新生ドイツ戦車、その第一歩
I号戦車(Panzerkampfwagen I)は、第一次世界大戦後のドイツで初めて実用化した軽戦車。1934年から1938年にかけて約1,600輌が量産された。
対歩兵・対戦車砲戦闘を主任務に想定していたらしく、主武装の7.92mm機銃×2挺は戦車を撃破するには到底威力不足で、最大装甲厚13mmも非常に貧弱、最高速度こそ平均的な37~40km/hに達したものの、総合的に見れば同時期の他国で運用される軽戦車と比較して劣った。
ただ、I号戦車の基本形態は後のII号戦車からVI号戦車にまで引き継がれており、第二次世界大戦期に大きな発展を遂げたドイツ戦車の原点的存在ということは確実で、戦車史上における重要度は高い。
農業用トラクターの開発
トラクター() | 仮称・農業用トラクター |
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時は戦間期の1920年代。世界各国は、第一次世界大戦末期に登場した新兵器「戦車」の開発を急速に進行させていた。
一方、敗戦国のドイツではベルサイユ条約による「戦車の開発・保有の禁止」にもかかわらず、「トラクター」という名目の下で数種類の戦車が開発されていたが、いずれも試作段階の域を脱することは無かった。
1930年代初期、秘密裏にドイツ再軍備の計画が進むにつれ、ハインツ・グデーリアンらによって新型戦車の開発案が計画されたが、何といっても当時のドイツは戦車の開発・生産および運用のノウハウが皆無。いきなりこの計画に取り掛かることは困難と予想された。
そこで開発されることとなったのが、当時としては簡易な設計で軽装の軽戦車。
...もとい、条約の批准を監視する仏英の目を逃れるための仮称「農業用トラクター」。
1934年に量産が開始されたこの車輌は、1935年のヒトラーによる再軍備宣言に伴いI号戦車の名を受け、新生ドイツ軍の装備する最初の戦車として表舞台に登場。
ドイツが近代的な軍隊の象徴ともいえる戦車を保有しているという事実は、周辺国にとって大きな衝撃となった。
運用・戦史
I号戦車A・B型は宣伝目的の軍事パレードなどで大々的に使用され、1936年には実戦評価試験を兼ねてスペイン内戦に送られたものの、非常に脆弱な装甲と貧弱な武装のため、特筆すべき活躍はなかった。
1937年、後継となるII号戦車が実用化。
これに伴い、I号戦車は退役が進められるはずだったが、十分な数の戦車をそろえられなかったドイツ軍は苦肉の策として第二次世界大戦においても本車を投入。
大戦前半の各戦域で使用された他、自走砲や対空戦車、指揮戦車、弾薬運搬車に改造された車輌の一部は終戦まで使用された。
余談
中華民国から日本まで
戦前の一時期、ドイツは日中戦争を戦う中華民国の国民革命軍に対して積極的な装備品の輸出を行っており、その中には10輌程度と少数ながらI号戦車A型の姿もあった。
日本軍は南京を陥落させた1937年12月ごろ、数輌のI号戦車を鹵獲。
靖国神社での一般公開では、友邦ドイツの兵器が敵の中国に存在することは不適切という理由で「ソビエト製」と偽って展示されることとなった。
特別仕様
- C型
VK.6.01の呼称でほぼ新規設計された偵察用高速戦車。40輌の少数生産に終わった。
最高速度は約80km/h、最大装甲厚30mm。
- F型
VK.18.01の呼称でほぼ新規設計された重装甲軽戦車。30輌の少数生産に終わった。
最大装甲厚は80mmと、当時のあらゆる対戦車兵器を無力化しうるほどだったが、これは独仏国境の要塞地帯であるマジノ線突破の際、弾受けの囮役となる車輌として開発されたため。
ただし、マジノ線は有名な電撃戦によって無力化されたため、F型が特筆すべき活躍を見せることは無かった。
登場作品
最終章で青師団高校の装備として登場したが、劇中では撃破された残骸のみが映り込んでいた。
スピンオフ漫画「リボンの武者」、「プラウダ戦記」にも登場している。
シリーズ皆勤の戦車。
初代PS「コンバットチョロQ」にはB型が登場。ステージ中には登場せず、バトルアリーナ「ライトクラス」の一番手として登場した。
PS2「新コンバットチョロQ」には初期選択可能な戦車としてA型が登場。こちらもステージ中には登場しないがゲーム中最軽量の戦車ということもあってエキスパートアリーナ「スピードウェイ」で活躍できる。
GBA「コンバットチョロQ アドバンス大作戦」では「I号戦車」として登場。「ツインマシンガン」と「汎用プロトタンク」で再現可能。
パニック(混乱)効果を持つツインマシンガンと、機動力の高い汎用プロトタンクを備える偵察向け戦車。しかしツインマシンガンは最小射程が2であり隣接した敵に攻撃できないという弱点を持つ。
敵タンクとして登場する際にはアイアンシールドを装備して防御を補っている。