キスカ島撤退作戦
きすかとうてったいさくせん
詳しい解説はwikipediaなどに譲るとし、史実にそこまでの興味がない人(主に艦これ提督)向けの簡単な解説を(艦これ的文脈を交えて)記述する。
第八艦隊のセ号作戦、完部隊の北号作戦にならび奇跡の作戦と称される。
キスカ島(和名・鳴神島)からキスカ島守備隊を引き上げる作戦。
別名・北方ケ号作戦。対する南方のケ号作戦はガダルカナル島の撤退作戦である。
礼号作戦などでも有名な、元鈴谷艦長の木村昌福(ヒゲのショーフク)提督が指揮を執った。
戦後、『太平洋奇跡の作戦キスカ』という映画になった。
すべて1943年の出来事
3/27:アッツ島沖海戦
5/12:アッツ島の戦い 開始
5/20:アリューシャン方面の放棄が確定
5/29:アッツ島玉砕
6/29:第二期作戦発動
7/07:艦隊出撃
7/12:撤収予定日、ここからずっと霧が晴れてしまう
7/15:「帰ろう、帰ればまた来られるから」
7/18:艦隊、幌筵に帰投
7/22:25日に濃霧の予報、再出撃
7/26:阿武隈と国後の衝突、初霜若葉長波の三重衝突
7/28:アメリカ軍の艦艇が補給のため引き上げる
7/29:撤収の決行
7/30:アメリカ軍はもぬけの殻のキスカ島を再包囲
7/31:翌日にかけ艦隊、泊地に帰投
8/15:コテージ作戦
アッツ島沖海戦が遠因となり、アッツ島(和名・熱田島)の守備隊は玉砕してしまった(改二ではない那智の夜戦突入セリフの、「仲間たちの仇だッ!!」はスリガオ海峡海戦とこのアッツ島玉砕のどちらか、もしくは両方を指していると思われる)。
アッツ島玉砕の直前、せめて一人でも回収したいという陸軍の要望で阿武隈、木曾らはアッツ島沖に達していたが、結局守備隊玉砕には間に合わなかった。
キスカ島はそのアッツ島よりアメリカ本土に近く、さらに飛行場のあるアムチトカ島に挟まれた完全孤立の状態にあり、陸海軍合わせて6000名近くのキスカ島守備隊は実質「詰み」の状態にあった。
作戦の立案と準備
第一期作戦の次に第五艦隊・第一水雷戦隊の速力の速い艦艇で、現地特有の霧に紛れてキスカ島に近づき、一気に守備隊を回収しようという作戦が立案された。
まず作戦の準備のためには現地の正確な天候を知ることが重要であった。
幸い、第五艦隊には戦前にアメリカの最新の気象理論を学んだ気象予報士がいた。
それから作戦に必要な十分な数の駆逐艦があちこちの部隊から第一水雷戦隊へ掻き集められた。
特に参加を熱望されたのが最新型のレーダーを装備した新鋭駆逐艦島風であった。
映画『太平洋奇跡の作戦キスカ』では第一水雷戦隊へ駆逐艦を回す代わりに第五艦隊の重巡洋艦那智・摩耶が南方へ送られる描写があるが、実際には南方へ送られるどころか最初の出撃では阿武隈ら撤収部隊の後方にくっついて来ている。
撤収部隊に参加する艦艇にはアメリカ艦艇と誤認させるためのカモフラージュが行われた。
艦これで表現するとこんな感じだろうか。
もしくはこういった感じか
帰ろう、帰ればまた来られるから
霧の深さ、そして新鋭駆逐艦島風の兵装を活かし、水雷戦隊で忍び寄り兵員を収容しようという作戦。
しかし、最初の出撃では四日連続で霧が晴れてしまい、航空攻撃などにさらされてしまうことを恐れた木村提督は燃料の減りのこともあり、幌筵に帰投とする。
その際の言葉がかの有名な「帰ろう、帰ればまた来られるから」である。
当然、上層部(第五艦隊司令、連合艦隊、大本営)は怒り狂った。
上層部は、たとえ無理を押した強行であっても、キスカの兵のいくらかでも救出できれば上出来と考えていた。季節の関係上、霧が完全に晴れて機を失ってしまう、あるいは北方自体の燃料が底をつくという懸念もあった。木村提督の“弱腰”に怒り狂うのも、別段筋違いではなかったのだ。
しかし、木村提督は頑として霧が発生するのを待ち続けた。木村提督はあくまでも「全員救出」を目指していたのである。
「一か八か」の上層部と、「作戦完遂」を目論む木村提督との、意識の差から生じた対立だったが、結果として、天は木村提督に味方した。
そして霧が確実にかかると予報が出た7月下旬、木村提督は撤収部隊の再出撃とした。
が、第五艦隊司令部は督戦として多摩に司令部を置き同行した。(那智では燃料が足りなかったため多摩)
濃霧はかならずしも味方とは限らない
最新鋭のレーダーを装備していたのは島風、それと濃霧を活かす。
ともなれば、敵の攻撃にこそ晒される危険は少なくとも、味方同士の衝突が起こりうる。
実際、阿武隈と国後が衝突、初霜と若葉、長波が三重衝突を起こし、
損傷のため、若葉は撤退、初霜は補給隊に編入となり、兵員収容には参加しなかった。
映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』では衝突事故により海防艦「国後」、駆逐艦「若葉」、「初霜」が途中で帰還するが、実際には「若葉」が単独で帰還した。
また、敵艦発見を報じ阿武隈と島風が雷撃を行うも、それは敵艦などではなく、小島の見間違いであった。それほど霧が濃かったのである。
(艦これにおいては時折、阿武隈が雷撃で島を破壊するなどとネタにされている)
史実では断じて島を雷撃で破壊などはしていない。
ただし、魚雷の爆発音を聞いたキスカ守備隊は、「救援隊がやられた」と早とちりして、一時、落胆したとも伝えられる。
アメリカ軍はアメリカ軍で、キスカ島を包囲していたアメリカ軍艦隊がレーダーに映った虚像を日本軍艦隊だと勘違いして延々と砲撃を加えた後に日本軍艦隊を殲滅したと勝手に思い込んで帰って行った。もっとも重巡洋艦サンフランシスコの乗組員は異変に気付いていたという。
アメリカ軍艦隊の無電を傍受した日本軍艦隊は「なにやってんだこいつら」と思ったという。
奇跡の作戦
督戦の多摩座上艦隊司令部へ「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」、つまり木村提督は後は任せろとの連絡を送信後突入を決行。
衝突や座礁はしない、でも敵艦などには見つからないという程度に霧が晴れていたため無事に到着。
5200名の兵員を収容し、再び霧に紛れ帰投していった。
衝突以外は無傷という形になった。
この件に関して「アッツ島の英霊の加護があった」などと評されている。
何人かの将兵が帰投する艦の上で霧の中から「万歳」の声を聞いたという。
最後の最後に第一水雷戦隊に災いが降りかかるが…
キスカ島守備隊を満載した撤収部隊は帰路、浮上中のアメリカ軍潜水艦と遭遇してしまった。
誰もが「終わった」と思った。
だが上記のとおり、撤収部隊の艦艇にはアメリカ艦艇と誤認させるためのカモフラージュが施されていたためか、阿武隈ら撤収部隊の艦艇をアメリカ軍艦隊と勘違いしてそのままどこかへ行ってしまった。
撤収部隊は無事、那智や摩耶の待つ幌筵へ到着した。
コテージ作戦
アメリカもこのキスカ島を奪い返そうとしており、上陸作戦などを考案していた。
戦艦などを用いた海上封鎖も行っていたが、その発砲により帝国海軍の艦隊を撃退したと思ったのか、よりによって木村提督の突入の日に限り艦艇を引き上げてしまった。
そして後日、艦砲射撃を加えたのち、34000人もの兵力で上陸作戦を行う。
が、既にキスカ島はもぬけの殻。 緊張状態にあったアメリカ兵はいない日本兵と戦闘する勢いで突入したため同士討ちが起き100名以上の死者を出してしまった。
極め付けには、キスカ島守備隊の軍医が「ペスト患者収容所」などと書いた看板をイタズラで置いた(これを翻訳して報告したのが、後に日本文化研究者となるドナルド・キーンであった)ために、キスカ島上陸部隊は後にパニック状態となる。
余談だが、戦後にとある週刊誌が間に立ち、このイタズラ書きの主と、ドナルド・キーン氏は対面を果たし、キーン氏はイタズラ(攪乱)だったと知って、「してやられた」と破顔一笑だったらしい。
史実通りなら、敵艦の格好をした仮装行列のような集団である。
阿武隈
木村提督を乗せ指揮を執った軽巡。
米艦と誤認させるために三本ある煙突の一本を白く塗っていた。
艦これにおいて、金髪碧眼である理由はおそらくこれであろう。
阿武隈改二において甲標的を装備できるのは、おそらくキスカ島の甲標的隊の存在に由来している。
この甲標的は放棄されており、今度こそは拾い集めてきたという形になるのだろうか。
大発に関しても、阿武隈が積んでいたのは中発であるが大発が当作戦に使われている。
川内が夜に紛れる忍者なら、阿武隈は霧隠れのエージェントといったところだろうか。
いや、幸運に恵まれ、人命を第一にする木村提督、そして主力空母部隊護衛任務をになっていたことを鑑みると、
"霧隠れの騎士"とでも呼ぶべきだろうか。
アッツ島守備隊の玉砕の際には木曾などとともにアッツ島沖に達していたが、泣く泣く引き返している。
木曾
女房役といったところ。
木曾は白煙突に加え、多摩ともども北方迷彩を施している。
どういう模様かは多摩の浴衣グラが一番見やすいと思うのでそちらを参照されたし。
彼女もまた甲標的を積めるが、もしかすると姉よりもこちらに事情が近いかもしれない。
また、軍刀を携えているが、北方では普通の軍刀は脆くなってしまうため、専用の軍刀「振武刀」が作られている。
これは刀匠の橘正秀が監修し、東洋刃物が生産したものであった。
なので、もしこの刀に号をつけるならば、キスカ島の名前を取って鳴神正秀となるのだろうか。
島風
最新鋭の丙型駆逐艦、二水戦の思想をそのまま体現したワンオフ艦。
速力、重雷装が自慢であるが、今回お呼びがかかったのは電探。
22号電探と逆探の三式超短波受信機を装備していたために木村提督たちは大喜びし、
島風を旗艦とするという話さえあった。
二一駆逐隊司令の若葉が離脱したため、当作戦では島風が二一駆逐隊司令を担った。(初霜もこの後別行動になってしまうが)
そして、二水戦において、能代の戦没後に旗艦を務めることとなる。
長波
島風が二水戦の子として設計された子なら、こちらは最も二水戦として生きた子。
そんな彼女も一水戦としてこの作戦に参加した。
木村提督と共に作戦に従事したのはこの一回ではなく、第四次多号作戦でも阿武隈より旗艦を継承した霞指揮下で働いている。
そして悲しきかな、第四次の後の第三次多号作戦にて島風と運命を共にした。
五月雨
南方のケ号作戦にも参加していた艦の一隻。
僚艦は夕立と村雨が南方で戦没しており、春雨も入渠中であった。
当作戦後は時雨と白露を残すのみとなっていた二七駆逐隊に編入される。
島風、長波と五月雨(と初霜と若葉)らは警戒隊のため収容には参加していない。
セ号作戦にも参加。
第十駆逐隊
南方のケ号作戦で僚艦の巻雲を喪った駆逐隊、夕雲の没後に朝雲が編入される。
キスカ島撤退作戦の直後に南方でセ号作戦に参加。
夕雲
夕雲型一番艦、主力オブ主力を自称するもこの駆逐隊の所属は第十戦隊であり二水戦ではない。
巻雲の雷撃処分を行った艦である。
キスカ島撤退の三ヶ月後、ベララベラ島守備隊の救出に出撃した際に米軍艦隊と交戦し沈没。
第九駆逐隊
オリジナルメンバーは朝雲のみで吹雪型二隻が編入されている。
が、白雲はドック入り中のため不参加となっている。
朝雲
四水戦といえばこの子だろう。
緒戦の南方の作戦でも戦果を挙げている。
後に第十駆逐隊に編入され、その僚艦の全滅後に第四駆逐隊に編入される。
呉の雪風佐世保の時雨とはいうが、横須賀軍属の駆逐艦で言えば彼女、もしくはその第四駆逐隊の僚艦の野分がそのポジションになるだろう。
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すべて見る- 雪風戦時外日誌
雪風戦時外日誌 13. 阿武隈
ゲーム「艦隊これくしょん」に着想を得て書き始めました。登場するのは擬人化した艦艇たちです。 着想はゲームなのですが、史実を一部反映させている(他の章も同様、大まかには沿っていますが、展開は史実通説と異なることがあります)こと、ゲーム未実装艦の登場、キャラクターと世界観が違うなど、ゲームとは違う内容、展開です。 今回は、雪風は一切登場しません。ここでの舞台は北方海域、奇跡の作戦と言われるキスカ島撤退作戦です。 この章での主人公は、一水戦旗艦にして、ゲームと全く異なり本シリーズでは超強気の性格の「阿武隈」です。合わせて、本シリーズで重要な役目を持つ駆逐艦「神風」が登場します。 ゲームをご存知の方は読みやすいと思いますが、別の話としてご覧いただけるとありがたいです。 少しずつでも書き進めていきたいと思います。ご覧いただけると幸いです。 なお、本シリーズは史実を反映した戦記物であり、戦闘及び戦没にかかる描写があります。悪しからずご了解ください。 ★7月25日に、二箇所の表記ミスを修正しました ★8月8日に一箇所、12日に数箇所、9月5日に数箇所表記表現を修正しました ★平成30年2月24日に、表現表記を数カ所修正しました52,073文字pixiv小説作品 帰ろう、帰ればまた来られるから
歴史の本を読んでいて、このキスカ島撤退作戦に感動したので番外編としてこれを書きました。 史実の基本的なところをベースに全て自分の妄想で書きました。 キスカ島撤退作戦関係者の皆様、誠に申し訳ございませんm(_ _)m また以前、こういった物語は専門用語が多くて読みにくい!という意見をいただいたので、できる限りストーリー性を濃くして読みやすくしたつもりですが...どうかはわかりません。 読みにくかったらすみません4,430文字pixiv小説作品