概要
第二次世界大戦終結後に行われた、東京裁判(極東国際軍事裁判)にて、判事を行った。『パール判事・博士』ともよく呼ばれる。しかるべき東京裁判では日本の全面無罪を訴え続け、裁判終了後も戦前・戦中の歴史について研究し、何度も来日し日本人に対し極東裁判の問題性を主張したことで知られる。
日本の戦争犯罪に関して、戦争犯罪に関する証言者の話の矛盾や、事実確認の難しい部分があることを指摘し、パール判事自身は全面的に無罪を言い渡している。事後法的な問題や平和に対する罪が適用されるならば原爆投下を決定した某国家元首も被告の席にいなければ法の平等の精神が損なわれるということを筆頭に、侵略戦争と自衛戦争の区別をどう定義するのかや侵略戦争の責任を国家ではなく個人に求めることや裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性等、その他諸々の問題が極東裁判にあったため、こんな法廷で戦争犯罪か否かを冷静に分析し、被告に妥当な刑量を判断を下せるわけがないという法律家としての信念に基づき、「無罪」としたのである。
なのでもしパールが提唱したように中立国出身者のみで裁判官や判事で構成された法廷であったならば、平和に対する罪などの事後法を除いた日本軍の罪状に対し相応の有罪判決を下すつもりであったと思われる。そのため、自分の極東裁判に関する批判が「日本無罪論」というタイトルで日本で書籍化され、非常に複雑な心境になったというエピソードものこっている。
また、このパール判事の見解を日本とインドの深い絆を表すエピソードだと主張する者もいるが、彼の意見書は、インド政府の考えと必ずしも一致していたわけではなく、特に初代首相であるネルーとは裁判の頃より対立していた。
一応、当時から現代にいたるまでパールの個人的見解であってインド政府の見解ではないという姿勢をインドは今も崩してはないが、インドの首相が日本との友好を象徴的出来事としてパール判事の行為を好意的にあげることが少なからずある。
靖国神社境内の遊就館の脇や、霊山護国神社内に、パール判事の顕彰碑がある。
経歴
1886年、インド・ベンガル地方にてベンガル系の一族の下に生まれる。
1941年カルタッタ高等裁判所判事、1944年カルタッタ大学総長、1946年インド代表として東京裁判判事に就任。東京裁判終了後、国連国際法委員会委員、同委員会委員長などを歴任。
1967年、自宅で死去。享年82歳。
エピソード
- 東京裁判時、裁判官席に着く前に必ず被告席のいわゆる戦犯の方々に向かい合掌し、法廷の人々はその敬虔な姿に少なからず感銘を覚えたという。
- 誤解されがちだが、パール判事は東京裁判のあり方を批判しただけであり、日本への同情により意見書を出したわけではないことを留意しておきたい。日本各地を訪問するなかで「同情ある判決」へのお礼を言われると、厳しい態度でそれを否定していたという。パール判事は日本軍のアジアでの残虐行為も、不必要な時期に原爆投下を行ったアメリカも批判しており、国際法的根拠にもとづいての主張だった。
- 法律の基礎は「真理(リータム)」であるとしばしば語っており、法律は神からのたまものであるが故に尊く、その前に人は平等なのであると説いた。
- 『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)の著者である田中正明氏は、パール判事と深い交流があり、特に田中氏が自身の意見書の日本語訳を出版すると聞いたときには、そのタイトルや田中氏の主張に対して不服な部分もあったようだが、彼のことを「マサアキチャン(正明ちゃん)」と呼び、「お前は永久に私の子供だ」とまで言ったことのあるほど非常に親密な関係だったらしい(『日本無罪論』の田中氏本人のあとがきより)。
- 近年に入り、中島岳志氏や中里成章氏など、田中氏の学説に反論する内容の論文も発表されている。しかし、その中でも中島氏の主張内容と検証方法をめぐり、言論界で大きな論争を巻き起こっており、特に小林よしのり氏とは激しいバトルが繰り広げられたことは大きな話題になった。
- ラダ・ビノード・パールが党員だった政党がインド中央政府の連立与党の1つとなった時に、所属政党の党首から閣僚候補として推薦された事が有る。
- ただし、当時の第一与党から、この推薦は却下された。閣僚就任が却下された理由は「東京裁判におけるラダ・ビノード・パールの主張は個別の事案に関しては見るべき点も有るが、全体としては余りにお粗末」。
2014年の日印首脳会談にて
2014年9月1日において、日本の安倍晋三首相とインドのナレンドラ・モディ首相による日印首脳会談が行われたところ、 日本による政府開発援助(ODA)を含む約3.5兆円規模の投融資の実施や、原子力協定の妥結に向けた協議の加速、インド海軍と日本海上自衛隊の海上共同訓練の定例化などを盛り込んだ「日インド特別戦略的グローバル・パートナーシップのための東京宣言」と題する日印共同声明に署名し、両国関係を「特別な戦略的グローバルパートナーシップ」に格上げすることで一致し、事実上の"準同盟国"と位置づけた。
この会談に伴ってモディ氏は、会談前の8月30日にすでに初来日しており、京都市の京都迎賓館で安倍首相の主催する非公式の夕食会に招待され、夕食会では東京裁判(極東国際軍事裁判)で、東條英機首相をはじめとした被告全員の無罪を主張したインド人判事のラダ・ビノード・パール博士について語り合った。
モディ首相は「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。パール判事が東京裁判で果たした役割は我々も忘れていない」と述べ、その功績を安倍首相と共に称え合った。
翌日には二人は共に真言宗の仏教寺院である東寺を訪れており、大日如来像の前で合掌した。
名言
パール判決書
「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」
来日時の講演での言葉
「私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。」
原爆死没者慰霊碑を訪れた際の言葉
「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない。」