概要
戦前、東西定期航空会
朝日新聞は航空に強い関心を抱いていた。1922年に日本航空輸送研究所が民間旅客航空会社を作ると、自社でも参入することとし、1923年に白戸栄之助や伊藤音次郎といった航空業界のパイオニアを集め、東京~大阪で郵便・小荷物輸送を開始した。1928年には旅客輸送を開始し、路線も仙台~東京~大阪に拡大したが1929年に日本航空輸送(後の大日本航空)の設立とともに路線を譲渡し解散した。
興民社、ヘリコプター
戦後、東西定期航空会関係者は航空禁止令で職を失った航空関係者の相互扶助を目的に興民社を設立、来るべき航空禁止令撤廃を見据え水面下で検討を続けた。1951年の日本航空設立の際、戦前の国家介入で航空業界が壊滅した教訓からあくまで純民間にこだわりこれへの参加を見送った。
1952年に晴れて航空禁止令が解除され、再建が実行に移された。しかし、当初朝日新聞だけでは再建に必要な資金は全く足りなかった。
そこで当初はヘリコプターを運用することとし、設立資金を抑えて、ヘリコプターの収益で航空機を買うスキームとした。しかしそれでも資金は足りなかった。三菱重工業や名古屋鉄道(名鉄)など航空業界に理解のある中部財界から多くの出資を得たが、最終的には期限ぎりぎりに名鉄から追加で多額の出資をしてもらって資金を何とかクリアーすることができた。
かくして同年12月27日、日本ヘリコプター輸送(日ペリ)は設立されたのだった。
念願の飛行機参入と合併へ
ヘリコプター事業は順調に進み1953年には飛行機による貨物輸送、さらに1954年には念願の旅客輸送に参入できた。しかし、路線網は名古屋より東側に偏っており、全日本にまたがる路線網を作る目的で1958年に極東航空と合併。日ペリを存続会社として全日本空輸(全日空)として再出発した。その後、旧日ペリ-名鉄と旧極東-東急の主導権争いに旧日ペリが勝利したため、全日空は日ペリ色の強い組織となった(そもそも長らく全日空のマークとしておなじみであったダビンチのヘリコプターは日ペリから引き継いだもの)。
名鉄はこの後も自社子会社の中日本航空で全日空の不採算部門を引き取ったり、ホテル設立に多大な支援を行ったり、さらには筆頭株主となるなど経営の苦しい全日空を全力で支え続けた。現在でも名鉄は同社の社外取締役を輩出している。また中部財界との結びつきも現在でも強く残っている。
使用した主な航空機
ベル47
デ・ハビランドDH.104ダブ
デ・ハビランドDH.114ヘロン(実は日本航空から融通してもらったもの)
追記
実は設立当初日本航空から株券を買ってもらうという格好で援助してもらっていた。これは、日本航空が1951年の設立の際、日本航空輸送という東急系の航空会社を吸収合併した事によるもので、当初から東急と名鉄の抗争の道具として使われた。そして日本航空は、東急が全日本空輸から手を引いた1974年まで、全日空の大株主の一つに名を連ねており、東急陣営の「同盟軍」として暗躍していた。