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阿南惟幾

あなみこれちか

日本の軍人。太平洋戦争当時、陸軍大将として活躍し、1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。
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経歴編集

生い立ち編集

1887年、大分県竹田市玉来出身であった父の阿南尚と母豊子の間の8人兄弟の末っ子として生まれた。


1900年、9月阿南は広島陸軍地方幼年学校に入学、卒業後は中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(18期)に入校。


1905年、陸軍士官学校を920名中を第24席の成績で卒業し、同時に陸軍に入隊。1906年に希望していた歩兵第1連隊に配属。その後は陸軍大学校に進学し、在学中に中隊長(大尉)に就任。同時期に阿南は竹下平作陸軍中将二女の綾子と結婚している。竹下は阿南の歩兵第1旅団時代の上官であり、幼年学校受験準備中の竹下の長男宣彦の家庭教師を引き受けるなど親しい間柄であり、綾子ともその頃からの顔なじみで、見合いする必要もなく縁談はまとまった。結婚したときの年齢は阿南が29歳、綾子が17歳であった。その後、1918年に同校を卒業し、卒業後は陸軍参謀本部に所属。


軍人時代編集

1929年、8月1日に侍従武官に就任、当時の侍従長は後の内閣総理大臣の鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終戦にて死ぬまで変わるところがなかった。侍従武官として昭和天皇とも親交を深め、なおも昭和天皇のそばにいる機会が多くなって、阿南が上奏に行くと、昭和天皇は椅子を準備させて長い時間話し込んだり、阿南のことを親しげに「あなん」と呼ぶようになった。


1930年、大佐に昇進。1933年、8月近衛歩兵第2連隊長に就任したが、その時期は五・一五事件によって犬養毅が暗殺された直後であったため、クーデター防止も兼ねて阿南は青年将校の精神教育に特に注力した。五・一五事件については軍内でも「美挙」など前向きに評価する向きもあり、公判中に減刑嘆願書が全国から殺到するなど、決起した青年将校たちに同情的であった。


1934年8月、東京陸軍幼年学校長となった。だがこの当時、陸軍幼年学校長は閑職扱いされており、阿南のような陸大卒の大佐が行くようなポストとは見られていなかった。これで阿南の出世はこれまでと見る者が多かったが、阿南の生徒監時代の熱血指導ぶりを知る元教え子たちや、阿南の部下思いの性格を知っている知人、友人らは「陸軍最高の人事だ」と褒め称えており、阿南自身も非常に大切な役目であると張り切っていた。阿南はおりにふれて生徒たちに訓話を聞かせた。その内容は「その日のことはその日に処理せよ」「自分の顔に責任を持て」「難しい問題から先に手を付けろ」などと平凡なものであったが、阿南の熱意もあって生徒の心に長く残るものとなった。


1936年2月26日、二・二六事件が発生。少将に昇進間も無く自身も含め鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。軍や世間は五・一五事件のときと同様に叛乱軍将校たちに同情的であったので、その世情が生徒らに蔓延することを危惧した阿南は、生徒たちに軍規の尊厳性と軍人の天皇に対する絶対的服従を教え込むため、敢て自ら普段の温厚な人柄からは想像できないような厳しい口調で幼年学校生徒へ訓話している。「これは軍にとって、非常に悪いことだ」という言葉から始まり、怒りで顔を紅潮させた阿南は「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判。そして「叛乱軍将校は軍人として、許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。己の非を悟り切腹して陛下にお詫びすることだ」とも言い放った。この訓示を聞いていた生徒たちは、阿南が陛下のお心を悩ませた将校たちに対して憤慨していると思い、阿南の天皇に対する敬慕の情を痛感させられたという。


陸軍省時代編集

1937年、陸軍省人事局長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。阿南が人事局長時代に力を入れたことのひとつが将校の不足解消であった。不況による軍事費削減で日本陸軍は現役将校不足に悩まされており、阿南は陸軍次官の梅津美治郎中将が呆れるほどに、各方面に将校不足を説いて回り、ついには800名増員を実現している。1938年、陸軍中将に昇進。7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。同年11月9日第109師団長に親補。


1939年6月には、山西軍主力殲滅作戦を開始、わずか5個大隊の兵力で、山西軍4個師団を包囲してこれをほぼ殲滅してしまった。この時の殲滅戦は、兵力不足のなかで兵力が勝る敵軍を包囲殲滅した理想的な作戦例として、その後に参謀本部が作成し、教材として使用される殲滅戦例資料にも取り上げられた。その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝山西省路安城も攻略した。作戦中、阿南は激戦地では第一線に立って作戦を指揮し、第109師団は約10倍の203,000名の中国軍と交戦、うち18,400名を戦死させて、2,002名の捕虜を得たが、捕虜のなかには山西軍の師団長も含まれていた。一方で第109師団の戦死者は231名、戦傷者は537名であった。


陸軍次官時代編集

1939年(昭和14年)10月に陸士同期の山脇正隆から譲られる形で陸軍次官就任。だが、この頃の陸軍省と参謀本部は、前任の東條英機中将と参謀次長多田駿中将の対立もあって関係が悪化しており、阿南と東條との確執が度々起きていた。その後、1940年7月22日に発足した第2次近衛内閣で東條が陸軍大臣となったが、東條は阿南の実務能力を高く評価しており、東條の要請もあって陸軍次官留任となった。それでも東條はおおらかな阿南とは対照的に神経質な性格であり最初から合わなかった。やがて、東條はソリの合わない人物を遠ざけ、息のかかった人物を重用する恣意的な人事を行うようになり、阿南と対立するようになっていく。そして阿南自身も遂に東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていった。


その後、第11軍司令官に任命され、同時に太平洋戦争が勃発。第11軍は歩兵45個大隊の大兵力で長沙を目指して進軍したが、阿南の懸念した通り東部萬洋山系の側面陣地から戦力に勝る中国軍の攻撃を受けて苦戦を強いられた。それでも第11軍は多数の中国軍部隊を撃破しつつ長沙に達した。激戦のうえで長沙を占領した第11軍であったが、阿南は市街に突入させる部隊を最小限に抑えて、市街地の破壊や食料物資の略奪を厳禁した。作戦目的は中国軍に打撃を与えることであり、第11軍は主敵であった第74軍を撃破、54,000人の遺棄死体を確認、4,200人の捕虜と大量の兵器弾薬を獲得するといった大戦果を挙げた。


陸軍大将就任編集

1942年7月、第2方面軍司令官に任命され、翌年の1943年5月陸軍大将に昇進。第2方面軍は南方の戦局不振に伴い、1943年10月30日、豪北方面(オーストラリアの北方に位置するオランダ領東インド東部)に転用された。司令部はミンダナオ島のダバオに置かれ第19軍と新設の第2軍を指揮することになり、豪北からニューギニア西部の広い戦域を担当することとなった。やがてラバウルの第8方面軍の指揮下で悪戦苦闘してきた第18軍と第4航空軍も指揮下に入ったが、敗走続きで多くの戦力を失い疲弊しきった軍は、ダグラス・マッカーサー大将率いる西太平洋連合軍の飛び石作戦に対抗できなくなっていた。阿南は要衝のウェワクを防衛するため第18軍主力に移動を命じたが、悪路で輸送手段もない第18軍が苦労して移動している途中に、マッカーサー率いる連合軍はウェワクを飛び越して、良好な港湾があり日本軍の補給基地となっていたホーランジアと日本軍の飛行場があるアイタペに上陸して占領してしまった。


阿南はホーランジアの奪還を主張し、サルミにあった第36師団主力を奪還作戦に投入しようとしたが、大本営や南方軍に制止された。阿南は度々ニューギニア戦線で全力を集中した反撃作戦を提案したが、そのたびに大本営から「消耗戦にひきずりこまれる」と制止され続けて「戦闘に勝てなくて、戦略に勝てるはずがない。いわんや戦争をや」と歯がしみすることとなった。第2方面軍は1944年4月15日に大本営直轄から南方軍の指揮下に入り、阿南の作戦指揮はさらに制約を受けることとなった。


やがて連合軍はきたるマリアナ諸島攻略支援のためニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要と見られていた。阿南も、常々「ビアク島は空母10隻に値する」と主張しており、自らビアク島の地形を確認して、地の利を活かした陣地構築の指示を行っている。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。阿南の指示によって、巧みに海岸を見下ろす台地に構築された洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした[77]。第41歩兵師団師団長ホレース・フラー少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで海軍に対して恥をかくと考えたマッカーサーはクルーガーを通じてフラーを急かした。


阿南はビアク島が攻撃を受けたときの増援として、前々から計画していた海上機動第2旅団のビアク島への海上輸送を海軍に要請、海軍もビアク島の価値を認めて、6月2日に左近允尚正少将率いる輸送艦隊と護衛艦隊からなる渾部隊でビアク島に増援を送る渾作戦が開始された。日本艦隊の接近を知ったマッカーサーは、既に空母15隻を基幹とする機動部隊はマリアナに向かっていたため、手元にあった重巡洋艦が主力の艦隊で迎え撃つこととしたが、連合艦隊司令部は、渾部隊がB-24に発見され追尾されていたことで航空攻撃を懸念したこと、また出撃してきた連合軍艦隊をアメリカ海軍の空母機動部隊と誤認したことで、6月3日夜に作戦を中止して渾部隊にソロンへ向かうよう命じた。 作戦の順調な進行を聞いて成功を疑わなかった阿南はまさかの作戦中止の報告を受けると激昂して「渾作戦中止は3日11時頃B24に発見されし為と」「煮湯を呑まされし感あり」とその日の日記に記述している。


その後も阿南の求めで渾作戦は継続されたが、規模を縮小されたあげく輸送に失敗し、最後はマリアナに接近するアメリカ軍機動部隊を発見した連合艦隊があ号作戦の好機と考えて渾作戦を中止した。阿南は海軍から渾作戦中止の連絡を受けると「統帥乱れて麻の如し」と憤慨したが、最終的には「大局的にやむを得ない」と諦めて、独力でビアク島を救援しようと一個大隊を増援に送っている。ビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、クルーガーの命で早期攻略のため、日本軍陣地を正面攻撃していた上陸部隊に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーは、マッカーサーの意を受けたクルーガーから上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長まで解任されることとなった。アメリカ軍がビアク島の飛行場を全て利用できるようになったのは8月に入ってからであり、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかった。しかし、ビアク守備隊敢闘の甲斐なく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった。阿南はビアク守備隊指揮官葛目の戦死の報告を受けると「惜みても余りあり。真実ならん」「謹みて非凡なる奮闘勇戦を感謝し、冥福を祈る」と日記に書いている。


その後マリアナも奪われ、9月15日には、セレベス島マナドに前進していた第2方面軍司令部の目と鼻の先にあるモロタイ島にもマッカーサー率いる連合軍が侵攻しモロタイ島の戦いが始まった。この戦域を護る第32師団の主力はハルマヘラ島にあり、モロタイ島には1個大隊程度の戦力しか置いておらず、たちまち島の主要部は占領され、天然の良港と急遽整備した飛行場によって連合軍レイテ作戦の前線基地となった。阿南はたびたびハルマヘラ島から逆上陸部隊を送り込んで、モロタイ島基地の使用妨害を行ったが、戦況に大きな影響はなく[87]、マッカーサーはレイテ島に上陸し、戦局の中心はフィリピンに移った。阿南らが護る西部ニューギニアや豪北方面は中央から見捨てられて、局地的な戦闘が続いているが、戦局の挽回などは全く望めないような状況となっていった。


その後、1944年12月に航空総監兼航空本部長への異動を命じられた。だが、着任して間もなくに硫黄島の戦いが始まり、いよいよ連合軍が本土に迫ってくることとなった。


陸軍大臣就任編集

太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)4月、枢密院議長の鈴木貫太郎(元侍従長、元海軍軍令部長、元連合艦隊司令長官)に陸軍大臣へ大命降下された。


しかし、当時阿南自身は「自分は空中で討死する。絶対に大臣などはお断りする」と陸軍内の阿南を陸軍大臣に推す動きに拒否感を示していた。そこで鈴木は前陸相の杉山元・元帥に対し単刀直入に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と申し出た。そこで杉山は三長官会議で協議し、阿南を入閣させるため以下の3つの条件を提示した。


1.飽くまでも大東亜戦争を完遂すること

2.勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること

3.本土決戦必勝の為、陸軍の企図する施策を具体的に躊躇なく実行すること


鈴木はこの条件を承諾し、これをもとに阿南と面談し、陸軍大臣就任を直接要請した。それでも陸軍大臣就任に難色を示していた阿南であったが、敬愛していた鈴木の要請を断ることは出来ずその場で快諾している。鈴木はさらに、「早期講和」のため、首相の東條とかつては衝突して外務大臣を辞任していた和平派の東郷茂徳を「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで動かしてほしいと」と三顧の礼で外務大臣として迎えている。

この説得に阿南は遂に首を縦に振り、陸軍大臣に着任。その後は局長や課長らを集めて会食を行い、忌憚のない意見を聴取した。局長らは何でも思うところを直接大臣に意見できるため、そのせいもあって、物忘れが激しくなっていた杉山前大臣のときより、陸軍省内の空気はかなり改善されて、阿南への信頼が高まっていった。


しかし、それから間も無く沖縄戦が開始され、5月3日から開始された第32軍による総攻撃が失敗して戦況は悪化の一途を辿る。更に5月24日と5月25日の2日に渡って、合計1,000機以上にもなるB-29による東京大空襲が行われた。これにより、皇居の大半は消失し、5月28日に阿南は皇居炎上の責任をとるため鈴木に辞表を提出した。鈴木は懸命に慰留したが、阿南の意志は固かったのでやむなく辞表をもって参内したが、昭和天皇より「陸軍大臣の微衷はわかるが、今や国家存亡のときである。現職に留まって補弼の誠を尽くすよう伝えよ」との慰留があったので、阿南はやむなく辞表を撤回した。この頃になると同じ軍部でも、陸軍の阿南と当時海軍大臣の米内の方針の相違が如実になってきた。更に懇談会においても会議は阿南と米内の激しい論争となり、阿南が「敵を本土に引きつけて一撃を加えた後に有利な条件で講和すべき」という一撃講和論を主張したのに対して、米内は「その1戦の勝算の見込みなく、全面降伏は必然であり、一日も速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲らなかった。だが、この当時の戦況は中国大陸の視察から帰ってきた陸軍参謀総長梅津から、「在満州と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受け、更には海軍も「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」「機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われている」という報告も受け、この光景を目の当たりにした昭和天皇は本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられてしまう。


ポツダム宣言

1945年7月17日からベルリン郊外ポツダムにおいて、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンスターリンが集まり、第二次世界大戦の戦後処理についての会議であるポツダム会談が開催された。その会談の期間中の7月26日にポツダム宣言が米英と中華民国国民政府主席・蔣介石による共同声明として発表され、日本に伝達された


もはや太平洋戦争の勝利は皆無と判断した昭和天皇は阿南、米内両名にポツダム宣言を受託を表明し、双方にも同意を受け入れるよう要求。米内は素直にこの表明を受託したが、阿南は「政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向性を示すべき」と主張し、反対。更に支那派遣軍総司令岡村寧次大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見も挙がっていた事から阿南含む陸軍全体はこの表明を受け入れることはなかった。


しかし、それから間も無くして8月6日に広島への原子爆弾投下が行われ、広島は1発の原子爆弾で壊滅。翌7日にはトルーマン大統領が「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである。広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という脅迫同然の声明を発表した。それでも阿南は「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺(ウソ)かも知れぬ」と強く主張した。

だが、そのトルーマンの言葉は現実となり、9日には長崎にも原子爆弾が投下されてしまい、これにより阿南はポツダム宣言を受諾することに揺らぎが目立つ様になる。更に米内からも海軍はブーゲンビル島の戦い、サイパンの戦い、レイテ島の戦い、ルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦皆然り、全て負けていると明らかにし、もはや勝ち目は無いと通達した。


同時にこの頃の日本の国体は崩壊寸前まで陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと阿南は考えていたが、一方で海軍の艦艇がほぼ壊滅しているのに対して、陸軍は内外地に合計500万人の大兵力を有し、まだ本当の決戦を一度もしていない。本土決戦こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており決断は宙を舞っていた。


その後、御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見を述べ、ポツダム宣言受託を同意。翌8月10日、阿南は陸軍省各課の高級部員を招集して、ポツダム宣言の受託と難局に対する心構えを訓示した。だが、この発言が敗戦の実感がない150万人の支那派遣軍達に対し反感を募らせ、ポツダム宣言受託阻止へのクーデターへと発展してしまう。


8月12日の夕方、阿南は久々に三鷹市下連雀にあった私邸に帰った。この時点で阿南は終戦となれば自決しようと決意しており、家族に別れを告げるための帰宅であった。だがその背後で竹下正彦中佐率いる青年将校らのクーデター計画が進んでおり、その直前までも陸軍省軍務局の青年将校が2人来訪し、阿南にポツダム宣言受諾反対を説いた。陸軍軍務局幕僚を中心とする強硬派青年将校は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画を練っていた。13日の閣議から帰ってきた阿南は、首謀者の軍事課長荒尾らからこの計画書を見せられたが、ついに来るべきものが来たという思いで何回も見直した。しかし、計画に賛成とも反対とも言うことはなかった。荒尾らは懸命に阿南を説得しようとしたが、阿南は「天皇の意志に反してはならぬ」として煮え切らない態度に終始したので、なおも荒尾らは熱心に説き、阿南は首謀者のなかに義弟の竹下中佐や、ほかにも井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐など、日頃から信頼している者が多かったこともあって、最後には譲歩して、参謀総長の梅津とも協議して結論を出すと荒尾らに約束した。しかし、指揮官的な立場の荒尾には「クーデターに訴えては、国民の協力はえられない、本土決戦など至難のことだろう」と真意を漏らしている。


翌日の午前11時に開始された御前会議において遂に昭和天皇による聖断が下され、ポツダム宣言を正式に受託。


阿南はその後に陸軍省に帰ると、陸軍大臣室には、クーデター計画の首謀者らを含む多くの陸軍将校が集まった。阿南は御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」と諄諄と説いて聞かせたが、クーデター計画の首謀者の1人であった井田は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ!!」と説いた。


その後に阿南は陸軍高官を陸軍大臣室に招集して陸軍首脳会議を開催した。そこで参謀本部河辺虎四郎参謀次長が発議し、若松陸軍次官が書いた「陸軍ノ方針」である「皇軍ハ飽迄御聖断二従ヒ行動ス」という文書についての協議が行われ、阿南は真っ先に一読すると無言のままで署名した。これでポツダム宣言における「承詔必謹」は全陸軍の正式な方針として確定した。


最期編集

午後4時から始まった終戦の詔書の審議において阿南は正式に署名。14日の夜11時すぎにようやく陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南は、日中の閣議の前に秘書官の林三郎に準備を指示していた半紙2枚を受け取った。そこに遺書を書き写し、それを秘書官に渡すとそのまま自邸に帰っていった。

阿南の自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていたが、その様子は普段と全く変わる様子はなく若松陸軍次官はその様子を「進退堂々、挙惜典雅、悠々迫らずいつも微笑をたたえた温顔を最期の日まで変わりなく保ち続けたことに驚きを禁じ得ない」と後に振り返っている。阿南は自分が全ての責任を負うので、自決は自分1人でいいとして、自決を申し出てきた陸軍の青年将校たちに「これから、大混乱の中を平静に終戦処理するのが中央幕僚の任務だ。外地からの復員も早急に実現しなければならぬ。君たちはこの二大事業を完遂してほしい」と言い聞かせて自決を思いとどまらせている。


8月15日深夜1時に阿南の義弟であった竹下が陸軍大臣官邸を訪れ、クーデターは竹下の部活である畑中と椎崎らによって全陸軍の方針に反して決行したと伝えられた。そして、阿南は竹下に対して真っ先に遺書を見せ自決する方針を表した。そして、阿南と竹下はチーズを肴に水入らずの酒盛りを行い、最後の晩餐を始めた。その後、クーデターにより決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害し、その知らせが阿南と竹下の元に届いた。やがて、森の殺害の現場にいた井田中佐が陸軍大臣官邸を訪れてことの顛末を報告したが、既に詳細を把握していた阿南はとくに処置を命ずることもなく「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであった。クーデターを止めることが出来なかった井田はその責任から咄嗟に阿南と殉死したいと思って「わたくしも、あとからお供いたします」と申し出たところ、阿南は目もくらむ激しさで井田の頬を殴り「何をバカなことをいうかっ!おれ1人、死ねばいいのだ。いいか、死んではならんぞ」と温和な阿南には珍しく大喝している。


そのあと、井田も加わって3人で酒を酌み交わした。その酒席で阿南は若い2人に「君たちは死んではならぬ、苦しいだろうが生き残って、日本の再建に努力してくれたまえ」と何回も言って聞かせている。夜明け間近になって阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを自決用に身につけた。


そして、8月15日午前中7時10分。阿南は戦死した惟晟(次男)の遺影を飾り、自宅の縁側で自刃。享年58歳。


直前に竹下が介錯を申し出たが、阿南は「無用、あっちに行け」と竹下を遠ざけた。正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。

なお、彼が死に至るまでは竹下の介錯が取り込まれており、自刃から数分後まで阿南は意識不明の様子で、弱い呼吸音だけが聞こえる状況であったので、見兼ねた竹下は阿南の手から短刀をとると、右頸部を深く切り込んで介錯した。それを目の当たりにした井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ見ながら泣いていたという。


8月16日午前6時、陸軍省将校集会所で阿南の陸軍葬が営まれた。続いて同日午前7時より一般職員その他の告別式が行われ、亡骸は市ヶ谷台の海軍重砲西側で荼毘に付され、多摩霊園に埋葬された。


余談編集

阿南を介錯した竹下は彼の死後、陸軍省廃止に伴い公職追放。その後は警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊入隊し、陸将にまで昇格した。そして、クーデターでもある宮城事件の顛末を含む1945年8月9日から15日までの動静を『大本営機密日誌』として執筆、文藝春秋社員だった半藤一利に閲覧を許可し、半藤はこれをベースとして『日本のいちばん長い日』で宮城事件を描いた。竹下は半藤の著書を原作として1967年に公開された岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』のパンフレットに「阿南陸相と三船」という文章を寄稿し、その中で過去の終戦秘話を描いた映画における青年将校の描写に不満を抱いていたことを記している。それから22年後の1989年に死去。享年81歳。


同じく阿南の死を見届けた井田は同月、重謹慎30日の処分を受け、同月31日、予備役に編入。なお敗戦によって裁くべき軍組織が解散させられたため、井田は軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。終戦後は竹下同様公職追放となり、その後は電通に入社し、総務部長及び関連会社電通映画社の常務を勤めた。1955年(昭和30年)に離婚して、姓を岩田に復姓している。敗戦後も一貫して、本土決戦をすべきだったと主張していた。2004年、老衰の為死去。享年91歳。


そしてクーデターの実行犯でもある畑中と椎田はクーデター失敗後、皇居において共に拳銃自殺した。


関連タグ編集

宮城事件…陸軍省青年将校らが引き起こしたクーデター事件


演じた俳優編集

早川雪州日本敗れず(1954年):役名は「川浪陸軍大臣」

三船敏郎日本のいちばん長い日(1967年)

役所広司日本のいちばん長い日(2015年)

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