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インパール作戦

いんぱーるさくせん

インパール作戦とは、太平洋戦争中の戦闘の1つで、大日本帝国陸軍とインド国民軍とで行われた、共同作戦である。日本では歴史的な大敗を喫した一戦として知られ、戦略的失敗の代名詞として現代でも引用されることがある。
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年月日

1944年3月8日~7月3日
場所
イギリス領インド帝国ビルマ州インパール
交戦勢力
大日本帝国・インド国民軍92,000
イギリス・イギリス領インド帝国~150,000
戦争目的
大日本帝国・インド国民軍インパールの攻略・占領による、援蒋ルートの遮断及びインドのイギリスからの独立による後方撹乱
イギリス・イギリス領インド帝国日本軍・インド国民軍のインパール侵攻の阻止と、植民地の防衛・確保。

概要

1944年(昭和19年)3月?7月まで行われた、インドのインパール攻略作戦である。この戦いはイギリス支配下のインドの独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的も含まれていたことから、大日本帝国陸軍とインド国民軍との共同作戦で行われた。

経緯

当時のインドは200余年もの間、イギリスの植民地支配にあり、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島・シンガポール・ビルマのイギリス軍を破竹の勢いで撃破し、歴史的な『マレー海戦』の完全勝利に、インド国民は歓喜していた。

インドの独立をずっと訴え続けていたスバス・チャンドラ・ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請から日本に受け入れられ、東條英機首相から無条件援助の確証を得て、1943年10月21日『自由インド仮政府』を樹立、日本政府が同年23日に正式に承認した。 同年24日に正式にアメリカ・イギリスへ宣戦布告を宣言し、日本と共に戦うこととなった。

日本側の司令官は牟田口廉也中将。連合国の中華民国への支援ルート(援蒋ルート)の遮断を戦略目的としてビルマから山脈を越えてインド北東部の都市インパールに攻め入るというものだった。計画の立案時点から補給などに問題があることから反対意見が出ていたが、反対する者は更迭され実行された。

しかし、ジャングルや山を越えていく進軍は困難を極め、牟田口中将が考案した『ジンギスカン作戦』(牛に荷物を運ばせあとで食糧にする)も牛が途中で逃げたり川に落ちるなどして失敗。

補給が伸び切った状態で4月に入ると現地は雨期になり前線が飢えと雨と伝染病で過酷な状況となってしまい、前線の指揮官の1人第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将はあまりの惨状をみかね撤退を進言するも聞き入れられず、ついに5月末独断で撤退を決意。
「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と司令部に返電し自身への処罰を覚悟で退却させた。

しかし牟田口中将は佐藤中将を更迭し、同様に撤退を進言した第33師団長柳田元三陸軍中将・第15師団長山内正文陸軍中将も更迭した。山内は現地でマラリアに罹患しており、牟田口らへの恨みを残しながら日本に帰れず死亡したと言われている。

7月3日、作戦中止が正式に決定した。

評価

戦後、作戦の失敗と日本軍敗北の責任は主に作戦指揮官たる牟田口中将にあるとする評価が支配的だが、一方でインパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口中将は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事が記録で証明されている。第十五軍の河邊方面軍司令官が、当初は作戦に積極的であったので牟田口中将を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、 牟田口中将の指揮に一任したのである。

そのため、専門家の間ではインパール作戦の無謀は提案者の牟田口の責任を甚大とするものが多い。
軍事評論家である伊藤正徳は、牟田口の暴走を止める責任が有りながら果たせなかったとして、牟田口と大本営とで五分と五分、または引きずられた大本営のほうが重いと主張している。

また歴史学者である戸部良一は、著書『失敗の本質』において、計画が杜撰なまま実行された原因については、牟田口軍司令官や河邊方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは『人情』という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織や戦略上の合理性が削がれた点にあるとしている。

関連タグ

牟田口廉也 インド
独立戦争 植民地解放
スバス・チャンドラ・ボース
インパール戦争(インド独立戦争)

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