概要
開発
フランスは第一次世界大戦中にFT-17を生み出し、これを大量に保有していたが、1920年代半ばになると、その旧式化は明らかとなり、1933年8月に新型軽戦車整備計画に基づきルノー社とオチキス社の両社による競争試作が行われた。ルノー社は『ZM型』をオチキス社が開発したのが『オチキスH-35』であった。1935年7月に行われた審査の結果、ルノー案であるZM型が『R35軽戦車』として正式採用されることとなった。
特徴
R35は、基本的にはルノー社が騎兵科向けに開発していたAMC34騎兵戦車を歩兵科の要求仕様に合わせて改設計したものである。歩兵戦車では機動性より防御力が重視されたので、装甲は原型の2倍以上となる45mmに強化され、その代わりにエンジンをj小型・小出力のものに変更して・乗員を3人から2人に減らすなどして車体をコンパクト化し、装甲増加による重量増を相殺したデザインとなっている。このため、重量はAMC34とほぼ同じでありながら、装甲は2倍、最大速度は半減という特性の大きく異なる軽戦車となっている。走行装置はAMC34/35と同じシザーズ式サスペンションを採用、また、新型ギアとしてクレトラック式差動歯車システムを採用することで良好な操作性を得られている。また、装甲も最大装甲圧が45㎜と当時の戦車としては優れた防護能力を有していた。
砲塔はピュトー工廠が開発した標準規格砲塔である「APX-1」を使用していた。武装は初期型は APX SA18 21口径37㎜身であった。これはFT-17の主砲としても使用されていたもので、第一次世界大戦期からほとんど進歩の無いものであった。この砲は砲弾が軽い上に初速も低く、対戦車能力は非常に限定的だった。貧弱な主砲は本車の有用性を制限する要素となった。1930年代後半に主砲は33口径37㎜砲となり対戦車能力の強化がなされている
カタログスペック上は、ドイツ軍のII号戦車とも渡り合えるが砲塔は一人乗りであるため車長が戦闘指揮に専念できずまた、無線機の標準装備がなされていないため連携した戦術を行うのが難しかった。速度も重量が重いため速度が21㎞/hに過ぎず、ドイツ軍のIII号戦車の速度は32㎞/hであったことを考えると機動戦にも少々問題があったと思われる。
生産
1935年に制式採用となって以降は大量生産がなされ、第二次大戦勃発直前には24個戦車大隊に約1000両が配備されていた。また、ポーランドやトルコなどにも輸出されており全体で千数百両が生産されている。
実戦
1940年の対独戦に実戦投入されるが、無線機の有無や速度の遅さ、砲塔が一人乗りなどの問題のほかに被弾時の衝撃によって装甲板が撓んだ場合装甲板を結合しているリベットが剪断されてしまい戦闘力を失ってしまうなどの問題により実戦ではほとんど有益な活躍ができなかった。
ドイツ軍のR35
1940年6月22日のフランス降伏後多くのR35軽戦車がドイツ軍に接収され、さらに一部はイタリア軍にも供給されている。ドイツ軍では接収したR35軽戦車は『Panzerkampfwagen 35R 731(f) 』の名称が与えられそのほとんどが砲塔のキューポラを外してハッチに改修し、装備をドイツ軍仕様に改めた上で二線級戦車として使用した。7.5cm対戦車砲PaK40や10.5cm軽榴弾砲leFH18などを搭載する自走砲に改造された車両も多く、西部戦線で連合軍と砲火を交えている。
登場作品
- 鉄路の闘い
ドイツ軍装甲列車に積載されている。
- ダンケルク
1964年の映画。原題は「WEEK-END A ZUYDCOOTE」。ズイド海岸に放棄されていた。
「激闘!マジノ戦ですっ!!」でマジノ女学院の戦車として登場。主砲を33口径37mm砲に換装したという設定。
最終章でもマジノ女学院が少なくとも1両を運用していたようだが、画面に映ったのは撃破された残骸だけだった。
初代PS「コンバットチョロQ」に登場。
作戦2「激震の地雷原」に登場。序盤の敵タンクとしてそこそこな性能。B1bisと一緒にステージ開始早々現れて交戦する。