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スリガオ海峡海戦

すりがおかいきょうかいせん

スリガオ海峡海戦とは、1944年10月25日にレイテ沖海戦の中で発生した戦いである。
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レイテ沖海戦の流れは、該当記事を参照されたし。

スリガオ海峡突入作戦

西村祥治中将指揮の第二戦隊(戦艦「山城」、「扶桑」)は、第一遊撃部隊(栗田艦隊)主力と共にブルネイ湾に進出。当初は一緒に突入する筈であったが、手配されている筈の燃料がなく、独自に手配した給油艦が1日遅れで到着したことで、日程の余裕がなくなり、低速の別働隊を最短ルートで挟撃させることにした。ここに第二戦隊を主力とする第三部隊(通称西村艦隊)が急きょ編成され、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して、スル海を経由して南方のスリガオ海峡からレイテ湾に突入することになった。
「山城」(旗艦)、「扶桑」、重巡洋艦「最上」、第四駆逐隊(駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」)、第二十七駆逐隊(駆逐艦「時雨」のみ)の計7隻からなる第三部隊は、10月22日15時30分ブルネイを出撃、途中10月24日朝には米機動部隊艦載機からの攻撃を受けるが、敵の目が主力の栗田艦隊に向いたため、たいした被害もなく、その後は平穏に航行を続けた。

一方、行く先のスリガオ海峡にはオルデンドルフ少将率いる水上打撃部隊が展開しており、
ウェストバージニア・メリーランド・テネシー・カリフォルニア・ミシシッピ・ペンシルヴェニアの改装済み旧式戦艦6隻の他、旗艦ルイビル以下重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻で構成された大艦隊が、鉄壁の迎撃態勢を敷いて待ちかまえていた。

米軍の作戦は、初めに魚雷艇が敵艦隊を発見し(可能であれば攻撃)、次に敵艦隊がスリガオ海峡に突入すると駆逐艦が魚雷攻撃、最後に海峡出口に蓋をするように展開(丁字有利)した戦艦・巡洋艦の戦列隊が砲撃戦で止めを刺すという、まさに蟻一匹も逃さない構えであった。

小沢機動艦隊の囮作戦や基地航空部隊の攻撃が中々奏功せず、それによりシブヤン海で米機動部隊艦載機からの猛攻撃を受けた栗田艦隊は大損害を被り一時反転、レイテ湾突入が遅れる事となった。遅延を知った西村司令官は自艦隊の状況を第一遊撃部隊指揮官・栗田健男中将に報告したが、大空襲の最中でもあり栗田長官からは何も指示がなく、第三部隊は予定時刻通りに(単独で)敵艦隊の待ち受ける夜間のスリガオ海峡に突入することになった。

なお、24日22時15分以後になってようやく栗田長官から「25日0900時に合流せよ」という電報が旗艦「大和」から発信された(「山城」は22時42分受信)が、第三部隊は米魚雷艇との戦闘を開始しており、手遅れとなった。

前哨戦

10月24日18時30分、フィリピンの内海ミンダナオ海に突入していた第三部隊は、「最上」「満潮」「山雲」「朝雲」からなる掃蕩隊を分離、先行させた。

22時52分、「時雨」「山城」「扶桑」からなる本隊は突如米軍の魚雷艇小隊(1個小隊3隻)と遭遇した。本隊はすぐに魚雷回避行動をとりつつ、魚雷艇に向けて集中攻撃を行った。魚雷艇は直ちに退避し、その後も本隊を追跡し触接を行った。

一方、掃蕩隊も10月25日00時20分頃に米魚雷艇を発見した。「最上」以下掃蕩隊は魚雷艇を撃破しようとしたが、スコールに入った魚雷艇を見つけることができず攻撃できなかった。そうするうちに「最上」は魚雷艇からの雷跡を確認した。「最上」は魚雷を回避し、後続の駆逐艦は「最上」に接近した魚雷艇に機銃攻撃し魚雷艇も機銃で反撃したが、両者に被害は出なかった。視界不良により魚雷艇との戦いは不利であると判断した「最上」艦長・藤間良大佐は、00時28分に本隊との合流を決めた。

スリガオ海峡突入と第1次米駆逐艦群襲撃

02時00分頃、合流した第三部隊がスリガオ海峡に突入し北上を開始しようとしたまさにその時、先頭の「満潮」が米魚雷艇を発見した。艦隊は時折魚雷回避のために一斉回頭しつつ魚雷艇への攻撃を行った。第三部隊は3個小隊から攻撃を受けたが1本も被雷することなく攻撃を切り抜け、以後魚雷艇からの攻撃は無かった。しかしこれは南下する米駆逐艦群に獲物を引き渡すためであった。

02時16分頃に魚雷艇との戦闘が終わり、一旦落ち着いた第三部隊は北上を続けていたが、02時53分に「時雨」が右舷前方に米駆逐艦を発見、西村司令官は左右の駆逐艦(「時雨」と「山雲」)を呼び寄せ、駆逐艦先頭の単縦陣を下令した。一方、第3部隊が発見した米第54駆逐聯隊東側隊は03時00分に魚雷発射を開始し計27本の魚雷を発射すると反転、煙幕を展開し退避した。

03時09分から第三部隊は砲撃することも無く退避した米駆逐艦への一斉射撃を開始したが、米駆逐艦群の魚雷発射には気が付かなかったらしく、そのまま直進を続けた。そして03時10分頃、「扶桑」の右舷中部に魚雷が命中し、米軍は2~5発の炸裂を認めた(日本側に「扶桑」被雷及び沈没の詳細無し)。被雷後「扶桑」は右に逸れて航行不能になり、やがて大爆発を起こして船体は二つに折れた。折れた船体はその後も炎上したまま浮上、漂流を続けた。艦長・阪匡身少将以下、乗組員のほとんどが戦死した。生存者は約10名といわれる。

第1次米駆逐艦群第二波

旗艦「山城」は「扶桑」の被雷、落伍に気付くことなく前進を続けていた。そして米駆逐艦群の最初の攻撃から間もない03時13分に「時雨」が今度は艦隊の左舷前方に敵影を、1分後に「山雲」が雷跡を発見した。直ちに西村司令官は艦隊に右90度の緊急回頭を命じ、また03時22分に栗田長官に向けて敵艦発見の電報を送った。第三部隊は米第54駆逐聯隊西側隊に対して砲撃を開始したが、またも米駆逐艦群は反撃することなく煙幕を展開し退避していった。

第三部隊は回頭後2分間東方向に進行していたが、03時18分に進路を0時方向に戻し北上を再開した。すると03時20分に緊急左45度の回頭の命令が下った。しかし時すでに遅く、命令の直後に先頭の「満潮」とその後方に付こうと運動中だった「山雲」、そして「朝雲」と「山城」が相次いで被雷した。これにより「満潮」が航行不能、「山雲」が轟沈、「朝雲」が艦首を切断された。一方「山城」は速力が低下することもなく前進を続けた。「山雲」と同様に入列運動中だった「時雨」は北東に向けて航行中であったため、幸いにも魚雷が命中する事はなかった。

一連の水雷戦の結果、無傷の艦は「最上」と「時雨」のたった2隻となった。

「旗艦はいづこ、旗艦はゐずや」

「時雨」は「山城」の前方にいたが、前続艦を失い自艦の位置も喪失していた。この時、「時雨」艦長・西野繁中佐は「山城」が落伍し「扶桑」が突進しているものと勘違いしていた。そのため旗艦「山城」の消息を確認し、司令官移乗の必要性が有るか確かめようと反転、南下したが、見つけられなかった。そのため仕方なく先行する「扶桑」(実は「山城」)の後方に付き、「扶桑」に向けて追従する旨を電話したが、既に爆沈していた「扶桑」からの返答は無かった。これを聞いていた「山城」の西村司令官も「扶桑」に対して最大速力の確認の電話をしたが、当然これに「扶桑」が応える事はなかった。更にこの電話を聞いた「時雨」は直ちに「山城」に対して状況確認の電話をしたが、これがなぜか通じなかった。

この後再び「山城」が被雷した際に西村司令官は“我レ魚雷ヲ受ク、各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ”と命令したが、それでもなお前進を続けた。これを聞き、また艦隊を率いて進む扶桑型戦艦を見た「時雨」の西野艦長は、西村司令官坐乗の「山城」が既に落伍しており、艦隊の指揮権は「扶桑」の阪艦長に移譲されているものと考えた。

第2,3次米駆逐艦群襲来と米戦列隊の砲撃、旗艦「山城」の最期

この混乱の間も第三部隊に対する米駆逐艦群の魚雷攻撃が止む事はなかった。上記の米第54駆逐聯隊に続いて米第24駆逐聯隊が「山城」と「最上」、そして「時雨」に襲い掛かった。これにより03時30分頃「山城」が2本目の魚雷を受けた。

その後も北上を続けていた3隻だったが、03時50分頃から敵戦列隊の砲撃圏内に入り前方の巡洋艦部隊は03時51分から、後方の戦艦部隊は03時53分から砲撃を開始した。一方「山城」は、最初の被雷の時点で弾薬庫誘爆の危険性が生じたため5,6番砲塔弾薬庫に注水し、更に敵の砲撃を受けやがて艦橋付近で火災が発生したため3番砲塔以下の主砲が使用不能になった。このため1,2番砲塔のみで応戦することとなった。米軍側の資料では、オルデンドルフ隊は第三部隊に対し16インチ及び14インチ砲弾約300発、8インチ及び6インチ砲弾4000発を発射し、その大半は「山城」に向けられた。

この砲戦の間にも第3次米駆逐艦群が「山城」に接近し雷撃を開始した。このうちの1本の魚雷が南方へ退避しようとする「山城」の右舷機関室付近に命中し、ついに主機は停止した。更にもう一本が右舷に直撃し、艦は傾斜し始めた。そして総員退去命令後2分で転覆し、04時19分に「山城」は艦尾から沈んでいった。西村司令官、艦長・篠田勝清少将以下乗組員のほとんどが戦死、生きて日本に戻れた乗組員は士官2名、下士官兵8名だけだった。

「最上」「時雨」の退避と米軍の同士討ち

艦隊の最後尾に位置し、それまでは無傷だった「最上」も、03時50分以降の米戦列隊の砲撃開始以後被害を受け始め、艦橋への被弾で、信号員4人を除き、藤間艦長など幹部含む艦橋員が全滅、また第3砲塔が使用不能という大損害をこうむった。03時55分頃、「最上」は魚雷4本を発射すると南方への退避を図った。この魚雷は退避中の米駆逐艦の傍を通った。酸素魚雷の威力を知っていた米軍は戦列隊の戦艦3隻に緊急の真北への回頭を命じ、一時的に戦艦3隻が戦列から離脱することになった。

「時雨」も米軍の砲撃を受けたが、避弾運動をしつつ北東の砲撃圏外に出ることができた。04時00分頃、「山城」と「最上」が炎上しているのを認めた西野艦長は、第三部隊が全滅したと判断し、独断反転して戦場離脱のために南西に向かった。反転後直ぐに敵の砲撃を受け、8インチ砲弾1発の命中弾と1発の至近弾を受けた。またしても幸いなことに命中弾は不発だったが、衝撃で舵が故障したため応急操舵で離脱した。

一方米軍の方では同士討ちが起きていた。第56駆逐聯隊(第3次駆逐艦群)の第1小隊は「山城」に少なくとも1本の魚雷を当てた後、北上、退避しようとしたが、丁度戦列隊からの砲弾の雨の真ん中に飛び出す形になった。その結果、小隊の最後尾艦(駆逐艦「A・W・グラント」)に18発の砲弾(11発が米軽巡から、7発が「山城」から)が命中し、航行不能に陥った。同士討ちを知ったオルデンドルフ少将は04時09分に砲撃を10分間中止させ、同小隊が退避する時間を持たせた。低速(推定8ノット程)でしか航行できなかった「最上」もその隙に米軍の砲撃圏から脱出することができた。

志摩艦隊の到着、最上との衝突

第二遊撃部隊(志摩艦隊。指揮官ー第五艦隊司令長官・志摩清英中将)はスコールによる視界不良に悩まされ、さらにスリガオ海峡突入直後の03時24分に米魚雷艇からの雷撃で軽巡洋艦「阿武隈」が被雷したが北上を続けた。04時00分に海峡の中頃で扶桑型らしき船体が二つ炎上、漂流しているのを発見した。志摩長官はこれを「山城」と「扶桑」だと考えた(実際は二つに折れた「扶桑」であったと思われる)。

第二遊撃部隊は炎上する「扶桑」の横を過ぎると前方に一隻の敵駆逐艦を発見した。敵駆逐艦は煙幕を展開しており、すぐに煙幕の奥に隠れた。そこで第二遊撃部隊は電探または目視で敵を捕捉し、まず志摩長官直率の第二十一戦隊(重巡洋艦「那智」「足柄」)が雷撃し、次いで麾下の第七駆逐隊(駆逐艦「」「」)と第十八駆逐隊(駆逐艦「不知火」「」)が突撃、重巡が駆逐隊の支援をすることにしたが、丁度その時煙幕の隙間に炎上、停止しているように見える巡洋艦を認めた。志摩長官は電探による魚雷攻撃を信用していなかったが、松本毅参謀長が長官へ攻撃許可を確認することなく「那智」の電探に映った目標に向けて魚雷攻撃を命令した。志摩長官が気付いた時には既に発射運動に移っており、土壇場での中止による混乱を防ぐためにやむなく追認した。

なお、電探が指していた地点に米艦船はなく、その2倍の距離にヒブソン島があった(志摩長官の回想にある方向には「山城」がいた)。

問題は魚雷発射後に起きた。炎上、停止していると見られていた巡洋艦は退避中の「最上」であり、前述の通り微速前進していた。「那智」は停止している「最上」の前方を通過するつもりでいたが、「最上」が前進していたため、回避行動もむなしく「那智」は南下する「最上」と反航する形で「最上」の右舷前部に約20度の角度で衝突した(04時20分)。「最上」は右外舷が少し曲がる程度の軽度の損傷だったが、「那智」は艦首が大破し浸水が発生、速力も20ノット以上出せなくなった。両艦はしばらく接舷したまま航行、やがて「那智」は離舷、反転すると南へ遠ざかっていった。

残存艦隊の撤退

志摩長官はなおも玉砕を覚悟して突撃を続けようとしたが、参謀らの諌止を容れて、敵情不明を理由に撤退を決意すると突撃していた駆逐隊を収容、海峡からの脱出を開始した(04時25分)。

「那智」との衝突後も「最上」は単独で南下を続け、途中で艦首を喪失し低速で南下撤退中の「朝雲」を追い抜いた。しかし05時20分頃、突如「最上」は北方から大、中口径砲の砲撃を受けた。射撃は約5分間続き、「最上」は10発以上(約20発)の命中弾をうけた。オルデンドルフ少将は日本軍の雷撃を警戒し、「最上」への砲撃もそこそこに05時37分に変針した。かくして、ようやく「最上」はオルデンドルフ隊の追撃から逃れることが出来た。07時20分頃、一水戦司令部の「阿武隈」から駆逐艦「霞」への移乗のために留まっていた第二遊撃部隊に追いつき、「最上」の護衛として第二遊撃部隊から駆逐艦「曙」が派遣された。

「阿武隈」には「潮」を、「最上」には「曙」を護衛につけてコロン湾に向かわせたが、翌10月26日に両艦とも空襲を受けて「阿武隈」は沈没(生存者は「潮」が救助)、遂に航行不能となった「最上」は総員退艦後に「曙」の魚雷で処分された。

「時雨」は単独で南下を続け、04時40分頃に第二遊撃部隊に遭遇した。「那智」から“那智ノ後ニツケ”との信号を受けたが、志摩長官の指揮下でないとして拒否し単独での南下を続けた。その後は魚雷艇を撃退し、3度の航空攻撃も切り抜けて、10月27日17時00分にブルネイに到着した。

「朝雲」は03時20分頃に被雷して一時航行不能に陥り、米駆逐艦群の第2次攻撃で雷撃されたが、魚雷は機関室に被雷し同様に航行不能に陥っていた「満潮」に当たり、難を逃れた(「満潮」はこの被雷でついに沈没)。その後12ノットの速力を回復し、南下、撤退を開始した。04時50分頃、退避する「最上」を見つけたが、「最上」の速度に追いつくことができず独り取り残された。05時20分頃、北方より電探射撃を受け5発命中、艦尾に火災発生、速力も9ノットに低下した。その後も火災は収まらず更に拡大したため、艦長・柴山一雄中佐は総員退去を決断し、艦長以下乗組員は内火艇に移乗した。間もなく米巡洋艦・駆逐艦隊が接近し07時07分に射撃開始、07時21分に「朝雲」を撃沈した。内火艇も米駆逐艦2隻によって撃沈され、結果的に生還、捕虜収容所に収容された「朝雲」乗組員は艦長ら30人余りだった。

サンベルナルジノ海峡を抜けてサマール島沖を航行していた栗田艦隊の旗艦「大和」は、05時32分に西村艦隊の全滅を知る。
志摩艦隊を待たずに単独突入を決意した西村中将の評価は分かれているが、後に小沢治三郎中将は「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」と評した。

70周忌



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