概要
出生から終戦まで
1887年(明治20年)7月29日に大分県で産まれる。東京帝国大学法科大学を経て外務省に入省。ドイツ、イギリス、アメリカなどに駐在し、上海総領事を経て、1930年には駐華公使となる。駐華公使在任中に満州事変が勃発。これについて重光は「国際的信用が急速に消耗する」として外交による協調路線によって収めようと奔走。上海事変では欧米諸国の協力の下中華民国との停戦交渉を行ない、協定をまとめあとは調印するだけであった。しかし上海虹口公園で開催された天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家の尹奉吉の爆弾攻撃に遭い右足を負傷。停戦協定を成立させた後右足を切除し、義足を取り付けるようになる。
当時外務大臣の廣田弘毅は重傷を負った重光を気遣い懸案の少なかったソ連の公使に赴任させるが、ソ連と日本が実質支配していた満州国の国境紛争となる張鼓峰事件が発生。ここで重光はソ連外務省と対立してしまう。予想外の事態に外務省は重光をイギリス公使(のちに大使)に異動させ、ここでは悪化していたイギリスとの関係との改善に努めた。松岡洋右が外務大臣に就任した1940年に在外大使・公使を全員罷免し代議士や軍人に置き換える人事が行なわれたが、重光だけは罷免されず留任した。
1941年12月に太平洋戦争が勃発すると敵国となった駐イギリス大使を罷免されて帰国し、東條英機と小磯国昭の各内閣で外務大臣に就任。1943年11月には日本統治下の国を集めて大東亜会議の開催に尽力した。1945年8月の終戦直後に発足した東久邇宮稔彦王内閣で再び外務大臣となり、9月の戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印している。
東京裁判
東京裁判では当初弁護側として廣田弘毅や東郷茂徳ら外交官のA級戦犯にあたることになったが、ソ連公使時代に対立したことを根に持っていたソ連側が重光もA級戦犯にするよう圧力をかけ、さらに「重光を起訴しなければ東京裁判に参加しない(これがどういう意味か理解してるよな?)」と脅迫した。GHQやイギリス政府は重光が戦争に加担していないことはわかっていたため戦犯としての起訴に反対したが、当時アメリカの与党だったアメリカ民主党が屈してしまい、重光を起訴せざるを得なくなった。さらにソ連は「重光を死刑または終身刑にしろ」とまで言ってきたとされるが、この要求まで飲んだら戦後日本に悪影響を及ぼすとして他の連合国は断固抵抗。重光の弁護士の尽力もあり禁固7年というA級戦犯としては異例の軽い刑となった。しかし連合国側の検事および将校は「重光は無罪と思っていたし、今でもそう思っている」とこの判決すら受け入れられないと怒り、収監された重光に対して監視役の将校が同情の声をかけたほどである。
このこともあり1950年には4年7ヵ月という異例の早さで仮釈放が決まり、出所時は東京裁判の弁護士が出迎え、アメリカ将校が見送るという異例の対応を受けた。その後サンフランシスコ平和条約による恩赦を受け正式に刑期が終了している。
晩年
出所後は政界に復帰(A級戦犯としては唯一)し、内閣総理大臣の首班指名では吉田茂に次いで2位となる。その後鳩山一郎内閣で副総理兼外務大臣に就任し、国際連合加盟に尽力することとなる。しかし戦後になってもソ連との対立が続き、国際連合加入の条件であるソ連の同意に難航してしまう。重光は北方領土返還を理由に譲らなかったが、鳩山が直接モスクワへ訪れてソ平和条約を締結してしまう。重光と鳩山の関係は悪化したがこれにより国際連合加盟が実現し、1956年12月18日の加盟受諾演説で「日本は東西の架け橋になりうる」と述べている。
帰国前に鳩山内閣が総辞職し、自身も外務大臣の地位を岸信介に讓り事実上政界から引退。帰国の途中で「もう思い残すことはない」と述べた重光は帰国後間もない1957年1月26日に狭心症の発作で逝去した。