1920年代にイギリスのカーデン・ロイド・トラクター社が開発した豆戦車のシリーズ。
前史
カーデン・ロイド・トラクター社はイギリス陸軍の技術士官だったJ.V.カーデン技師とV.ロイド技師が共同で立ち上げた豆戦車の設計・試作を専門とするベンチャー企業であった。
豆戦車というアイデアは同じく英陸軍の戦術研究家で技術士官だったQ.マルテル技師が1925年に「歩兵の機械化」という独自の戦術思想の具現化として発案・試作したもので、カーデン・ロイド社はこのアイデアに後から乗っかる形で設立・参入した企業だった。
マルテル技師は自動車メーカーのモーリス自動車と組んでモーリス・マルテル豆戦車を開発するが、彼は豆戦車の開発を本格的に事業化する意思は薄く、モーリス社も本業の民間用自動車の増産に注力するため協力から撤退。結果的にこの時代のイギリスにおける豆戦車の開発はカーデン・ロイド・トラクター社が一手に引き受けることとなる。
一人乗り豆戦車(Mk.I~Mk.III)
カーデンロイド社が最初に製作した豆戦車は幅の狭い箱型の車体に乗員一人が乗り込んで戦闘する形の簡易な車両で、モーリス・マルテル豆戦車とコンセプトは似通っていたが、車体形状や走行装置の方式は異なるものだった。
最初の試作車は特に型名が与えられておらず、現在では「カーデンロイド一人乗り豆戦車」などと呼ばれているが、これを改良した試作車はカーデンロイドMk.Iの社内名称が与えられ、以降のモデルも同様に型名が付されるようになった。紛らわしいがこれは試作車に与えられた社内名称であり、陸軍に豆戦車Mk〇〇という名で制式採用されたわけではない。
一人乗り豆戦車の発展型はMk.I-Mk.IIIが開発された。これらはさまざまな走行装置の方式を検討したモデルで、基本的な構造は最初の一人乗り豆戦車と同じだった。MkI*とMk.IIIでは長距離移輸送時に履帯を外して車輪で自走するための装輪装軌併用機構が装備されていた。
一連の一人乗り豆戦車は少数が軍に買い上げられて豆戦車のコンセプトを検証するために用いられたが、乗員が一人では運転と戦闘を同時に行わなければならないという問題があった(戦闘中常時わき見運転である)。このため一人乗り豆戦車のコンセプトは放棄され、一人乗り豆戦車を拡大する形で二人乗り豆戦車が開発され、Mk.IV以降はの新シリーズの豆戦車になる。
二人乗り豆戦車(Mk.IV~VI)
一人乗り豆戦車の限界を認識したカーデンロイド社は一人乗り豆戦車の設計を流用しつつ乗員二人が左右に並んで座れるように車体幅を広げた新型の試作車を製造した。この試作車は技術的転換点として重要な車両だが社内名称は特に与えられなかった。
しかし狭い車内に二人が左右に並んで座る特徴的な姿から冗談めかして「ハネムーンタンク」という通称で呼ばれるようになった。
このハネムーンタンクは改良型としてMk.IVおよびMk.Vが開発され、英陸軍の審査の結果、Mk.Vを量産仕様にしたMk.VIが制式採用され、大量生産されることとなった。
この車両は正式には戦車ではなく戦車とは異なる新機軸の歩兵支援車両である「機銃運搬車 (machinrgun carrier)」として分類され、カーデンロイドトラクター社製の社内名称Mk.VIモデルであることから「カーデンロイドMk.VI機銃運搬車」という名で制式化された。
ビッカーズ社による吸収
カーデンロイドMk.VI機銃運搬車の量産契約獲得に漕ぎつけたカーデンロイド社であったが、同社は設計・試作を専門とする小さなベンチャー企業であり、軍用規模での量産を実現する設備は持ち合わせていなかった。
創業者のカーデン技師とロイド技師は、ベンチャー企業としての同社の役割はMk.VIの量産化により成功裏に終了したと考えて同社の事業をイギリスの兵器産業最大手であるビッカーズ社に、ビッカーズ社による吸収合併という形で売却することを決めた。合併はMk.VIの量産開始直前に行われ、合併後もカーデンロイド豆戦車の名は製品名として存続した。Mk.VI以降のカーデンロイド系豆戦車はビッカーズ・カーデンロイド豆戦車と呼ばれる。
カーデンロイドMk.VIの量産はビッカーズ社の生産設備で行われた。なおカーデン技師とロイド技師はビッカーズ社に移籍し、同社の技術者として兵器の開発に従事することになった。
ビッカーズ社はカーデンロイド豆戦車Mk.VIを英陸軍に納入するとともに新たな商材として国際市場に向けて売り出した。1920年代当時のビッカーズ社は1925年のインデペンデント重戦車を皮切りに輸出用戦車の開発・売り込みに力を入れており、カーデンロイド豆戦車はそのラインナップの最軽量端に位置付けられることになる。
ビッカーズ社がカーデンロイド社を買収したのはちょうど6トン戦車がFT-17軽戦車の後継として好評を博し、軽戦車に対して注目が集まっていた頃であり、国際的な販売網を持つビッカーズ社にとっても好都合な合併だった。
カーデンロイド豆戦車は「6トン戦車のさらに下」に位置する新型戦車として注目された。カーデンロイド豆戦車は貧弱さに目をつむれば6トン戦車より低コストで高速な新時代の兵器と見ることも出来た。その生産は6トン戦車よりも容易で、ビッカーズ社による技術指導も契約に付いていたため、第一次世界大戦直後のFT-17ブームに乗り遅れていた国にとっては戦車の生産技術を導入するまたとないチャンスだった。
戦車型豆戦車への発展
ビッカーズ・カーデンロイドMk.VI機銃運搬車は「豆『戦車』」とはよばれるものの、サイズの小ささは別にしてもオープントップ式(=天井がない)・無砲塔というFT-17などの当時の一般的な軽戦車とは似つかない構造の車両だった。このような仕様は、豆戦車が当初歩兵用車両として考案された経緯から歩兵科の要求仕様に基づいて設計された結果であった。この構造は歩兵車両として使う分には問題となりにくかった。しかしこの車両は機甲科の目に留まるところとなり、機甲科はこの豆戦車の開発プロジェクトに横槍を入れ始める、機甲科は機銃運搬車を基に、密閉式・砲塔式の通常の軽戦車と同様の構造にした、いわば「戦車型豆戦車」を開発するようにビッカーズ社に要請した。カーデンロイドMk.VII以降の設計はこの要求に基づいた、Mk.VI以前とは別コンセプトの戦闘車両に変貌していくことになる。
この要求に基づいて最初に設計されたカーデンロイドMk.VIIは、Mk.VI(以下便宜上「運搬車型豆戦車」と称する)とは大きく異なる密閉式・砲塔式の「戦車らしい」形態(以下「戦車型豆戦車」と称する)になっており足回りも大幅に変更されたためMk.VIまでと同シリーズとは思えないほど外見に変化が生じている。
続いて作られたMk.VIIIは武装の装備方式や走行装置の方式が中々決まらずに一台ごとに砲塔・武装・足回りが異なる試作車が大量に製造されていくことになる。これらは運用試験に使用するために「軽戦車Mk.I」として制式化されたが、量産や本格運用には至っておらず、試作車の域を出ないものであった。
このシリーズは参謀本部開発名「A4」が与えられた。以降その発展型として軽戦車Mk.I~Mk.IVが制式化され、少数ずつ試作された。これらは車体や砲塔の大型化・走行装置の変更などの細かい修正が加えられたが、基本的には軽戦車Mk.Iからあまり大きな進歩の無いものであった。
しかし軽戦車Mk.Vではこれまでの一人乗り砲塔から大型化した二人乗り砲塔に変更され、乗員が2人から3人に増えるという大きな変更が加えられた。軽戦車Mk.VI(同じMk.VIなので紛らわしいが、機銃運搬車のカーデンロイドMk.VIとは別物)は一連の戦車型豆戦車の中ではじめて量産段階に到達したモデルとなり、第二次世界大戦開戦時には1000両が部隊配備されており、大戦前半まで偵察車両として使用された。
ビッカーズ社は、英陸軍向けの軽戦車シリーズと並行して類似した戦車型豆戦車を輸出市場に投入したが、完成度の低い設計だったためMk.VIと比べてあまり売れなかった。このため運搬車型豆戦車と比べて戦車型豆戦車は輸出市場にあまり広まらなかった。「カーデンロイド系豆戦車を輸入・ライセンス生産」といった場合大抵は運搬車型豆戦車のカーデンロイドMk.VIのことである。
しかしMk.VIを輸入した国ではオープントップ・無砲塔式の豆戦車には限界を感じ、密閉式・砲塔式の戦車型豆戦車が各国で次々に独自開発される流れとなった。日本の九四式軽装甲車もこのタイプの車両であった。
戦車型豆戦車の開発計画(A4計画)からは軽戦車Mk.I(車内名称:カーデンロイドMk.VIII)が誕生することになるが、その過程で特徴的なスピンオフとして、ビッカーズ・カーデンロイドA4E11/A4E12水陸両用戦車が生まれた。これは、一連の戦車型豆戦車と同規模の車両に水上航行機能を付与した水陸両用戦車であった。このモデルには特別な名称は与えられておらず、A4計画の11・12番目の試作車であったことからA4E11/A4E12水陸両用戦車と呼ばれる(これはモデルの名称というより試作車の個体名である)。
当初は2両の試作車のみが存在したが少数が追加生産されてソ連に輸出され、T-37水陸両用戦車の原型となった。ソ連では運搬車型豆戦車のMk.VIのライセンス権を購入し、T-27豆戦車として量産を行っており、カーデンロイド系列の運搬車型と戦車型の両方を別個に導入して生産することになった珍しい例である。
各国での発展
ソ連
ソ連ではFT-17の国産化こそ成功したものの、その後の1920年代前半の国産戦車の開発が軒並み不首尾に終わったことから1920年代後半にはイギリスやアメリカからの技術導入に注力しており、その過程でカーデンロイド豆戦車のライセンス生産権を購入し、2つの異なる系列のカーデンロイド系豆戦車をライセンス生産している。
ソ連では運搬車型のMk.VIを輸入・ライセンス生産権を購入し、独自の改良を加えた運搬車型豆戦車であるT-27豆戦車を量産した。また、戦車型豆戦車の派生型であるA4E11/12水陸両用戦車も輸入し、後者はT-33やT-41といった試作型を経てT-37水陸両用戦車に発展し、大量生産された。
ポーランド
工業基盤の脆弱なポーランドでは、カーデンロイド豆戦車は戦車の生産技術習得にはちょうど良い教材であり、戦車の開発・生産は長らくカーデンロイド系豆戦車を中心に行われていた。第二次世界大戦開戦時にはカーデンロイド系豆戦車の派生型がポーランドの機甲戦力の数的主力だった。
ポーランドでは運搬車型のMk.VIを輸入・ライセンス生産権を購入し、独自の改良を加えた運搬車型豆戦車であるTK豆戦車シリーズを量産した。TKシリーズの主要型であるTK-3やTKSは密閉式・無砲塔式の構造で、運搬車型と戦車型の中間的な形態だった。TKSの一部車両は主兵装が20mm機関砲に強化され、豆戦車としては強力な火力を有するに至っていた。少数が試作されたTKW豆戦車では密閉式戦闘室に砲塔が付き、戦車型豆戦車の構造になったが、これはコンパクト過ぎて設計上無理があり、少数生産に終わっている。
TKWの失敗によりTKシリーズの限界が明らかになると、より大型化した軽戦車としてPZInz.140=4TP軽戦車が開発された。これは機銃を主兵装とする2人乗りの4トン級の戦車で、車体規模としてはカーデンロイド系戦車型豆戦車に近いものだった。またPZInz.140と並行して同サイズの水陸両用軽戦車であるPZInz.130軽戦車も開発されている。これらのカーデンロイド系豆戦車から脱却する動きは第二次世界大戦の開戦には間に合わず、開戦時でもポーランドの機甲戦力の主力は未だカーデンロイド系豆戦車に占められているという状況であった。
イタリア
イタリアではポーランドと同様の事情によりカーデンロイド豆戦車が重用された。イタリアは運搬車型のMk.VIを輸入したのちに独自の改良型としてL3豆戦車を開発した。L3豆戦車は、ポーランドのTKSと同様に密閉式・無砲塔式の構造を持ち、運搬車型豆戦車と戦車型豆戦車の中間的な形態になっており、火炎放射戦車型などの多くの派生形が開発された。1930年代末にはより大型な戦車の開発による脱豆戦車の動きも始まっていたが、第二次世界大戦初期の段階においては機甲戦力の数的主力はL3豆戦車で占められていた。
日本
日本では運搬車型のMk.VIを参考品として輸入したが、オープントップ・無砲塔形式の豆戦車には早々に見切りをつけてすぐに戦車型豆戦車の独自開発に着手している。国産の豆戦車としては九二式重装甲車・九四式軽装甲車・九七式軽装甲車が量産されたが、これらはいずれも戦車型豆戦車に相当する構造であり、運搬車型豆戦車は国産化しなかった。
このほかに海軍陸戦隊が6両を購入、「カ式機銃車」として上海で運用していた。市街戦を想定して独自に天板が設けられている。
チェコスロバキア
チェコスロバキアではカーデンロイド機銃運搬車Mk.VIを輸入し、CKD社の手によって独自改良型のTancik vz.33豆戦車が量産された。CKD社ではその後に戦車型豆戦車に相当するAH-IV軽戦車を輸出市場向けに開発するものの、その過程で豆戦車サイズの車両では限界があると認識し、早期に戦車型豆戦車から脱却し、より大型(10トン以上)の軽戦車の開発に進んでいる。
ドイツ
ドイツではカーデンロイド豆戦車が登場した時点ですでに類似したI号戦車の構想が進んでいたことからI号戦車の開発の参考用に少数を密輸した程度で大きな興味は示さなかった。I号戦車は「密閉式・砲塔式」「2人乗り」「主武装が機銃」という点ではカーデンロイド系戦車型豆戦車に近い車両だったが、設計上の繋がりは特になく、少し重装甲で重量も重かった。
フランス
フランスではカーデンロイドMk.VIを導入し、独自改良型のルノーUE運搬車を量産した。ルノーUEは豆戦車というより、輸送車・運搬車としての機能に重点が置かれており、車内からの遠隔操作で積み荷を投棄できるダンプカーのような荷台を装備していた。
ベルギー
ベルギーではビッカーズ社に開発を依頼したT-15軽戦車を少数運用している。T-15はビッカーズ社がイギリス陸軍向けに開発し、軽戦車Mk.IIIとして制式化されていたモデルを元にビッカーズ社がベルギー軍専用に再設計したもので、カーデンロイド系列の戦車型豆戦車に属する設計であった。
デンマーク
デンマークは密閉式・砲塔式の豆戦車に興味を示し、ビッカーズ社から参考品として型式不明の密閉式・砲塔式構造の豆戦車を借り受けた。
しかし試験の結果多数の問題が見つかったため、購入契約に至らないままビッカーズ社に返却している。
イギリス
イギリスでは密閉式・砲塔式のタイプで量産に漕ぎつけた軽戦車Mk.VIについては、大戦中期になるともはや豆戦車サイズの軽戦車は使い道がないとして後継車は開発されなかった。
一方で、歩兵向けに設計されたオープントップ・無砲塔タイプの機銃運搬車は汎用装甲輸送車として一定の評価を築いており、後継車としてユニバーサル・キャリア(別名・ブレンガン・キャリア)が開発されている。