概要
1869年10月2日~1948年1月30日
本名は「モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)」。「マハトマ」とはサンスクリット語で「偉大なる魂」という意味でインドの詩人として名高いタゴールが贈った名。日本語では「マハトマ・ガンジー」とも表記する。インド本国では親しみを込めて「バープー」(父親の意味、「お父さん」「お父様」という愛称)とも呼ばれる。
生涯
イギリス植民地下のインドの地方藩王の宰相の家に生まれたが、少年時代は融通の利かない性格で、小学校の成績は悪く、おまけにヒンドゥー教の戒律を破ってタバコを吸う、肉食はする、自宅の使用人から金を盗むなど、後の聖人的なイメージからはかけ離れた、年齢相応の非行も行った少年だった。
しかし、肉食をした日のうちに食したヤギが夢に出てきて罪悪感に苛まれ、父に懺悔をするなど、後の不正や自分の至らなさに対する厳しさを当時からも持っていた。
13歳で結婚し、18歳にロンドンへ留学して弁護士となった。1893年、イギリス統治下の南アフリカで弁護士業を始めたが、列車の一等車への乗車を拒まれて荷物と一緒に放り出されてしまい、これをきっかけに人種差別への反感を覚え、差別撤廃に向け人生を歩み出した。
トルストイの小説や聖書の影響で「非暴力」を考え出し、南アでの人種差別撤廃運動を展開して、投獄を繰り返しても続けて一定の成果を見せ、1915年にインドに帰国した。
イギリスに将来的にインドの自治制を求め、第一次世界大戦でのインド人志願兵運動にも協力したが、イギリスに約束を反故にされてしまい、宗主国に協力を求めない独立運動を信念を抱いた。
1920年にインド国民会議に参加して「不服従運動」を提唱。インド製綿製品を推奨するイギリス製綿製品不買運動を展開し、投獄されても運動を続け、1930年にはイギリスによる塩の専売や税に反対する「塩の行進」を実行。この時、治安兵士にどんな暴力を受けても反撃せず逃げぬことを参加者に求め、運動は拡大した。
1940年代には第二次世界大戦が起こり、「大東亜共栄圏」を掲げる日本にスバス・チャンドラ・ボースやA.M.ナイルが協力していたが、ガンディーは覇権主義的な日本の行動を疑問視し、これに協力しなかった。
1945年に日本が連合国に降伏して第二次大戦が終結すると、戦勝国イギリスは国力が衰退し、植民地管理が困難となった。日本軍に協力したインド人将官が戦犯裁判にかけられた事を機にガンディーはインド独立運動の号令を発し、1947年8月15日、イギリスはインドの統治権放棄と独立を認め、ガンディーはジャワハルラール・ネルーとともにインド独立を宣言した。
しかし、インド内でのイスラム教徒がヒンドゥー教徒への反感を強め、イスラム教国家・パキスタンが分離独立してしまった。ガンディーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を訴えて、断食で抗議したが、ヒンドゥー教側からは譲歩しすぎていると批判も起こり、ニューデリーの自宅前で狂信的なヒンドゥー教徒が撃った銃弾により暗殺されてしまった。享年78歳。
火葬されて遺灰はガンジス川へ撒かれた。通常インドでは火葬された遺灰は川に流されるため墓地は無いのだが、せめて場所だけは残しておこうとして、彼を祀った『ラージ・ガート』が造られた。
彼の生き方を表すかのような質素な作りとなっており、敷地の中央には黒大理石の慰霊碑がある。
思想
非暴力主義
ガンディーが掲げた「非暴力」はヒンドゥー教・仏教・キリスト教にも通ずる思想とし、暴力の無意味さを訴えてきた。非暴力は「無抵抗主義」とは異なり、暴力に対して暴力で抵抗せず、デモ、交渉、不買運動、納税の拒否、地場産業の復興など相手に経済的・政治的出血を強いる目的行動をやり続けることで抵抗するとして、そのためなら死をも恐れなかった。早い話ガンディーに奴隷の平和という概念はないのである。
ガンディーの非暴力主義は度々理想主義的発想とも見做される。しかし、その根源には、ガンディーが生きている間に起きたインド各地での武力を用いた独立闘争が全て失敗に終わっているという歴史的背景もあり、武力では勝利できないという考えはガンディーなりの現実主義的な結論であった。
ガンディーは非暴力主義を独立という重要な目的を果たすための手段であり、非暴力主義の目的化や、単なる従属は誤りとしていた。「暴力と臆病どちらを選ぶか」という問いに対しては「暴力を選ぶ」とも答えており、暴力を非暴力的行動がとれない場合の最終手段として否定はしなかったが、独立闘争における暴力に対する非暴力の優位性については一貫した考えを持っていた。
禁欲生活の徹底を推奨し、西洋の近代的な科学技術を否定し、自生活でも菜食主義で通したが、その徹底過ぎる禁欲と、反近代文明的な姿勢に批判も起こっていた。
カースト制
ダリット、アウトカースト(不可触民)と呼ばれる人々を「ハリジャン(神の子、ハリとはヴィシュヌの異名)」と呼んだことでも知られる。ヒンドゥー教徒であってもヒンドゥー寺院に立ち入れないばかりか、井戸や貯水池の利用を拒否され、見れば目が汚れるとされ、居場所を上位カーストに教える為に鈴をつけさせられる、という屈辱の扱いを受けてきたのがダリットであるが、ガンディーのダリット観は言うなれば四カーストの下の第五カーストであった。
ガンディーは過酷な差別に悩まされていたダリットの地位向上にも熱心に取り組んでいたが、その源泉であるカースト制度は何千年もインド社会に根付いた不可分のものであると考えており、制度の廃止には消極的だった。また、ガンディーのカースト観は複雑かつ独特で、「ヒンドゥー教はカースト間の会食と通婚を思いとどまらせるのに最も力を注ぐものである。(中略)通婚と会食の禁止は魂の急速な進化に肝要である」と階級間の分離を賛美する発言もしていることから、盟友のネルーも「なぜあれだけダリットを救おうとしている人がこのような発言をするのだろう」と戸惑われたこともある。
このため、ダリットからは嫌悪する人々も多い。不可触民解放運動とインド仏教の指導者ビームラーオ・アンベードカルは「最近ではガンディーが現れ、我々をハリジャン(神の子)と名づけてくれました。最悪の悪ふざけとして私たちはもちろん拒否しています。我々が“神の子”なら、ブラーミンは何と呼んだらいいのか、“悪魔の子”とでも呼ぶべきなのか」議会でこのような強い言葉で「ハリジャン」呼称を非難し、またガンディーが当初弁護士でありながら社会活動家兼思想家として、父がヴァイシャでありながらバラモンの職業である宰相職についている矛盾を指摘した。
ガンディーはこうした問いに対し「不可触民は神の子なのであり、わたしたちは悪魔の子である。なぜなら彼らが額に汗し、手を真っ黒にして働いている間も、わたしたちはその人々を迫害して喜んできたからだ。わたしたちは、彼らに対する罪を心から悔い改めることによって神の子になれるのだ」と述べている。
ダリットの代表であるアンベードカルと、宗教と階級を越えた全インドの統合を思考したガンディーの溝は埋まり切らず、ついにアンベードカルは分離独立選挙に出ようとするが、ガンディーはアンベードカルに対し粘り強く説得と過酷な断食を行い、自分の命を人質にしてどうにか独立を断念させた。
菜食主義
ガンディーはロンドン時代に肉食を試したのを最後に、障害を菜食主義者で通した。彼の考えでは、菜食主義は不殺生のみならず必要最低限の栄養を取ることができる合理的な食生活であった。
ガンディーの菜食主義は世間一般で連想されるヴィーガニズムのような、徹底した動物由来の食物を排除するものではなく、山羊の乳とそれから作られるギー(インドで広く使われる食用油)や蜂蜜は口にしており、「実を着けて地面に落とさないもの」「殺されるのを嫌がるもの」を摂食の対象外としていた。
禁欲主義
禁欲主義は、ガンディーにとって生涯重要な課題であり続けた。若いころに、父の看病を母に代わってもらった間に妻と性行為をしてしまったために死に目に会えないという失態を犯して以降禁欲主義を志向し、30代後半には厳格な禁欲主義者となった。
性欲のコントロールの他に、週に一度何も話さない日を設けたり、世界情勢に試みだされないよう新聞の購読をしないといった禁欲主義も実践していた。
評価
現在、人類史上有数の偉人に数えられ、インドではジャワハルラール・ネルーに並ぶ偉人に称えられているが、ガンディーの死後、ネルーが採った近代化政策はガンディーの思想と全く相反したものであり、ガンディーの非暴力思想を高く評価しつつも、反近代文明は非現実的という考えを持つ人は多い。
ガンディーの非暴力思想の影響を受けたのが、アメリカで黒人の地位向上と公民権運動を展開したキング牧師である。
ヒンドゥー教徒イスラム教と融和思想については、NHKでもガンディー『獄中からの手紙』(森本達雄訳)の一部が紹介された(参考)。小中学校の教科書でも一部が改変されることはあるが、概ね以下のような内容となる。
あるムスリムの男が「俺はもうすぐ地獄に落ちる。ヒンドゥー教徒の男の子を殺した。自分の大切な息子をヒンドゥー教徒に殺されたからだ」とガンディーに打ち明けるが、ガンディーは「地獄に落ちない方法を教えましょう。あなたはこれから、孤児になった男の子を自分の息子として育てなさい。ただしその男の子はムスリムによって殺されたヒンドゥー教徒であることです。そしてその男の子をヒンドゥー教徒として育てなさい。その男の子が立派に成長した時に、あなたは地獄に落ちなくなります」と助言した。
ヒンドゥーとイスラムの融和を信じていたガンディーならではの発言だが、当時の敬虔なイスラム教徒からしてみれば「ヒンドゥー教徒でもないくせにヒンドゥー教徒を育てることでヒンドゥー教徒を殺した罪を埋め合わせることができるものならやってみろ」という、ほとんど皮肉のような助言であった。またこのような融和思想はヒンドゥー原理主義者からも裏切者扱いされるなど、格好の攻撃材料となった。
名言
- 力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから
- わたしの信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。(中略)しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。
この一説は冒頭部分のみアクション映画『特攻野郎Aチーム』での1シーンでも語られている。
余談
ガンディーの死後、インドにおける政治的な実権と象徴はジャワハルラール・ネルーとその子孫が握った。ネルーの子孫は代々首相を輩出し、またネルーの父親なども著名であったため、いつしか「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれることになった。
これはネルーの娘でやはり首相となったインディラ・ガンディーとその子孫がインディラの夫側に合わせてガンディー姓となったからであり、マハトマ・ガンディーとの血縁関係があるわけではない。これもネルー家の歴史を調べようとすると比較的早い段階で飛び込んでくる情報であろう。
ただしこの話には裏がある。インディラがガンディー姓となったのは前述の通り夫の姓だからであるが、その夫であるフィローズ・ガーンディーの姓の綴りは出生時「Ghandy」だったのをマハトマと同じ「Gandhi」に変更している。それには政治的な意図もあったとされる。何があったのかについては推して知るべきであろう。
マハトマ・ガンディーの死後、ネルーもまた、その名と功績を利用しなかったと言う訳では無い。というより、ガンディーの志を受け継ぐと宣言して首相となったわけである。「ネルー・ガンディー王朝」の名は、「偶々ガンディー姓が被っている」というだけでは説明出来ない意が含まれていると言えよう。