概要
第二次世界大戦時の1941年、アメリカ合衆国のハリー・D・ホワイト財務長官補佐が原案し、その後コーデル・ハル国務長官に提出され、日本時間11月26日に大日本帝国に送られた交渉文書である。
この文書の解釈には様々ある。
しかしながら日本は11月2日の会議で12月1日午前0時を交渉期限と定めており、更に11月26日には真珠湾攻撃の為に南雲忠一中将率いる機動部隊が単冠湾を出撃していた。
加えて11月5日に東郷外相は野村大使へ11月25日(最終的に29日まで延長)を調印期限として伝えてあった。
そしてこの訓電は米国においても筒抜けであった。
このため11月20日に提出された乙案を拒否した時点で開戦が避けられないことは、双方の視点において確定していた。
そして乙案の内容は以下の通り。
1.日米両国は仏印以外の東南アジアおよび南太平洋地域に武力進出を行わない
2.日米両国はオランダ領東インドでの物資獲得のために協力する
3.日米両国は通商関係を資産凍結前に戻し、米国は石油を日本に供与する
4.米国政府は中国への軍事支援を取りやめる
・交渉妥結に当たって、日本は南部仏印の部隊を北部へ移動させる。中国もしくは太平洋地域の公正な平和が達成されれば、これを撤退させる。
・三国同盟、通称無差別問題については甲案の内容を必要に応じて挿入する
平たく言えば「中国から手を引け」そして「経済制裁をやめろ」というわけである。
「公正な平和」というあいまいな条件により実質的に北部仏印を事後承認する可能性まであった。
これでも日本側としては大幅に譲歩したものであるが、日本の支配拡大を警戒するだけでなく、イギリス、ソ連などが欧州戦線への集中のために日本への断固たる処置を望んでいたこともあり、これが妥結される見込みは薄く、実際に米国はこれを拒絶した。これにより日米開戦は決定的なものとなった。
そして拒否の返答と共に手渡されたのが「ハル・ノート」である。
冒頭には「極秘 試案にして拘束せられず」とある。
実際の内容
合衆国政府及び日本政府に依って執らるべき措置
- 両国政府は、日米並びに英帝国、中華民国、和蘭、蘇連邦及び泰国間に多辺的不可侵協定を締結するに努力す。
- 両国政府は、日米並びに英、蘭、支、泰各政府間に、仏領印度支那の領土保全を尊重し、それに脅威をもたらすべき事態発生せばそれに対処すべく必要なる措置を執るための共同協議を開始し、また仏領印度支那における通商上の均等待遇を維持すべき協定の締結努力す。
- 日本は中国及び仏印より全陸海軍及び警察力を撤退す。
- 両国政府は、重慶政府以外の中国における如何なる政府もしくは政権をも支持せず。
- 両国政府は、団匪事件(※)議定書に基づく権利並びに居留地権を含む中国における一切の治外法権を放棄し、他国政府も同様の措置を執るとの同意を得べく努力す。
- 両国政府は、最恵国待遇及び貿易防壁の軽減に基づく通商協定締結のための交渉を開始す。
- 両国政府は、資産凍結を撤回す。
- 弗(ドル)円比率安定の計画に同意し、その資金を設定す。
- 両国政府は、何れも第三国と締結したる協定は本協定の基本的意図たる太平洋地域を通じての平和の確立及び維持と衝突するが如く解釈されることなきに同意す。
- 両国政府は、他の諸国をして本協定の基本的政治上及び経済上の諸原則に同意し、これを実際に適用せしめるが如く勧誘すべし。
※義和団の乱のこと。
簡単にまとめれば
- 日本の支那・インドシナからの軍隊及び警察力の撤収
- 日本は重慶にある中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府、政権を認めてはならない
- 日本の支那における海外租界と関連権益全ての放棄
- 上記を呑むなら、資産凍結は撤回するし、最恵国待遇も含めた通商条約締結、ドルと円比率安定も配慮する
となる。
平たく言えば「中国から手を引くのはお前らの方だ」というわけであり、当時の日本の態度からこれが受け入れられる見込みはほとんどなかった。
実際のところはこれに加えてより譲歩的な「暫定協定案」も直前まで存在していたが、中国については棚上げし、経済制裁は緩和に留め、南部仏印から撤退を強制し北部仏印駐留軍の規模を制限するものであった。これが日本に対し機動部隊撤退を決断させるに足るものであったとは考えにくい。
結局ハルは暫定協定案を破棄することを決断し、ルーズベルトもこれを承認している。
この決断の理由についてハルは中国、イギリス、オランダ、オーストラリアの反対などを挙げているが、挙げられた国の実際の反応とは矛盾する点もあり、本当の理由については定かではない。
これを受け取った日本側では、度肝を抜かれたかのような発言をしている者も少なくない。
例えば東郷外相は閣議において「彼我の交渉経緯を全然無視せる傍若無人の提案を為し来れり」と痛烈に非難しており、東條首相は「自存自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第であります」などと発言している。
ただし先述したように、乙案が拒否されれば開戦は間違いなかったという状況である。実際にハル・ノートの内容が日本側の決定に与えた影響はほとんどなかった。
「実質的な最後通牒」であると解釈する者も戦前、戦後共に多くいるが、最後通牒とは明確な期限を設け、要求の受諾か戦争かを迫るものであり、ハル・ノートにそのような性質はなく、むしろ乙案の方が最後通牒には近かった。
また11月27日ごろ、佐藤尚武外務省顧問から「(東郷外相より)牧野伸顕元内大臣に見せて欲しい」との託を伝えられ、ハル・ノートを見せられた吉田茂も冒頭に「試案」「拘束力無し」とあることから実際の思惑はともかく、外交文書上では決して最後通牒ではないと受け取っており、12月1日のジョセフ・グルー駐日大使との会見でも大使から「あれは試案であり、日本政府は最後通牒と解釈しているが大きな間違いである。日本側の言い分もあるだろうが、あれはハル国務長官が日米交渉の基礎をなす一試案と強調しているもので、その意味を充分理解して欲しい」と言う内容を聞かされ、更に東郷外相との会談を斡旋して欲しいと依頼されて動くも外相は大使に会おうとはせず、既に戦争に動いている状態で大使に会うのは気が引けたのであろうが、一国の外相として大使と会談すべきだったと吉田は述べている。
なおこのハル・ノートに関してソ連のスパイである「ハリー・D・ホワイト」の関与を強調する主張が多くあるが、ホワイトがソ連のスパイであった証拠はあっても、ハル・ノートがそのスパイ活動の一環であった証拠はない。
実際のところ、ホワイトが直接作成した「モーゲンソー私案」は様々な面において日本に妥協的であり、満州国の明白な承認、ソ連の極東での活動の制限など、むしろソ連に対する悪影響すらあるものだった。そこから妥協的項目を大幅に削除したのがハル・ノートであり、ソ連の直接的な影響は疑わしい。