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概要編集

詳しい解説はwikipediaなどに譲るとし、史実にそこまでの興味がない人向けの簡単な概要を記述する。


ニュージョージア諸島コロンバンガラ島から日本軍守備隊を撤退させる日本軍の作戦。


太平洋戦争中に日本軍が行った撤退作戦の中では、ガダルカナル島撤退作戦キスカ島撤退作戦とともに最も成功した撤退作戦と言われる。


日にち編集

すべて1943年の出来事



背景編集

駆逐艦の墓場、ニュージョージア編集

日本軍はガダルカナル島の戦いの支援のために、ガダルカナル島の北にあるニュージョージア諸島に飛行場を造っていた。

日本軍がガダルカナル島から撤退すると、日本軍は次の防衛ラインをニュージョージア諸島に定めた。


一方、アメリカ軍もガダルカナル島の次はニュージョージア諸島を攻略し、最終的に日本軍の一大拠点であるラバウルへ攻め込む計画を立てていた。


ニュージョージア諸島の日本軍守備隊は攻撃に晒された。

補給を行った日本軍の駆逐艦も峯雲村雨陽炎黒潮親潮が撃沈され、駆逐艦の墓場と呼ばれるようになっていった。

この動画を観ればわかるようにニュージョージア諸島は松島のような多島海であり、日本軍は大発動艇を多用していた。


クラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦編集

6月30日、ついにアメリカ軍がニュージョージア諸島のレンドバ島に、次いでニュージョージア島へ上陸してきた。

周辺海域では7月5日に連合国軍の第36.1任務群と日本海軍の第三水雷戦隊の間でクラ湾夜戦が、7月12日に第36.1任務群と日本海軍の第二水雷戦隊の間でコロンバンガラ島沖海戦が発生した。

コロンバンガラ島沖夜戦


日本軍もアメリカ軍も中部太平洋での来るべき決戦に備えて艦隊主力を本土に引き揚げていたので、水雷戦隊同士の戦いとなった。


この二つの海戦で日本海軍は勝利し、連合国軍の第36.1任務群が壊滅状態になったが、三水戦と二水戦もそれぞれ旗艦の新月と神通を失うなどの大損害を受けた。


アメリカ軍はクラ湾夜戦やコロンバンガラ島沖海戦で酷い目に遭ってからは 魚雷艇PTボート)を投入する。これは日本軍の大発動艇に大きな威力を発揮したが、駆逐艦には敵わず逆に体当たりで沈められるPTボートも出る有様だった。


またニュージョージア島の日本軍守備隊も、寡兵ながら良く善戦し、アメリカ軍の上陸部隊の指揮官が解任されるほどだった。


ベラ湾夜戦第一次ベララベラ海戦編集

ニュージョージア島の戦いがさっぱりうまくいかないアメリカ軍はアーレイ・バーク大佐の考案した新戦術である“ポエニ戦術”(サッチ・ウィーブのような戦術)を採用した。

これにより8月6日のベラ湾夜戦では駆逐艦萩風江風が一夜にして全滅し、時雨だけがかろうじて旗艦川内と合流して生還した。

時雨「江風、萩風、嵐・・・今度は一緒に帰ろう」ベラ湾夜戦後

さらにアメリカ軍はニュージーランド軍とともにニュージョージア諸島にも上陸してきた。

8月17日の第一次ベララベラ海戦では漣、浜風、磯風、時雨が別のアメリカ軍駆逐艦部隊と対戦したが、引き分けに終わった。

8月30日に日本軍はニュージョージア島からコロンバンガラ島へ撤退することになった。


セ号作戦編集

北方でのキスカ島撤退作戦が成功したこともあり、9月18日、日本海軍はコロンバンガラ島からの撤退作戦であるセ号作戦を発動した。

これは夜間、駆逐艦の護衛の下大発動艇などの小型舟艇を何隻も列を並べて島伝いにブーゲンビル島まで移動させる作戦であった。

キスカ島撤退作戦のように霧に紛れて撤退するようなことはできなかったが、昼間は途中の島々に上陸して敵機をやり過ごす作戦であった。

沿岸部にマングローブが生える多島海のソロモン諸島だからこそできた作戦であった。


最初の予定では大発動艇部隊のみで行う計画であったが、いくらなんでもあんまりだということで伊集院松治大佐率いる第3水雷戦隊の駆逐艦が援護を行うことになった。

なお第3水雷戦隊の本来の旗艦は川内であったが、この時期には旧式化が進んでいたため旗艦を秋雲に譲って後方に待機となった。

援護に回った第3水雷戦隊の陣容は主に

夜襲部隊(本隊、敵を攻撃):秋雲磯風風雲夕雲時雨五月雨

輸送隊:皐月、水無月、文月

などといった顔ぶれだった。


セ号作戦の発動と終了編集

撤収作戦は1943年9月末に第一次撤収作戦が、1943年10月末に第二次撤収作戦が行われた。

米軍も只では返すはずもなく、駆逐艦の火力支援のもと魚雷艇を突っ込ませるという戦術を取ってきた。

第3水雷戦隊の駆逐艦はもちろん大発動艇に乗った兵士も手持ちの武器で応戦し、戦いながらの撤退となったが、なんとか守備隊1万2千名をコロンバンガラ島から脱出させることに成功した。


ベララベラ島守備隊を救出せよ編集

セ号作戦の直前、ニュージョージア諸島ベララベラ島にもアメリカ軍とニュージーランド軍は上陸していた。

日本海軍の南東方面艦隊はベララベラ島の守備隊600名に対して玉砕命令を出していた。

が、セ号作戦の途中で撤退を指示するがセ号作戦の終了後に、「やはり死守すべき」と言いだした。これに対して現場の第8艦隊は「こんな朝令暮改が許されるか」とベララベラ島守備隊救出を嘆願、急遽救出が行われることになり、第三水雷戦隊は夜襲部隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)輸送及び収容部隊(文月、夕凪、松風と多数の舟艇)でベララベラ島撤収部隊を編成し、出撃した。

第二次ベララベラ海戦編集

当時、島の周りはアメリカ軍艦隊に包囲されており、すぐにアメリカ軍の駆逐艦三隻が秋雲らベララベラ島撤収部隊をレーダーで発見し、攻撃してきた。


第三水雷戦隊の夜襲部隊とアメリカ軍駆逐艦三隻は真正面から激突し、夕雲とアメリカ軍の駆逐艦シャヴァリアは互いの魚雷で文字通り刺し違えるように沈没した。さらに残りのアメリカ軍の駆逐艦二隻も大破したため、たまらず撤退した。


アメリカ軍の海上封鎖を真正面から強行突破したベララベラ島撤収部隊はそのままベララベラ島へ突入、守備隊600名を回収し無事ブーゲンビル島へ帰還した。


ソロモンの奇跡編集

キスカ島撤退作戦のそれはウソのような偶然が重なり、文字通り無傷で撤退することができた。一方でニュージョージア諸島からの撤退作戦は、妨害してくる敵を絶えず追いはらいながらの撤退戦となり、ベララベラ島からの撤退はアメリカ軍艦隊の封鎖線を正面突破して撤退できた“奇跡”となった。


一方、アメリカ軍はニュージョージア諸島の攻略に予定を大幅にオーバーして三カ月という時間がかかり、ラバウル攻略の予定さえ放棄する結果となった。


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