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マレー作戦

まれーさくせん

マレー作戦とは、大東亜戦争における日本軍のイギリス植民地マレー半島及びシンガポールの攻略作戦である。
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交戦勢力編集

概要編集

大東亜戦争における『南方作戦』の一つで、大日本帝国陸軍による当時イギリス植民地であったマレー半島及びシンガポールの攻略作戦であり、『馬来作戦』とも呼ばれ、日本側の作戦名は『E作戦』だった。この戦いが、後のマレーシアシンガポールの独立に繋がっていく。


交渉決裂と進軍準備編集

日米交渉にかけた日本アメリカ合衆国との和平への最後の努力は、アメリカ政府が突きつけてきたハルノートによって潰え、これにより日本の対英米開戦はやむを得なくされた。

そうして1941年12月4日の早朝、20隻の輸送船に乗り込んだ山下奉文将軍が率いる陸軍第25軍は、小沢治三郎海軍中将の南遣艦隊に所属する軽巡洋艦川内及び基幹の第三水雷戦隊に護衛されながら海南島を出発、その内の輸送船17隻と第20駆逐隊(朝霧夕霧天霧)・第12駆逐隊(叢雲東雲白雲)・掃海艇3隻はタイ領南部のシンゴラパタニを目指し、輸送船3隻と川内及び第19駆逐隊(綾波磯波浦波敷波)がイギリス領マレーの東岸コタバルに舵をとった。


三手に分かれ上陸編集

コタバル編集

この部隊は、いち早くマレー北部に点在するイギリス軍の航空基地を奪取し、航空機による敵の対地攻撃を不可能にし、海軍機より航続距離の短い陸軍戦闘機の足場確保を任務としていた。

同月8日の日本時間午前1時35分に、コタバルのサバク海岸沖合で上陸用舟艇に乗り込んだ侘美浩少将率いる侘美支隊約6000人の将兵が、加藤建夫陸軍中佐が率いる加藤隼戦闘隊による一式戦闘機7機の護衛の下、夜陰に紛れて上陸地点の海岸を目座して突進を開始し強襲上陸、同午前2時15分から戦闘が開始された。

予想外の激しい抵抗を受け、イギリス空軍も出撃し3隻の輸送船の内の一つ淡路山丸が攻撃を受けて炎上沈没し、大東亜戦争に於ける最初の被撃沈となった。残った綾戸山丸佐倉丸も被弾し、船団は一時退避を余儀なくされるなど、苦戦しながらも強襲作戦は成功し、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、西に向かって密林の山脈を越えてクアラルンプールに入り、29日にクルアンに集結していた第25軍主力と合流した。


シンゴラ編集

タイ軍警との小競り合いと協力編集

タイのシンゴラに向かった第25軍主力を乗せた船団は、8日の日本時間午前2時に到着し上陸を開始。当時の東南アジアで唯一の独立国で、親日的なタイに対し日本は攻撃意図は全く無く通過を申し入れるのみであった。

その際に中立を守ろうとするタイ軍警との間で一部小競り合いが起こったが、プレーク・ピブーンソンクラーム首相と坪上貞二駐タイ大使との間で日泰攻守同盟条約(日泰同盟)が結ばれ軍警に日本に協力するよう指令が出たことで治まり、イギリス領マレーとの国境を目指して進軍した。


ジットラ・ライン突破戦編集

日本陸軍はイギリスがタイとの国境に築いた強力な防衛陣地ジットラ・ラインを突破するため、本来は湿地帯であり構築段階での工事は難航し、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていたことに目をつけ、山下将軍と同じく「マレーの虎」の異名で名をはせていた義賊ハリマオこと谷豊と、彼を引き入れた日本陸軍諜報員の神本利男をジットラ・ラインに潜入させた。

谷が仲間とともに陣地やその周辺の測量を行い地図を作成し、神本がそのデータをタイ王国の公使館附武官である田村浩大佐を通じて本国へと送り、更に築城工事を遅らせるためにセメントを盗んで沼地に沈めたり、建設機械を故障させるなど妨害工作を行った。

その後、河村参郎旅団長は敵情捜索を兼ねた先鋒部隊として、佐伯静雄中佐率いる佐伯挺進隊581名が国境付近を捜索、その後になんとこの僅かな手勢で国境を越え、敵中突破を試みた。


奮戦と突破編集

まず国境から十数km入ったところにある関門であるチャンルンを、イギリス軍との戦闘や妨害工作に遭いながらも奮戦して突破、そのままケダー州に入り州都アロールスターに迫り次の陣地を突破しようとするが、斥候のミスで敵情判断を誤って敵の堅陣と地雷原に阻まれ、佐伯挺進隊はあわや全滅の危機に陥った。

しかし危ういところで急追してきた味方の岡部連隊が追いついて敵の背後に回り込み、戦況は互角となる。その後日が傾き夜襲の準備にかかろうとした際に敵が退却を始めたことからそのまま間髪を入れずに攻撃し、遂に難攻不落のジットラ・ラインを突破する。

当初は、一個師団(兵力約2万)全力をもって攻撃しても、突破に3ヵ月はかかると言われたジットラ・ラインをなんと僅か15時間で攻略し、遂に州都アロールスターの占領に成功、タイのシンゴラ上陸からまだ4日しか経っていなかった。敵軍は逃げ出す際によほど慌てていたようで、兵舎の食卓には温かいスープがそのまま並んだままで、市内の軍事施設も破壊する時間も無かったことから殆どが綺麗に残っており、膨大な軍需品が日本軍の手に落ちた。


パタニ編集

一方で主力軍とは別のパタニに上陸した安藤支隊は、国境の町ベトンを超えてイギリス領マレーに入り、ペラク河上流の橋を確保し第5師団主力と合流するため、クアラカンサルを目指しマレー半島を西南に横断。鬱蒼たる密林の悪路を毒蛇や蛭と戦いながら山脈を越え、なんとか22日にクアラカンサルに入城したが、この直前に主の橋が全て敵軍に爆破されてしまう。

しかし、ここにバンコクから陸路でマレー半島を南下してきた近衛師団が到着・合流し、すでにタイピンを占領していた第5師団主力も合わさり勢いづいた日本陸軍は、舟艇による敵前渡河を決行し見事に成功。近衛師団を先鋒として対岸の要衝都市イポーを占領した。


カンパル・スリムの戦い編集

部隊が合流し、首都クアラルンプールまで後はカンパルスリムの二つの堅陣を残すのみとなったが、年末から始まったカンパルの戦いは熾烈を極め、年が明けてからようやく陥落させた。

残るはスリムの拠点のみとなるも敵はここを失うと首都への表玄関を開け放す形となるため、前線の敗残兵に新たな増援兵も加えて二つの拠点の間の橋を全て爆破し、最後の徹底抗戦を試みてきた。

1月7日日本時間午前8時から幕を開けたスリムの戦いは、日本軍の歩兵・戦車・砲兵・工兵の四兵種が一丸となってぶつかっていき、イギリス軍も抵抗が頑強で弾丸・手榴弾・迫撃砲を使い尽くし死にもの狂いで反撃し、互いの総合戦力のぶつかり合いが翌朝7時まで実に23時間に及ぶ、マレー半島上陸以来の激戦となった。

その末に日本軍は、丸一昼夜かけて七線ある全縦深陣地をすべて突破して遂に占領に成功した。


ジョホールバルの戦い編集

つかの間の休息編集

クアラルンプールを占領し、次の目標としてマレー半島南端のジョホールバルを落として幅1500mの水道を挟んだシンガポールでの最終決戦のための最前線基地とするべく進軍を開始。軍司令部はそのための作戦として、1.軍全部の火砲440門に対し、1門10基数の弾薬(野山砲は1000発、重砲は500発)を1月末までにジョホール州内に運び入れ、2月8日までに戦場に集積する2.そのために、鉄道は1月末までに少なくともゲマス付近まで修理を完成する。とした予定がたてられた。

しかし第5師団は、1ヵ月以上に渡り1日の休みも無く敵軍との激戦に次ぐ激戦を重ねながら、600kmの熱帯ジャングルを突進してきたことから、クアラルンプールに入場したときには疲労困憊の状態であった。そのため、重大な支障が生じないよう山下将軍の温情により、開戦以来初めて2日間の休息をとった。


ゲマス占領編集

そうして主力部隊が休息をとっている間も、向田宗彦大佐が率いる向田戦車連隊がジョホール州の関門であるゲマスに向かいながら、爆破された橋を修復しつつ敗走する敵を追撃していた。だがゲマス付近に接近した際に戦場に到着したオーストラリア軍第8師団が、敵のイギリス空軍と一体となって反撃にでた。

休息をとって満を持した第5師団主力部隊は、河村参郎少将が率いる河村旅団を救援に向かわせ、更に近衛師団の舟艇部隊が敵の制空下にある西海岸をろくな防御設備も無く小舟で南下しながら敵の退路を絶えず牽制し、一進一退の攻防のすえ背後を脅かされた敵軍はゲマスを捨てて南方の要衝クルアンへ逃走、1月19日にようやくゲマスを占領した。


メルシン攻略編集

ゲマスが陥落したことで、第25軍はもはや第5師団だけでクルアンを攻略できると判断し、従来の作戦を大きく変更、第18師団の上陸予定地を東海岸南部の要衝メルシンからシンゴラに変えた。この判断は日本にとって幸運であり、メルシンは東海岸最大の拠点で、最も強固な陣地を構えていたため、上陸を強行すれば全滅する可能性があった。

ここではオーストラリア軍第8師団の旅団がコンクリートのトーチカを築き、砲口を海上に向けており、そこで上陸を中止しジャングルを迂回して木庭大大佐が率いる木庭連隊が背後から奇襲をかけ、これが成功しメルシンを占領した。


ジョホールバル占領と最終決戦へ編集

そうして1月25日、第5師団がクルアンに入場した際にジョホール作戦の山場はほぼ終了し、シンゴラに上陸した第18師団はほぼ無傷のまま3日後にクルアンに到着。一方でコタバルを強襲し東海岸を南下してクアンタンを陥落させた侘美支隊も合流し、勢揃いした第25軍は31日にマレー半島最南端のジョホールバルを占領し入場した。

1月末までにジョホールバル占領という12月12日にアロールスターで立てられた計画は変更されず、それも含め上述した2項目の作戦は寸分の狂いも無く遂行された。日本軍はマレー半島上陸以来、約1100kmの道のりを僅か55日という驚異のスピードで進撃し、多くの敵を屠りながら自軍の被害は最小限に抑え、遂に最大の目標である要塞シンガポールを眼前に捉え、最終決戦へと備えた。


シンガポール攻略戦編集

この戦いはわずか10日で決着がついた。


山下が返答を渋るパーシヴァルに「イエスかノーか」と迫ったというエピソードは有名。山下は日露戦争時の乃木希典将軍の水師営の会見に倣い、敵将の尊厳を守った会見にしたいと考えていたが、パーシヴァルが降伏条件について長々と話した上に、降伏するという言葉をなかなか発しないために出た言葉と言われている。しかし、山下はこれを否定している。


ウィンストン・チャーチルは自書にて「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と振り返っている。


関連タグ編集

第二次世界大戦 大東亜戦争

日本軍 日本陸軍 イギリス軍

マレー 昭南島 銀輪部隊


参考資料編集

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