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板垣征四郎

いたがきせいしろう

明治18年1月21日~昭和23年12月23日 明治~昭和時代の陸軍軍人・政治家。従四位。勲一等。陸軍大将。陸軍大臣としてユダヤ人保護政策を最も熱心に推進して、救いの手を差し伸べた。

明治18年、岩手県盛岡市生まれ。
盛岡中学、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業。
板垣は幼少時からあまり勉強せず、成績はお世辞にも良いとはいえなかった。
陸軍大学にも同期生より3年遅く入学し、ビリに近い成績で卒業している。
それでも本人は「陸大に入ったのも出世のためではない。支那問題で口のきける立場になるためだ」と、気にする様子もなかった。

板垣の性格は豪放、磊落、恬淡などと言われ、とにかく悠然とした人物であった。
板垣には自分自身の思想も論理もなかったが、部下を徹底して信頼して仕事を任せ、決断と責任は自分が負う親分の器量があり、西郷隆盛にも匹敵すると言われるほどだった。

板垣は昭和6年の満洲事変当時、石原莞爾の上官で関東軍高級参謀であった。
智謀の石原、実行の板垣と称されたように、この二人の名コンビは車の両輪のように助け合い、相乗作用しながら満洲事変を成功に導いた。
石原は板垣に対して「士はおのれを知る者にのために死す」の言葉通り、最後まで身命を賭して忠誠をつくした。
板垣もこれに応え、いわば東条英機との対立のなかで石原の後見人として近衛文麿内閣の陸軍大臣に就任するなどしている。

自らのビジョンを持たない板垣は、陸相として日独伊三国同盟締結に向けて積極的に動いたが、この時板垣の下には優秀なブレーンがおらず、板垣がどれだけ強力に強硬論で押していけたかというのは疑問である。

また当時、ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーはユダヤ人の排斥を行っていたが、ユダヤ人難民の受け入れが国際問題となった。
しかし日本ではすでに五相会議において「ユダヤ人対策綱領」を決定しており、ユダヤ人を人道的観点から保護するが、ユダヤ資本をあてにする態度は厳に抑止するとすら表明されていた。
国策制定時、最もユダヤ人保護の決定に熱心であったと言われているのが、五族協和・王道楽土を理念とする満洲国建国の功労者であった板垣征四郎である。

ドイツの要請に対して陸軍大臣の板垣は「こんな要請を聞くわけにはいかない。我国は神武天皇以来、八紘一宇の国である。ユダヤ人だからといって、特定の民族を差別することはできない」と述べて、五相会議でも決議された。
世界で唯一ユダヤ人を差別しないことを国策とした日本政府はその後、三国同盟締結後のドイツの抗議すらはねつけて、亡命ユダヤ人を受け入れている。

昭和16年、大将に進み朝鮮軍司令官となる。
あるとき板垣は朝鮮の知識人に対して「朝鮮は近いうちに独立させなければならないね」と語り、相手を唖然とさせたという。

終戦は第七方面軍司令官としてシンガポールで迎えた。
普段は部下に全ての仕事を任せる板垣だが、終戦処理には自ら率先して動いた。
苦境の時こそ自分が前面に出て、全責任を負うという考えであった。

板垣はあえて自決せず、A級戦犯として東京裁判の法廷に立った。
板垣は国家と軍の弁護に徹した。
軍に不利な証言を提出しないようにと広田弘毅に声を荒げて迫ったこともあったが、それも自分の罪を軽くするためではなく、自分への判決には関心がないようだった。

満洲事変の首謀者であった石原は連合国によって戦犯からはずされたために罪は問われなかった。
連合国の検事が聴取に行くと、その度にコテンパンに論破されてしまうので、連合国の方で石原を避けたような形だった。
A級戦犯になるもならぬも連合国の都合次第だったのだ。
それに代わって板垣が責を一身に負って絞首刑になったのである。

逸話

板垣がシンガポールにいた時、阿波丸事件が起こった。
アメリカから依頼されて、東南アジアに収監されているアメリカ人捕虜に届けるための慰問品を積み、安導権を意味する緑十字をつけて運航していた阿波丸を、アメリカ軍潜水艦「クィーンフィッシュ」が魚雷攻撃して海に沈めたという事件である。
沈没した阿波丸の乗客乗員は一人を除き2000人あまりが死亡した。

日本軍はそのことを知らず、当初必死で船の行方を捜したが、事実を知ったシンガポール第七方面軍司令部は、当然激昂した。
会議の末、「このような非人道的行為に対し報復するため、捕虜に送られた慰問品を全て没収し、海中に投棄してみせしめにすべし」と衆議一決した。
この報告を聞いた板垣は裁可を下す立場であったが、語気も鋭く一喝した。
「馬鹿もの!敵の卑怯な振る舞いに対して、こちらが卑怯な態度で対応したら、日本武士道の魂はどうなるのか。捕虜の方々には丁重に慰問品をお配りせい!」

興奮しきっていた一同ははっと冷静さを取り戻し、反省したと同時に、また彼らが慰問品を海に捨てたために戦後戦犯として裁かれたであろう将来の悲劇が回避されたのである。

生涯武士道を貫き通した板垣征四郎は戦後、国際法違反ではないはずの満洲事変の責任者として、死刑が執行された。
一方、国際法違反の罪を犯したクィーンフィッシュ艦長はその後、軍法会議で有罪になったが、物資を沈めたことに対する不注意を咎められたのみで、二千名の命を奪ったことに対しては不問であった。

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大日本帝国陸軍 昭和殉難者

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