概要
ポーランドの戦車事情
第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは1919年という早い段階での戦車部隊が編成され、軍の機械化にはとても熱心な国であった。
当初はルノーFT-17を使用していたが、農業国家であったポーランドは限られた工業力の中でルノーFT-17の改良とともに戦車の国産化にも取り組んでいた。
TKシリーズ
1929年にイギリスのカーデン・ロイド豆戦車Mk.VIを輸入し、同年にはこれを基にTK-1とTK-2の二種類が試作された。-試験の結果TK-2を基にした量産型が作られTK-3の名称で正式採用された。
1933年にはTK-3の1輌を改良して製作されたのがTKSである。TKSは戦闘室の拡大と装甲厚を8㎜から10㎜に変更、機関銃の装備方法をボールマウントに変更、ペリスコープ等を新たに、装備重量の拡大による足回りの強化を行っている。1939年から武装強化のために20㎜FKAwz.38機関砲に載せ替えたタイプに順次改修されたがドイツ軍の侵攻には間に合わず少数の改修にとどまった。
量産
1931年に生産が開始され1933年までに300輌が生産された。尚、1933年にはフィアット122Bエンジンに変更したTKFが生産されたが1934年からTKSが量産開始となった為18輌の生産にとどまっている。TKSは1936年までに248輌にが生産された。
実戦
TK-3およびTKSの初陣は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻である。ドイツ軍の快進撃にポーランド軍は対応しきれず有効な防衛戦闘を行えなかった。しかし、ドイツ軍に痛撃を与えた記録が残っておりそれは、クツルゼ戦闘団のワルシャワ突破作戦である。ヴィエルコポルスカ騎兵旅団第71機甲大隊のロマン・エドゥムンド・オルリック士官見習いがカンピノスの森での戦闘でドイツ戦車10両を撃破している。
ポーランドの敗北
1939年9月17日にソ連軍が参戦、27日に首都ワルシャワが陥落、28日にはドイツとソ連で条約が結ばれポーランドの分割を終えた。ドイツ軍とソ連軍によってTK-3及びTKSは接収されている。その数は不明であるが、少なくともドイツ軍では自軍装備として活用されたようである。
余談
コストダウンを目的に、機関や足回りはフォード製の自動車用を流用していた。
性能に不足は無かったが、旋回の際は片側の駆動輪にブレーキをかけて曲がる仕組みだった為、スピードが落ちてしまうという欠点があった。