曖昧さ回避
本記事では、日本初の戦艦、練習帆船とタンカーの日本丸について記述する。
九鬼嘉隆の日本丸
神託によって賀多神社の境内に生えていた龍燈松を用いて建造されたと言われている。日本丸の船底材は長さ約25m、肩幅9.4m、深さ3mに及び、当時としては最大級の大きさを誇った。また、豊臣秀吉の御座船として作られたため、豪華な艤装が施されたと言われている。日本丸の名は、文禄の役に集まった船のなかでもっとも秀逸だったことから秀吉によって名付けられたと言う逸話が存在。
当初は「鬼宿(きしゅく)丸」と命名されたが、名護屋城へ回航した際、最も優れた船として秀吉の指示で「日本丸」へ改名された。日本丸は文禄の役で九鬼水軍の旗艦として同年7月10日の安骨浦海戦に参加しており、『九鬼御伝記』には艦隊の楯として突出し、長時間に及ぶ朝鮮水軍による集中攻撃で矢倉は打ち落とされ端々しか残らず、帆柱も射切られる大損害を受けつつも健在だった旨が記されている。
この海戦の報告を受けた秀吉は味方に1艘の損失も無かったことを賞し、朝鮮水軍への対策として大船の派遣・建造を行う旨の書状を、海戦に参加した嘉隆・加藤嘉明へ7月16日に送っている。このことから秀吉が日本丸を有力な軍船と評価したことが窺え、以後は後述の様に日本丸以上の大船建造が行われることになる。嘉隆は文禄2年(1594年)初めの熊川海戦にも参加しているが、日本丸の動向は確認できない。文禄の役で日本水軍は多数の船舶を失ったが、日本丸は生き残り、日本に帰還している。慶長の役では九鬼家は渡海しなかった。
その後は九鬼家の後に鳥羽藩主となった内藤忠重によって500石積み60丁立の船に縮小改造の上「大龍丸」に改名。以後は内藤家断絶後も、鳥羽藩の持ち船として使用され、老朽化のため安政3年(1856年)に解体されるまでほぼ江戸時代を通して残存したとある。
これが事実であれば船歴263年になるが、一般に木造船の寿命は長くとも20年程度であり、200年以上使用という記述には疑点もある。しかし寛永7年(1630年)には存在が確認できる天地丸は文久2年(1862年)に廃船になるまでの230年以上の間、将軍の御座船として存在した実例があり、維持管理次第では200年以上の存続も不可能ではない。
参考
- ウィキペディア
- 刀剣ワールド
練習帆船「日本丸」
日本の練習帆船、新旧の二隻がある。
初代日本丸
鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」の沈没事故を契機に建造された練習帆船。
当時日本の商船、水産系学校で多額の維持費を要する本格的な練習船を運航できていたのは東京高等商船学校(現東京海洋大学)の「大成丸」と神戸高等商船学校(現神戸大学)の「進徳丸」ぐらいのもので、地方の学校では一般商船への便乗実習や、小型の練習船にならざるを得なかった。
そんな中で実習生全員死亡の惨事となった「霧島丸」沈没事故が発生し、地方校の学生に安全で有意義な実習を提供するための大型帆船を求める世論が沸き起こった。
かくして国有の大型練習帆船二隻の建造と、これを運航し、地方校の学生の実習を請け負う「航海練習所(現海技教育機構)」の設立が決定された。
昭和5年1月、神戸川崎造船所で第1船が進水、「日本丸」と名付けられ、同年2月に進水した姉妹船は「海王丸」と名付けられた。
その後南太平洋を中心に実習航海に従事するも、昭和18年、太平洋戦争の激化に伴う船員教育の効率化政策の一環として航海練習所が「航海訓練所」に改組、練習船隊に前述の「大成丸」、「進徳丸」が加わって四隻体制となった。また情勢悪化に伴い外洋での帆走実習は既に不可能になっていたため、全船で帆装が撤去され、瀬戸内海などで物資輸送を兼ねた実習航海を行った。
この時期の実習は練習船の受難として語られることが多いが、本来の実習航海では行わない本格的な荷役作業(貨物の積み下ろし)を含む実習となり、結果としては大変実践的で有意義な実習になったとする証言もある。
僚船「進徳丸」が空襲により大破着底、「大成丸」が触雷沈没する中、本船と「海王丸」は戦争を生き延び、戦後貴重な大型船として、実習航海を兼ねた在外邦人の引き揚げ輸送に従事した。
昭和27年、帆装が再設置され、本来の実習航海に復帰した。その後昭和59年の退役までに90万海里を航走し、延べ11500名の実習生を育てた。
現在は横浜市みなとみらい21地区の日本丸メモリアルパーク内にある横浜船渠第一号ドックに係留保存されている。
また、本船は帆船ながら帆装を取り外していた時期が長く、現役の期間も大変長かったことから、本船の主機の稼働時間54年2月20日4時間7分は、舶用エンジン最長としてギネスブックに登録されている。
「大決戦!超ウルトラ8兄弟」のラストでは帆をソーラーパネルに改造し、反重力システムとワープ航行を搭載した宇宙船として登場TDG三部作のメンバーを乗せてウルトラの星に旅立った。随行するのは昭和ウルトラメンバーの乗り込むジェットビートル、ウルトラホーク1号、MATアロー、タックスペースの4機であり、こちらもワープ機能が搭載されている。
日本丸Ⅱ世
初代の老朽化に伴い、昭和59年に建造された大型練習帆船。帆走性能を大幅に向上させ、世界有数の高速帆船として名を連ねている。そもそも帆船による航海実習自体が世界的に下火になりつつあり、国費で大型帆船を建造することが少なくなったことから、全長は世界最大の帆船「エスメラルダ」にわずかに3メートルを譲る二番手でもある。
また、可能な限りの居住性の向上も図られ、
- 女子実習生居住区の設置
- 実習生の体格の大型化に対応し、ボンク(寝台)の全長を20㎝延長して2mとした
- 造水能力の向上により船内で洗濯機の使用が可能に
- 全体に空調設備を完備
などの改善が行われた。
現在も現役にあるものの、既に船齢33を数え、海技教育機構の練習船では最高齢となった。それにともない先代ほど深刻なものではないにしろ、各所に老朽化を生じている。帆船の建造には多額の費用がかかることと、前述の通り世界的に帆船による実習が行われなくなりつつあることから、代船の計画は現時点では全くない。
居住性の改善も今や過去の話であり、本船と海王丸の他の練習船は全て汽船であることから、帆船としての制約も相まって、練習船隊の中でもずば抜けて居住性が低い。具体例としては
- 造水能力が低く、海水風呂など清水(真水)使用が制限が大きい(汽船では遠洋航海以外は2日に1回の清水入浴、および毎日のシャワーが使用可能)
- 実習生居室が8人部屋(汽船は6~4人部屋であり、空きボンクがあることも多い)
- そもそも居住区が狭い(帆船であるため、大きな上部構造物を作れない)
- 帆の操作には人手が必要なため、帆走中は非番でも配置につくことが多い
等々がある
そのため「太平洋の貴婦人」の愛称とは裏腹に、実習生からは「奴隷船」「見るのは天国乗ったら地獄」などと揶揄されている。
油槽船「日本丸」
1936年、神戸川崎造船所で建造され山下汽船が運用した油槽船(タンカー)
同時期に川崎造船所、および川崎重工業で建造された12隻のタンカーと同設計で建造され、合わせて「川崎型油槽船」と呼ばれる。
本船自体はどちらの適用も受けていないものの、「船舶改良助成施設」および「優秀船舶助成施設」の適用を見越して艦政本部の指導を強く受けた設計となっており、戦時には艦隊の補給艦として使用できるよう、おおむね20ノットの最大速力(現在のVLCCがおおよそ15ノット)、洋上補給設備、弾薬庫として転用できる生糸庫等を全船が備えた。
太平洋戦争には本船はじめ川崎型油槽船13隻すべてが徴用され、そして全船が戦没した(戦後一隻浮揚)。
特設給油艦としての戦歴
真珠湾攻撃
本船は開戦に先立ち昭和16年9月に徴用を受け、洋上補給の猛訓練を受けたのち、真珠湾奇襲作戦では艦隊補給艦として南雲機動部隊に追従、11月30日に僚艦「東邦丸」「東栄丸」とともに部隊全艦への補給を行った後、駆逐艦「霰」の護衛のもと離脱した。
当時海軍にも知床型給油艦があったが、海軍の指導下で建造した民間タンカーの方が高性能であったため、本作戦の補給艦は全て徴用船で賄われた。
単冠湾泊地
大戦前半は度々呉鎮守府へ補給のために回航しつつ、長らく単冠湾泊地に停泊し、泊地に寄航する艦船への補給を行う「ステーションタンカー(移動燃料庫)」の任務に就いた
キスカ島撤退作戦
軽巡洋艦以下の軽快艦艇での長距離作戦となったため、これらに追従できる高速補給艦として本船も参加した。第二次作戦で本船は濃霧のために本隊から完全にはぐれてしまい、軽巡洋艦「阿武隈」の発砲音を頼りに艦隊へ合流した。阿武隈と海防艦「国後」の衝突事故がおこるほどの濃霧の中、本船は艦隊への洋上補給という危険作業を無事故で完遂した。奇跡の作戦の影の功労である。
燃料輸送
キスカ島撤退作戦ののちはボルネオ島バリックパパンからトラック島への燃料輸送に従事した。バリックパパンは非常に良質な石油を産出しており、精製しなくとも原油がそのまま重油として使用できたため、トラック泊地の艦隊で即燃料として補給することができた。
本船は20ノット近くの高速を発揮できる高速タンカーであったため、低速の海防艦や駆潜艇では追従することができず、護衛には駆逐艦が供されることが多かった。
戦没
昭和19年1月14日、駆逐艦「島風」「早波」の護衛の下、僚船「健洋丸」「国洋丸」バリックパパンより重油、航空機用ガソリンを満載してトラック島へ向かう途上、カロリン諸島西方にて米潜水艦「アルバコア」「ガードフィッシュ」「スキャンプ」からなるウルフパックの襲撃を受けた。同日正午ごろ、船団と合流予定であったが、船団の遅れのため合流地点で停留していた駆逐艦「曙」、「漣」のうちまず「漣」がアルバコアより雷撃を受け轟沈した。「島風」「早波」がアルバコアの掃討を試みて船団を離れた隙に本船が「スキャンプ」より雷撃を受けた。二発を機関室に受け、船尾から沈下し始めたところに、止めとなる一発を船体中央部に受けた。これが積載した航空機用ガソリンに引火して大火災を起こし、船体は瞬く間に全没した。死者16名。
「アルバコア」への攻撃を続ける「島風」「早波」に代わって「曙」が船団に合流したときには、すでに「国洋丸」も被雷、生き残った「健洋丸」のみは「曙」と、トラックより急行した駆逐艦「春雨」の護衛のもと、からくもトラックに到着した。
この襲撃で海軍は、当時再優秀のタンカーを一挙に二隻失い、その後の南洋における艦隊行動を著しく制限されることとなった。