。逆に一般兵士に対しては士気を鼓舞するような勇ましいところを見せつけることも多く、一定の人望はあった。
花谷は、起案文書などの細かい「てにおは」に異常にこだわり、誤りを指摘しないままに何度もやり直しを命じた。このため、野戦病院の開設など重要事項の決裁が大幅に遅れ、部隊運用に多大な悪影響を及ぼしている。やっとこさ野戦病院開設の決裁が通ったとしても、戦況の変化で開設予定地がすでに最前線となっており、時間もないため独断で後方に設置し直そうとした軍医に対して、花谷は「俺の命令と違う!」と烈火のごとく怒り、殴りつけた。
このように非常に問題の多い人物であるが、陸軍上層部にとっては、彼らが最重要視する「精神主義」の強烈な体現者であり、また満州国建国に貢献した花谷は、まさに理想の人材像であった。陸軍幼年学校の教育では、満蒙を日本の勢力圏に置く思想を徹底的に叩き込んでおり、満州国建国を通じてそれを実現した花谷は陸軍のエース・オブ・エースと見られていた。
陸軍が最重要視する「精神主義」の強烈な体現者である花谷は、弱気な発言を一番嫌った。長年の戦闘による疲れと気候の違いで憔悴しきった現場の兵を指して「体力が低下していて、とても戦える状態でない」と正直に具申した軍医部の少佐に対して、「貴様は国賊だ。ぶち斬るぞ」と花谷は激高し、剣を構えた。少佐は「覚悟はできております」と一歩踏み出して首を突き出した。ここで冷静になったのか「以後、気を付けろ」と吐き捨てて去っていった。
一方で花谷がビルマにいた頃は、第15軍司令官の牟田口廉也を始めとして、当時の緬甸方面軍では酒食にふけり、女性にだらしない将官も多かったが、花谷は無縁であった。花谷の第55師団長時代の直属の部下であった斎藤弘夫中佐は、酒食にふける緬甸方面軍司令部を見て「くる夜もくる夜も酒と女だ」「緬甸方面軍が顰蹙をかうのは当然ではないか」と苦々しく思っていたが、そこからは一線を引いていた花谷を見て、尊敬の念を抱いている。そのため、多くの花谷の部下が花谷の苛烈な指導に音を上げているなか、斎藤はそれを耐えることができた。
満州事変
奉天特務機関に在籍していた花谷(当時、少佐)は、関東軍高級参謀・板垣征四郎、作戦主任参謀・石原莞爾らとともに満州事変(満鉄線路の爆破→中国軍閥のせいにして自衛名目で満州一帯に軍事侵攻)を首謀する。
しかし決行の2日前になって、強気一辺倒だったはずの花谷が突然日和って、中止をしようと言い出した。他のメンバーはそんな弱気な花谷を見て激昂し、予定通りの決行を主張したが、花谷もゆずらず、そこで石原がやむなく、「おれが箸を立てて、右に倒れたら中止、左に倒れたら決行だ」と仲裁に入り、箸を放つと、右に倒れた(中止)。
これで一旦は花谷の主張通り中止となったが、結局、その夜に石原が独断で計画の決行を決めてしまった。さらに石原は一旦日和った花谷を信用せず、決行日には、東京から様子を見に来た参謀本部の高官を足止めするため料亭で接待することを命じている。
花谷は常日頃から「満州事変はワシひとりで画策した」と豪語して回っていたが、実際は石原から信用されずに肝心なときには関われず、計画に関わった片倉衷からも、「花谷は隠し事ができない性格なんで、重要な機密は知らされなかったし、謀議には参加していない」と暴露されている。
満鉄線路の爆破(柳条溝事件)がなされると、特務機関から現地日本領事館まで「柳条溝で中国軍が満鉄線を爆破した。至急来てくれ」と電話があった。領事館職員が駆けつけると、特務機関では、板垣をはじめ参謀連中が荒々しく動いていた。板垣は「満鉄線が爆破されたから、軍はすでに出動中である」と述べて総領事の協力を求めた。領事館職員は軍の陰謀ではないかとの感想を抱いたが、外交交渉による平和的解決の必要を力説した。
一旦は日和っていた花谷であったが、ここで強気を取り戻し、領事館職員の面前で軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇した。その後、花谷は領事官邸に軍刀をちゃらつかせて殴り込み、軍に不利な内容の電報を外務本省に送るのをやめるよう怒鳴りつけ、自身が率いる小隊を動員して無線室を破壊すると威嚇した。しかし、領事館職員はビビることなく歯向かってきたので、花谷は殴り倒している。
その後は花谷は精力的に動き、朝鮮半島に駐留していた日本軍部隊を国境を越境して満州に招き寄せるために、自作自演の爆弾テロを起こして、計画通り朝鮮半島駐留軍を満州に招き寄せることに成功している。
満州事変後、花谷は責任を問われて、処罰として富山市の歩兵第三十五連隊の第一大隊長に左遷される。本来であれば免官されて然るべきなのだろうが、陸軍上層部のお友達主義により左遷のみで済んだ。富山の連隊には、花谷以外に陸大卒の将校がいなかったため、花谷は司令部内を我が物顔で闊歩し、上官であっても容赦なく怒鳴りつけていたという。そのころ、富山市の新聞社である北陸タイムスが、陸軍記念日に軍部に対して批判的な記事を掲載した。記事を見た花谷は激怒し、翌早朝、非常呼集を命じて大隊の兵を率いて北陸タイムスの社屋を包囲し、発砲した。卑劣な言論弾圧事件であるが、片倉衷の新聞社脅迫事件など似たような事件は当時いくつも起こっていた。当時の陸軍全体がいきり立っていた故の出来事であり、当然のように本件で花谷が処罰を受けることはなかった。
日中戦争
花谷(当時、大佐)は歩兵第43連隊長として、日中戦争に従軍する。暴風雨の中、湖を小舟で渡河していた折、隷下の大隊長の舟が強風に流され、部隊の進攻が遅れた。花谷は、多くの将兵の前で大隊長を口ぎたなく罵った。その後の迫撃戦の際、後方にいた花谷連隊長の本部が、大隊長に追いつき、花谷は馬上から「何をぐずぐずしているか」とムチで大隊長をなぐりつけた。このとき、花谷は着任したばかりで、初陣ということでかなりイキり立っており、それだけに大隊長が遅れたことに激しい不満を持っていた。連隊が台湾に移動した際、将校のみの宴席が開かれ、花谷はこの大隊長をビール瓶で殴りつけた。大隊長は後に自決し、遺書は花谷が握りつぶした。*
第55師団長としてビルマへ
1943年10月、花谷(当時、中将)はビルマの第55師団長に着任した。空港で同師団の多くの将校が出迎えたが、花谷は降機するやいなや、服装が乱れていた工兵連隊長に「服装がなっとらん!」「それでも連隊長か!部下に示しがつかないだろ!」と怒鳴り、殴りつけた。大勢の前で恥をかかされた工兵連隊長は、その後に開かれる予定の花谷の歓迎会の場で花谷を切り殺すと騒いだが、周りに制止され、「こんどやりやがったら撃ち殺してやる」と一旦は断念している。
着任後、花谷は兵士を前にして「いかなる場合でも、最後まで抵抗を続けよ。弾丸をうちつくし、軍刀が折れたとき、敵が数十名きたるとも、肉弾となって突入せよ。最後に天皇陛下万歳を高唱し、潔く散花せよ」と訓示した。このような精神力偏重主義は大日本帝国陸軍の上から下まで刷り込まれており、兵士たちは勇ましい師団長を熱狂的に迎えた。
しかし、猛将と自他共に認める花谷の態度は横暴で、現場の兵曰く「ガラの悪い的屋」のようで、会議などの際には、両足をテーブルの上に乗せ、その足の間に兵が苦心して作った菓子と茶を挟み込んでいたという。従兵はそんな花谷の態度を見て「このばか者がよくも天皇陛下の親輔する師団長になれたものだ」との感想を抱いている。
花谷に一番多く殴られたのは高級副官の栗田中佐で、役職柄、直属の上司となる花谷の前に行くことが多く、一日に数回は殴られたという。栗田中佐の顔は赤く腫れあがり、血を流し、まともであることはなかったという。
師団司令部の近くに、空襲対策のため通行禁止となっている川原があった。暗夜の中、通行禁止の川原から師団司令部に入ろうとする人影を見た歩哨が「だれか」と問うた。その正体は花谷であり、「おれが帰ってくるのがわかっておるじゃないか。からかう気か」と歩哨に怒鳴り、殴った。歩哨の上長にあたる兵長が呼び出されたが、兵長は「通行禁止となっているのだから、確認するのは当然」と反論した。花谷は「通行禁止は兵隊のために決めたのだ。わしが通るのに文句があるか」と怒鳴り、その兵長は理不尽にも一等兵に降格させられた。その後、兵長は花谷を暗殺しようとするも周囲に止められ、後に自決した。
このような花谷に取り入ったのが、師団の幕僚である河村弁治・参謀長と斎藤弘夫・高級参謀である。河村参謀長は、自分が殴れないために、花谷が部下を怒鳴り殴るのを横から冷笑するのみで、花谷をなだめたり制止することは一切なかった。花谷の専用車(フォード)に皇族車を意味するあずき色の塗装を施すなどして花谷を大いに持ち上げたため、花谷はさらに思い上がることなった。なお、河村参謀長は、もともと工兵(鉄道)一筋の経歴を歩んでおり、このような者を鉄道と縁もゆかりもないビルマ西部の師団の参謀長に置いたところでうまく機能しないのは火を見るよりも明らかであった。
一方で斎藤は少し事情が異なっていた。パリで誕生して、フランスのミッションスクールで教育を受けたのちに陸軍士官学校に入学したという異色の経歴を持っていた斎藤は、その経歴からか、大日本帝国軍人に高い理想を抱いており、他の多くの日本軍高級将校のだらしなさや無能さに幻滅していた。第55師団に着任すると、花谷は斎藤に対し開口一番「何でも知っていると思いこんでいる青二才がまた来たか」と詰ったが、斎藤は怯まなかったので、花谷は感心したのか「まだウンと学ばなければならぬことがある。おまえがどうそれを体得していくか、俺が面倒をみてやる」と言って、厳しく指導したという。今まで多くの上官に幻滅してきた斎藤は、自分の理想の軍人像そのものの花谷を敬愛し、そのパワハラ上等の苛烈な指導も、大日本帝国陸軍軍人の育成法として必要と考えて受け入れていた。
第二次アキャブ作戦
大英帝国首相ウィンストン・チャーチルは、日本軍に奪取された極東植民地の奪還に執念を燃やしており、その手始めとして、1942年末から1943年初にかけて、ビルマ西部の重要拠点「アキャブ」にバレンタイン歩兵戦車を露払いにして歩兵1個師団を進攻させた。このときは第55師団の迎撃によって、バレンタイン歩兵戦車隊は全滅し、歩兵師団も壊滅状態に陥る大損害を被って撃退され、一旦はビルマ方面は平穏となった。(第一次アキャブ作戦)
しかし、イギリス軍はアキャブの攻略を諦めておらず、1943年末から再度インド国境を越えて4個師団で進撃してきた。第55師団長に着任したばかりの花谷は、進撃してくるイギリス軍に対して単なる防衛戦を展開するよりも、「攻撃防御」作戦でむしろ積極的に攻勢に出て、アキャブに向けて進撃してくる2個師団を包囲殲滅する作戦を計画した。これは、日本軍の常套戦術であり、正面で敵の前進を足止めしている間に、別動隊が大きく回り込んで、前方に気を取られている敵部隊の側方や後方から肉薄して、敵部隊を一気に包囲殲滅してしまうという戦術であった。特に英軍はこの日本軍の戦術に弱く、後方に日本軍に回り込まれると、補給線が遮断されることを嫌って容易く退却していった。英軍が退却した後には大量の食糧や軍需物資が残されており、日本軍はこれを「チャーチル給与」などと呼んで有難がった。
この作戦計画は、牟田口廉也中将率いる第15軍が計画しているインパール作戦の陽動にもなることから、緬甸方面軍もこの作戦計画を認可した。第55師団は、師団長の花谷に加えて、師団の歩兵団を指揮する桜井徳太郎少将も、花谷と同じタイプの猛将で、尚且つ長く陸軍士官学校の歩兵戦闘の教官も務めた歩兵戦闘の権威でもあり、緬甸方面軍の信頼は極めて厚かった。そして桜井兵団の主力は、第一次アキャブ作戦で敵主力旅団を包囲殲滅し、その旅団長以下司令部幕僚の殆どを捕虜にするといった抜群の戦功を誇る棚橋真作大佐(映画監督兼俳優紀里谷和明の祖父)率いる歩兵第112連隊であって、緬甸方面軍は「第55師団には花谷さんとトクタ(桜井のあだ名)がいるからねえ」と作戦の成功を確信していた。
第二次アキャブ作戦が発動されると、棚橋率いる突進隊は、花谷の計画通りに進撃してきたイギリス軍2個師団の間隙をぬって背後に進出し、その後転回して1個師団をシンゼイワ盆地で包囲した。その際に英軍師団後方にいた師団司令部も急襲し、英軍師団長を捕虜にできるところまで追いつめたが、あと一歩のところで取り逃がし、英軍師団長は軍帽と大量の機密書類を残してかろうじて脱出した。自分の計画通りにイギリス軍1個師団の包囲に成功した花谷は有頂天になって、その師団の殲滅を命令。戦況報告を受けた緬甸方面軍も、作戦早々の大勝利と、大量の「チャーチル給与」の鹵獲品への期待でお祭り騒ぎとなった。
しかし、本作戦はある意味この時点が頂点となってしまった。と言うのも、英軍は前年までの日本軍に対する敗北を研究して、日本軍の常套戦術である、ジャングル内での包囲殲滅戦に対抗する戦術を編み出していたからであった。この戦術は「アドミンボックス(管理箱)」と呼ばれ、大量の砲・M3中戦車・ブレンガンキャリア・機関銃・鉄条網で囲んだ円形の陣地を構築して、日本軍の突撃に対抗し、補給については制空権を確保したのちに、レンドリースでアメリカから大量に供与されていた輸送機で空中からパラシュートで補給品を投下するというものであった。従っていくら包囲されても補給が途絶することはなく、英軍が脆くも撤退していくことはなくなった。このイギリス軍の陣地を見た桜井兵団は驚愕し、円形の地上陣地が、空からの支援を得て強固になるといった、三次元をフル活用した陣地となっていることから「円筒形陣地」と名付けた。
花谷と桜井は、これまでの成功経験から、進撃スピードを上げるために重火器の装備は最低限にしろと命じていた。しかし「円筒形陣地」を攻略するのに最も効果があるのは、航空機による空からの攻撃か、大量の重砲による砲撃であることは花谷も十分に理解していたが、制空権を奪われ、重火器の携行も少ない桜井兵団にできることは、夜襲の白兵突撃しかなかった。そのため、花谷は最前線の棚橋に白兵突撃を命じ続けたが、鉄壁の防御の前に大損害を被った。
夜襲だけでは、埒があかないと認識した花谷は「円筒形陣地」を見下ろす高地の攻略を命じ、棚橋連隊はイギリス軍の防備が薄い陣地近くの高地を占領した。その高地からは「円筒形陣地」内を見渡すことができ、その高地からの管制によって、陣地内に砲爆撃は浴びせられイギリス軍も損害を被った。そこでイギリス軍はM3中戦車と精鋭の歩兵部隊によって高地を攻撃、棚橋連隊はイギリス軍との銃剣による白兵戦を戦ったが、結局高地は奪還されてしまった。
その後も、棚橋連隊は花谷の督戦によって、損害度外視で「円筒形陣地」に突撃し続け、次々と将兵は倒れていった。棚橋連隊の猛突撃は、時折であるが「円筒形陣地」の第一線を突破することもあって、激しい白兵戦が連日展開され、イギリス軍も損害が蓄積していた。そのため「円筒形陣地」内は敵味方の死体から発する死臭で息苦しいほどであったという。
善戦しながらも死傷者続出の棚橋連隊に更なる深刻な問題が生じていた。と言うのも、この作戦は敵師団を迅速に包囲殲滅することとしており、携行している弾薬や食糧は最低限で、その後の補給計画もないに等しかった。花谷は作戦前に、第一次アキャブ作戦での戦訓から、敵部隊を殲滅するか重要拠点を奪取すれば膨大な「チャーチル給与」を鹵獲できるため、補給の問題は生じないと考えて、敵の物資を奪うことを「泥棒作戦」などと呼んで取らぬ狸の皮算用をしていたが、「円筒形陣地」を攻略できない棚橋連隊は、敵物資を鹵獲することもできず、飢餓が始まりつつあった。
しかし花谷は棚橋連隊の窮状を全く顧みることなく、引き続き突撃命令を出し続けた。この頃の棚橋の指揮下で五体満足な兵士は500人もおらず、数千人と多数の戦車が守る「円筒形陣地」を攻略するのは、まったくもって無理難題であり、棚橋は無線を切って師団司令部と音信普通にして、花谷の突撃命令を無視し続けたが、もはや戦場に留まっていることも困難になって、花谷に無断で撤退してしまった。花谷はこの棚橋の独断撤退に対しては、大事にすることはせず、もはや攻撃は困難と認識して、撤退命令を出した。
この後は、攻守が完全に逆転して、後退する第55師団をイギリス軍2個師団が追撃するという展開になったが、攻撃精神旺盛の花谷は、後退する各部隊に防御的な戦闘を禁止し、特攻隊を編成して、追撃してくる敵部隊を逆に攻撃して出鼻を挫けと命じた。またこの特攻隊編成については、花谷は過去に満州や中国大陸で謀略に携わった経験を活かして、敵の遺体から奪った軍服を兵士に着用させて、敵にカモフラージュして破壊工作を行うという作戦も命じた。ドイツ軍のオットー・スコルツェニーがバルジの戦いの際に行った「グライフ作戦」の先駆けのような作戦であったが、砲兵陣地に侵入に成功して野砲を撃破するなどの成果も挙げている。
しかし、戦力差は圧倒的であり、第55師団はじりじりと後退していた。シンゼイワで花谷の命令を破った棚橋も、追撃してくるイギリス軍部隊への攻撃に少なくなった戦力で駆り出されていたが、そのうちマラリアを発症して、治療のため日本内地に帰還させられた。他の指揮官たちも花谷の督戦でイギリス軍に対する突撃を敢行し、多数が戦死している。なお、棚橋はこの後、日本内地での勤務が続くが、終戦から半年経過したときに自殺している。この自殺が、花谷による連隊長更迭が原因だとの主張もあるが、それは事実誤認である(詳細後述)
花谷の苛烈な作戦指揮の悪評は緬甸方面軍司令部にも届いていたが、インパール作戦も発動され、西ビルマに増援を送る余裕もなく、なんだかんだ言ってもどうにか英軍の足止めに成功している花谷の指揮に頼るほかなく、そのパワハラを黙認していた。第55師団の将兵は文字通りの死闘を繰り広げ、どの拠点の防衛戦においても最後の1人が倒れるまで戦い続けたという。
第55師団が苦闘を重ねながら、どうにかイギリス軍2個師団を足止めしている間、第55師団を迂回しようとしていた他のイギリス軍1個師団はカラダン河谷で、連隊長木庭知時大佐率いる歩兵第111連隊に撃退されて、インドに向かって退却中であり、そのまま木庭連隊がイギリス軍2個師団の背後に迫ってくる危険性が高まったことや、またインパール作戦発動で、第15軍の3個師団がチンドウィン川を渡ってインド内に進入したことから、インパール方面の防備を固めるため、第55師団と激戦を繰り広げていた2個師団は、戦闘を中止して撤退していった。
「円筒形陣地」に苦戦した第55師団であったが、結果的に作戦目的のアキャブ防衛とインパール作戦の牽制に成功した上、撤退したイギリス軍を追撃して、奪われたビルマ領土を奪還した。損害についても、第55師団の死傷者は5,335人に対してイギリス軍は7,951人も失っており、第二次アキャブ作戦は、今日の日本国内での印象とは異なって、一方的な惨敗というわけではなかった。
この作戦の印象が悪いのは、小説家高木俊朗著作の、ビルマ戦線を描いたベストセラーノンフィクション小説連となる『インパール5部作』のなかの1作『戦死』で、味噌糞にdisられているからに過ぎない。
第二次アキャブ作戦の結果は天皇陛下に上奏され、天皇陛下から激励の言葉が師団に贈られると、桜井徳太郎歩兵団長は感激し、次の訓示を行った。
“手を切られたら足で戦い、手足を切られた口で噛みつき、息が絶えたら怨霊となって敵を悩ます。これくらいの負けじ魂があってはじめて任務を完遂し得るのである。「刀折れ、矢尽きて」をわれらは断じて敗戦の理由にしてはならぬ。”
この訓示で説いていることは、当時の日本軍の基本思想であり、後にインパール作戦の折にも牟田口司令官がほぼ同じ文面の訓示を行ったとされているが、出典がいずれも、牟田口と花谷に辛辣だった小説家の高木俊朗のフィクション風小説のいわゆる『インパール5部作』である上に、牟田口の訓示の際は、飢餓で栄養失調だった兵士が訓示途中にバタバタ倒れたなどとかなりオーバーな脚色も入っており、どちらかもしくは両方とも創造ではとの指摘もあっている。
第55師団は花谷の苛烈な指揮によって多大な損害を被りながらも、一時はたった1個師団で5個師団の英軍を西ビルマでの足止めに成功しており、インパール作戦初期の第15軍の進撃に寄与することとなった。しかし、インパール作戦は第55師団の支援程度では到底フォロー出来ないほどの強引な作戦であり、進撃した3個師団は飢えと傷病者続出で壊滅状態となり、主力の第15軍が大打撃を被った緬甸方面軍も崩壊状態に陥って、英軍に加えて、米軍や米式装備の中国軍もビルマ領内への侵入を許し、もはやビルマ失陥は時間の問題となってしまった。
イラワジ河口への転進
第二次アキャブ作戦終了後、師団の弾薬集積所が英軍に爆撃され、師団の兵器部長は花谷から連日のように暴行された末に自決した。花谷は毎日、兵器部長を呼びつけて、弾薬集積所の被害について詰問を続け、殴打した。そのうちに、兵器部長は定期の昇進で中佐から大佐に進級するが、それを花谷に申告すると、花谷は「貴様のような、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと!」とどもりながら乱打し、兵器部長は口から血を流した。その後、兵器部長はマラリアに罹るが、高熱の中でも連日のように花谷から殴打され、ついに倒れた。花谷は、倒れた兵器部長に唾を吐き捨て、重謹慎30日の処分を言い渡した。直後、兵器部長はピストルで頭を打ちぬいて自決した。この兵器部長は部下からの信頼も厚かったため、兵器部では花谷の暗殺計画が数回持ち上がったという。中でも、ある中尉は花谷暗殺用の手榴弾を密かに入手するところまでは漕ぎつけるが、直後、虎に襲われ死亡したため花谷爆殺は実現しなかった。
ビルマ戦線の崩壊を阻止するべく、緬甸方面軍はビルマ中央の防衛強化を図るため第55師団主力にイラワジ河のデルタ地帯への移動を命じ、花谷は師団主力を直卒して、アキャブを離れた。エリート意識から高級将校には厳しく、パワハラを繰り返して忌み嫌われていた花谷も、兵士たちに対しては「死ぬまで戦い続けろ」「天皇陛下万歳を連呼し続けろ」など、当時の大日本帝国臣民の価値観としては(今日の日本国民の価値観とは乖離しているが・・・)飲み込みやすいことばで士気を煽り続けていたこともあって、典型的な帝国陸軍軍人像として、それなりに人望が厚かったが、最前線を離れたことに対し、失望する兵士も兵士も多かったという。
1945年2月、歩兵団長の交代人事があり、花谷は新しく着任した長沢少将を自分の宿舎に迎え、司令部幕僚が列席して、歓迎会が催された。花谷は、長沢少将にいきなり「なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか。無天の低能め」といつものように罵倒を始めた。長沢少将は「私はいかにも無天だ。しかし、歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何を言うか。貴様は大阪幼年学校では、俺の後輩じゃないか」と食って掛かった。花谷は顔を赤くして、ビール瓶をつかむと、長沢少将の頭をなぐりかかった。長沢少将はすばやく立ち上がって、軍刀の柄に手をかけた。副官が仲裁に入り、宿舎の周りの竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、論戦で対決することになった。二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。そのまま無言でいたが、少しして花谷は「おれが悪かった。あやまる」と降参した。
ここにきて緬甸方面軍もようやく第55師団の人事刷新に着手した、河村参謀長は方面軍によって更迭された。花谷を転出させる案も検討されたようだが、「陸軍の理想の人材像」であった花谷を転出させると戦線が崩壊するとの反対意見も根強く、実現しなかった。参謀長が交代すると、師団司令部の雰囲気はかなりマシになった。新たに着任した小尾参謀長は、花谷に「閣下、殴ったらいけませんぞ。師団長がおこったら、部下がいじけますぞ」と遠慮なく申告し、花谷は部下を殴ることが少なくなった。
ビルマ戦線崩壊後
1945年3月ごろ、花谷の第55師団主力(忠兵団)はイラワジ河口のデルタ地帯を守っていたが、緬甸方面軍直轄部隊となり、各地から追撃してくる連合軍によって崩壊しつつあるビルマ戦線の立て直しに駆り出されていた。
花谷の率いる忠兵団は、歩兵第144連隊(連隊長:吉田章雄大佐)が主力であったが、軍命令で各地を転戦しているうち、兵力が分散してしまい、花谷が直卒している兵力は2個中隊ほどとなっていた。やがて、ビルマ中国の国境でアメリカ式装備の中国軍と激戦を繰り広げてきた第33軍が、ビルマ中央のピンマナまで撤退してきたが、英軍戦車隊が近くまで迫っており、第33軍司令部の運命は風前の灯火となっていた。そこに、花谷が手勢を連れて増援に駆け付けたため、第33軍司令部は花谷に感謝したという。
ピンマナで花谷は、陸軍士官学校の同期であった第18師団長中永太郎中将と久しぶりに再会したが、その際花谷は「オレは大隊長だよ」と自虐的にぼやいていたという。この頃の花谷には、往時の面影はなく、第一線から撤退してきた他の部隊が花谷の指揮下に入ると申告に来ると「よかったな。兵隊がいなくては、戦ができんからな」と喜んだ。また、獣医部長が他部隊への転出に伴い花谷に申告に行くと、普段は殴り飛ばされるところ、「ながい間、ご苦労であった」と労をねぎらい、側近を驚かせた。将兵に対して「ご苦労」という言葉をかけたことは、それまで一度もなかったという。他の師団の参謀らも花谷の悪評を聞かされ続けてきただけに、噂とのギャップに驚かされている。
英軍の追撃は急であり、やがてピンマナにも、英軍戦車隊が追いついてきた。そこで第33軍参謀の辻政信は、ピンマナにいた第55師団と第53師団にピンマナ防衛の命令を下したが、どちらの師団も兵力が分散し、ピンマナにいた兵力はわずかであったため、十数輌のM4シャーマンの突進を防ぐことができず、第33軍司令部はあっという間に蹂躙されてしまった。花谷は第33軍司令部や他の師団長とともに、シッタン河を渡河して退却し、これ以降戦場に戻ることはなかった。
花谷がシッタン河を渡河した頃、長沢率いる第55師団歩兵団(振武兵団)は第54師団とともにペグー山脈付近でビルマ西部から進撃してくる英軍を迎え撃っていた。高級参謀として花谷に付き従っていた斎藤は連隊長として振武集団内で部隊を指揮していたが、緬甸方面軍の戦闘指揮の拙さに幻滅して「緬甸方面軍参謀は、戦闘の経験が全くない」「司令部は前線の実際も知らずに、ただ計画を立て、地図を描き、作戦命令を作っている」と不満を募らせていた。また桜井に代わって歩兵団長となった長沢に対してもその弱気な姿勢にも懸念を抱いていた。
やがて、振武兵団も英軍との戦闘となったが、第二次アキャブ作戦で花谷のパワハラでどうにか戦線を維持していた時とは異なり、英軍の戦力も増強されていたうえに長沢の弱気な指揮もあって総崩れ状態となった。振武兵団は第54師団とともに戦線からの脱出を図るためにシッタン河を渡河したが、花谷が渡河したときとは異なって河が増水していた上に、英軍の追撃もあって兵士は次々と溺死・戦死してしまい。6,700人の兵員のうち、無事に渡河できた者は3,100人に過ぎなかった。(シッタン作戦)
1945年7月、花谷はタイの第18方面軍参謀長に異動が決まり、部下の中には、花谷の転出を聞いてうれし泣きする者も居たという。
1945年8月になると、ソ連軍の侵攻により、花谷が常日頃から「わしが作った」と豪語していた満州国が滅亡した。満州国、南部ビルマ戦役と、花谷が生涯を費やした事業は敗戦とともにすべて水の泡と化した。
戦後
戦後は軍人恩給で暮らしながら「曙会」という右翼団体を一人で運営した。旧満州関係者の中には、片倉衷のように満州時代の人脈を駆使して実業家になる者も居たが、花谷はそのようなことはせずに東京 代々木八幡の商店街にあった床屋の二階のひと間で慎ましやかに生活を営んでいた。第二次アキャブ作戦時、歩兵団長を務めた桜井徳太郎・元少将は、多くの将兵を死に追いやった後ろめたさからか、戦後に出家しているが、花谷が戦没者を弔う活動を行ったとする記録はない。ただ、花谷が指揮した第55師団は四国出身者が多かったため「花谷が四国に来るとただではすまないだろう」と噂になるくらい、四国の生き残りの兵士や遺族から恨まれていた。
1955年に歴史家の秦郁彦の取材に答える形で、満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。
1957年に花谷は肺ガンで倒れる。片倉衷が見舞金を募い、栗田・元高級副官が旧部下に声をかけたが、過去の悪行から花谷のことを嫌悪していた部下は一人としてこれに応じなかった。
同年8月28日に死去し、旧満州関係者が列席して盛大な葬儀が営まれる。葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれ、葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二・国鉄総裁であった。政財界から多くの花輪や生花がおくられ、満州時代につきあいのあった岸信介(当時の総理大臣)名義のものもあった。しかしながら、旧部下は誰一人として会葬しなかった。と高木俊朗は著書の小説で主張しているが、高木は牟田口が自分の葬式のときに自己弁護の冊子を配るよう遺族に遺言していたという創作も著書の小説に書いており(まぁあくまでも小説なんで信じる方がアレなんでしょうが)実際は不明である。
インパール作戦の牟田口と並んで非常に悪評高い旧日本軍軍人である。現在日本でもっとも嫌われているパワハラの権化のような存在で、本ページにも記載されているような、今日の我々の価値観では信じがたい多数のパワハラエピソードが世に広まっており、ある意味、人物評では牟田口を下回る可能性もあるだろう。
しかし、そのエピソードの多くが、戦時中は従軍記者として旧日本軍のプロパガンダを垂れ流して軍を賛美しておきながら、戦後になると高速手のひら返しで、「わしは戦時中から反戦思想だった」と華麗?なポジションチェンジを果たした小説家高木俊朗が、自分の著作(現代ではノンフィクション風小説に分類)で花谷を味噌糞にdisって記述し、それが広まったものである。高木に味噌糞にdisられた軍人としては、花谷と牟田口の他に、富永恭次中将や菅原道大中将などがいる。
高木も作家に過ぎず、司馬遼太郎などと同じように、史実の正確性というよりはあくまでも読み物としてのインパクトの強さを重視していたようである。例えば、第二次アキャブ作戦にて花谷の無茶な督戦に振り回されながらも奮闘した歩兵第112連隊長の棚橋は、マラリアに罹患し日本内地に帰されたのち熊本で終戦を迎えたが、第一次アキャブ作戦の際に捕虜とした英軍旅団長を死亡させた件や(死亡の原因は英軍からの砲撃)、部下が捕虜を殺害したことを気にしており、戦後半年経ってGHQから呼び出しを受けた際、このことを尋問されると思い自殺してしまった。後日に、GHQは棚橋を尋問しようという意志はなく、英軍のビルマ戦記の作成のため証言が欲しかっただけであったと判明している。しかし、高木はこの棚橋の自殺を、花谷から連隊長を更迭された屈辱などが原因であったと自分の著作で匂わせている。
この棚橋の例のように、高木の小説に登場する旧軍人らのエピソードについては、誇張してあったり、他人のエピソードであったり、時には本当にあったのか怪しいエピソードもあったりするが、あくまでも高木の作品は“ノンフィクション風小説”なので、それを全て事実として捉えるのは、司馬の作品「竜馬がゆく」なんか読んで、「坂本龍馬はこんなこと言わない」と腹を立てるぐらい意味のないことなのかも知れない。
高木の創作を差し引いたとしても、花谷が人物的に酷評されるのは仕方がないことだろう。花谷の在籍部隊(第55師団)の軍医は、花谷がここまで愚劣になったのは、もともと傲慢な性格だったのが、周囲が花谷を持ち上げすぎたために思い上がったためだと述べている。また、戦後に英軍の語学将校として従軍して、日本兵捕虜の尋問に立ち合い、その経験を活かして詳細なビルマ戦記を執筆した学者ルイ・アレンは、花谷とも数回面談しているがそのときの印象を「ぶっきら棒な、温かい父親のようにみえた」としているが、人物評は「彼は狡猾獰猛な男で、部下の若い将校を、彼が満州人をみたときと同じく、軽蔑的な、人間を人間とみぬやり方で扱った」と厳しい、また、花谷のパワハラは性格に由来するものではなく、精神主義に基づくものだとも指摘している。それによると、花谷の残忍な方法は、兵を不可能な仕事に駆りたて、人間の限界を超えさせ、崇高な犠牲者よろしく、祖国の名において、大和魂を彼らから引きだすことを目的にしていたという。
この精神主義は、ビルマ戦線において致命的な失敗に繋がっていくわけであるが、所詮は“持たざる国”大日本帝国はそれを補う手段として精神論に頼るほかなく、その時代の秀才を集めた陸軍幼年学校(陸幼)に入り、中学生くらいの年代から純粋培養された陸軍のエリートたちは、その後、陸軍士官学校・陸軍大学校(陸大)で「精神主義」「敢闘精神」「局地的な戦術の着眼点」などを徹底的に叩きこまれて陸軍の要職を占め、そのうちの1人であった花谷もそのキャリアを鼻にかけていた。
しかし、中国軍や大戦初期で装備が不十分であった英米軍には通用した大日本帝国陸軍の精神論中心の作戦も、発展する科学力と膨大な生産力が不可欠な近代戦には通用せず、それらをフル回転して装備を一新してきた英米軍の前に、大日本帝国陸軍のエリートたちは手痛い敗北を喫していくことになる。
それでも大日本帝国陸軍の凄いところは、前線の兵士がその敢闘精神と天皇や国家に対する忠誠心で、総合的な戦力では遠く及ばない英米軍に対しても善戦してしまうことであろう。その例のひとつが花谷の指揮した「第二次アキャブ作戦」であり、食糧も重火器も弾薬も不十分な第55師団が、兵力だけでも4倍以上、火力を含めた総合的な戦力では軽く10倍以上の戦力差があったはずの英軍に対して、長期間の足止めに成功しただけではなく、多大な損害を与えて、最終的には重要拠点アキャブの防衛にも成功しているのである。このように、ときには(当然いつもにことではありえないが)将の失敗を兵が補うというのが、先の15年戦争における大日本帝国陸軍の特徴でもあった。
花谷や牟田口は個人的な資質や人間性を酷評され、現代日本においても激しくバッシングされているが。両名とも大日本帝国陸軍という組織の中の1つのキーコンポーネントにすぎず、それが作り出された理由や時代背景を検証しなければ、根本原因にたどり着けないであろう。それは、皮肉にも花谷自身が日頃から鼻にかけていた陸幼・陸大卒という経歴が大きく影響しているとも言える。