概要
和船は、日本で独自に発達した木造船舶である。前後方向の「竜骨」や、横方向の「肋材」といったフレーム的な構造によらず、厚板のつき合わせによる構造船(古くは準構造船)であったことなどが特徴とされる。日本国内で建造された中国式の船なども含めて説明する。
大まかな歴史
古墳時代
この頃の埴輪に、舟形のモノがあるが、この当時の船は刳船(丸木船)の上にぐるっと板を立てた素朴なものであった。(このようなものを準構造船という)
平安時代
この時代で有名な船は、外洋を行く遣唐使船である。だが、構造は良く分かっていない。分かっていないにもかかわらず、和船の範疇には入らないとする者もいるようである。この船型の選択には、上記のような準構造船ではベースが丸木船だけに大きい船が作りにくい、という事もあったろうし(何せ、遣唐使船は150トンも積めて、150人も乗れたのだ)、中国に行くのだから、あちらの船を使った方が便利だということもあろう。当然と言えば当然である。
一方、川舟に関しては、「二瓦船」という大型のものが登場する。瓦とは船の底の木材の事であるが、当然、丸木舟ベースである。それを「丸木舟繋げたら長くできるんじゃね?」という発想で、二つ、時にはそれ以上縦に繋げた船であった。
平安時代末期〜鎌倉時代
中世になると国内の海上交通が盛んになってきたものの、依然として、川・海双方ともに従来からの刳船の瓦をベースとした準構造船であった。ただ、海船の中には、より荷物を積めるよう大型にするために、側面に立てる板(棚という)を、1枚から2枚に増やしたりするものもあった。微妙な差であるが、これで元寇も乗り切ったことだし(これらは兵船として使われた)、結果オーライである。
なお、海外に出るためには「外国船を使う」というのが基本であるのは、前時代から変わらないらしく、源実朝(将軍)が日本から宋にエスケープするために造った船も中国船であった。(ちなみに、進水が出来ずに失敗した)
室町時代
室町時代は、遣明船という船が登場する。これは勘合貿易に使われた。「でも、中国船なんでしょう?」とお思いの方も多かろうが、実は、日本の国内海路の大型商船を改造した日本式の船であった。この船の特徴は、瓦(船底材)が従来の刳り船のベースのU型から、平たいものとなり、その代わりに船底の両脇にL字型をした部材(オモキ)が入るものである。なお、大型化にともなって、側面の棚の数は前時代からの2つから3つ、多いものでは4つに到達するものがあった(この時点で、準構造船から構造船に進化した)。
船の大型化と大木の減少に伴い、この頃から棚を一枚の板で造ることが困難になったので、板を合わせて、縫い釘で接合する「はぎあわせ」によって大きな棚を作成するようになった。(職人のなせる業か、かなり頑丈で強度上、ほぼ、一枚の板とみなせるものだったらしい)
戦国時代(軍船)
戦国時代は、軍船が活躍した時代である。この時代区分は、室町時代の後期も含んでいるのだが、軍船大活躍の時代なので特に分けて書くこととした。また、軍船には異なる特徴をもったいくつか種類があるので、以下に見出しに分けて代表的な軍船の紹介をする。
安宅(阿武)船 アタケブネ
特徴としては、船首は箱型で、船首から船尾までぐるっと分厚い楯板で装甲されている(押廻り造り、総矢倉造り)。楯板には狭間があってそこから銃撃、射撃が出来るので、浮かぶ城のような形で、攻撃・防御ともに優れているが、寸胴で、速度は出ない。水軍の主力である。大きさは、櫓(一人用)数50丁~160丁、五百石(75トン)積~二千石(300トン)積み。
関(早)船 セキブネ
船首が、水押造り(一枚の板で、水を切れる)となっている。櫓(一人用)数40丁~80丁。船体は安宅よりはスマートであり、速度が出る。安宅と比べると薄いが、総矢倉造りである。安宅船全盛期には、補助的な役割であるが、その時期以外は主力艦であった。
小早船 コハヤブネ
関船より小型で、更にスマートになり、機動性に優れる。水押造りで櫓40丁以下。上部構造は、総矢倉ではなく半垣造り(高さが低い)、または欄干造り(スケスケ)。もちろん補助艦。機動力を生かして、偵察や先手に使われた。
※これらの船は、船首以外の船体構造は大体同じで、平たく幅のある底板に2~3枚の棚板で構成する側面、というものである。
織豊政権時代後期~江戸時代初期
秀吉の時代から、江戸時代の前期に、ほんの僅かの期間であるが、「朱印船」と呼ばれる船が活躍した。これは、「朱印状」という貿易許可状を得た商人が、台湾・東南アジアに渡航する際に使った船である。その構造は「ジャンク形式」であり、和船ではないが、後期にもなるとジャンクをベースとして、西洋船ガレオンの技術、更には日本の矢倉形式が混ざるようになった。(これを日本前と呼ぶ)
江戸時代
江戸時代は平和になったので、軍船の出番はあまりなくなった。しかも、五百石以上の軍船の建造が禁止されたために、事実上、安宅船が造れなくなり、関船が主力艦となった。
この時代は水運が大いに発達し、海運においては弁才船、俗にいう千石船が主役となった。いわゆる和船の全盛期である。この弁才船の構造は、船首は水押し造りで、航(瓦)、根棚、中棚、上棚を取りつけていく棚板造りであった。また、櫓が廃され帆走のみで航海できるようになり、江戸中期からは木綿の帆が使われるようになった。逆風での航海も可能になり、江戸時代初期には大坂から江戸までは平均で1ヶ月もかかっていたのが、江戸後期になると平均的な弁才船で12日、快速な新綿番船では5日間で航海できるようになった(最短で2日間という記録がある)。
なお、弁才船は上記のように「千石積める」ということから千石船の呼び名があるが、実際には百石から二千石積みまで大小さまざまなものがある。
幕末・明治以降
幕末に西洋船が入ってからも、和船は内航商船の主力であり、盛んに建造されていた。
それというのも、木製の西洋船(帆船)は水密構造で難破に強い反面、構造が複雑で高価であり、積める荷物も和船より少なかったからである。また、当時の整備されていない港湾では、喫水の深い西洋船より和船の方が適していた。
それが西洋船にとってかわられるのは、20世紀に入り、鉄製の船や汽船が広く使われるようになってからである。それとともに各地の港湾には喫水の深い船が入れるよう浚渫が進められ、大型の和船は建造されなくなり、和船の活躍の場は河川や漁船へと狭められていった。
伝統的な和船が建造されなくなったのは、戦後、FRP船が普及してからである。
※参考文献『和船ⅠⅡ』(石井謙治 法政大学出版局 1995.7)