背景
日本軍はガダルカナル島の戦いの支援のために、ガダルカナル島の北にあるニュージョージア諸島に飛行場を造っていた。
日本軍がガダルカナル島から撤退すると、日本軍は次の防衛ラインをニュージョージア諸島に定めた。
一方、アメリカ軍もガダルカナル島の次はニュージョージア諸島を攻略し、最終的に日本軍の一大拠点であるラバウルへ攻め込む計画を立てていた。
ニュージョージア諸島の日本軍守備隊は攻撃に晒された。
補給を行った日本軍の駆逐艦も峯雲、村雨、陽炎、黒潮、親潮が撃沈され、駆逐艦の墓場と呼ばれるようになっていった。
6月30日、ついにアメリカ軍がニュージョージア諸島のレンドバ島に、次いでニュージョージア島へ上陸してきた。
周辺海域ではコロンバンガラ島に兵と物資を輸送しようとする日本海軍のとそれを阻止しようとする連合国軍の間で、7月5日にアメリカ第36.1任務群と日本海軍第三水雷戦隊の間でクラ湾夜戦が、7月12日に第36.1任務群と日本海軍第二水雷戦隊の間でコロンバンガラ島沖海戦が発生した。
日本軍もアメリカ軍も中部太平洋での来るべき決戦に備えて艦隊主力を本土に引き揚げていたので、水雷戦隊からなる日本艦隊と少数の巡洋艦を主力とするアメリカ艦隊との戦いとなった。
この二つの海戦で日本海軍は目的である輸送に成功して勝利し、連合国軍のウォルデン・リー・エインスワース少将の第36.1任務群は軽巡洋艦ヘレナが撃沈され、他の軽巡洋艦3隻も損傷して主力である巡洋艦は壊滅状態になったが、三水戦と二水戦もそれぞれ旗艦の新月と神通を失った事で司令部が壊滅する大損害を受けた。
アメリカ軍はクラ湾夜戦やコロンバンガラ島沖海戦で酷い目に遭ってからは 魚雷艇(PTボート)を投入する。これは日本軍の大発動艇に大きな威力を発揮したが、駆逐艦には敵わず逆に体当たりで沈められるPTボートも出る有様だった。
またニュージョージア島の日本軍守備隊も、寡兵ながら良く善戦し、アメリカ軍の上陸部隊の指揮官が解任されるほどだった。
一方日本軍もアメリカ軍航空機の夜間雷撃により、第七戦隊が撃退されるなどしたため、ニュージョージア諸島コロンバンガラ島への鼠輸送のルートをクラ湾からベラ湾へ変更する羽目になった。
アメリカ軍は前述のように第36.1任務群が壊滅状態であり、残された巡洋艦を主力とするアーロン・スタントン・メリル少将の第36.9部隊は遠く、魚雷艇部隊ではこてんぱんにされたため、この海戦で投入されたのはフレデリック・ムースブルッガー中佐の指揮する第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだったが、ムースブルッガー中佐によれば、今までの巡洋艦のお守から解放され自由に戦えると任務群の将兵の士気は盛んであったという。
第31.2任務群は前任者であるアーレイ・バーク大佐の考案した、古代ローマとカルタゴ間のポエニ戦争から発想を得た新戦術であるポエニ戦術の訓練を受けていた。
この戦術は艦隊を二つに分け、まず一隊が魚雷攻撃を行い、それに気を取られた相手がそちらに反撃する隙にもう片方の隊が別方向から砲撃、相手がそれに対応すると今度は魚雷を放った隊が別方向から攻撃するというように常に相手に奇襲を与えるもので、島が多い海域も相手レーダーには艦との識別が困難であり、奇襲による効果を高めるという戦術であった。
ベラ湾夜戦
8月6日、日本海軍はいつものようにソロモン方面へ第三水雷戦隊による鼠輸送を行うことになった。
※本来は天霧が参加予定であったが、直前に米魚雷艇「PT-109」(艇長:ジョン・F・ケネディ中尉)と衝突した影響で大艦として江風が参加する事となった。
この艦隊はレーダーを装備していなかった。
これを察知したアメリカ海軍が投入した第31.2任務群の戦力は以下のとおりである。
6隻の内、駆逐艦モーリーは珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加した戦歴が突出した歴戦の艦で、最終的に最も多くの勲章を授与された艦の一隻となる程であった。
コロンバンガラ輸送隊と警戒隊は霧の立ち込める夜のベラ湾に入ったが、入った瞬間時雨に座乗していた第27駆逐隊司令原為一大佐が「敵のにおいがする」と言った(マジでそう言った)ため、時雨は警戒態勢を取った。時雨の舵にも魚雷が命中したが、穴が開いただけで済んだ。
第12駆逐群と第15駆逐群はコロンバンガラ輸送隊(萩風、嵐、江風)に対してまずダンラップを旗艦とするムースブルッガー中佐直卒の第12駆逐艦群の先制のレーダー雷撃による魚雷命中で第24駆逐隊の江風を撃沈し、第4駆逐隊の荻風、嵐を航行不能とさせ、次にスタレットを旗艦とするロジャー・シンプソン中佐の第15駆逐艦群によるT字戦法による砲撃で荻風、嵐に止めをさすという一方的な展開により全滅させた。
上述の通り“敵のにおい”で警戒態勢を取っていた時雨は難を逃れ、相手駆逐艦の追撃を振り切り、ブイン輸送隊の第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐の旗艦である川内と合流した。
日本側は海軍で528名、増援部隊の陸軍で820名の戦死者を出し、生存したのは海軍では旗艦荻風より脱出した輸送部隊指揮官・第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐等190名、陸軍では120名に過ぎなかった。
アメリカ軍にとってはクラ湾夜戦やコロンバンガラ島沖海戦で壊滅状態となった第36.1任務群の仇を取った戦いとなった。
夜戦においてアメリカ軍は日本軍に戦術面で遅れを取っており、日本軍を撃破しても、自軍も甚大な被害を被るパターンが多かった。
その点、ベラ湾夜戦はアメリカ側は一切の損害を受けない完勝であった。
そして今までのような巡洋艦による強力な火力無しでも、駆逐艦だけで恐るべき日本水雷戦隊に対抗できるようになった事を示し、また戦術を考案したアーレイ・バークも、後のセント・ジョージ岬沖海戦で自ら水雷部隊を率いてベラ湾夜戦同様の勝利を飾るなど、ここに夜戦戦術においてもアメリカ軍が日本軍を上回ったことを証明してみせた。
生き残った時雨はニュージョージア撤退作戦(セ号作戦)に参加した。
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