概要
大日本航空は1928年に日本航空輸送として設立されてから戦前の日本のフラッグキャリアとなっていた。1945年11月18日にGHQが布告した、いわゆる「航空禁止令」によって完全に消滅した。
歴史
日本航空輸送時代
1922年以降、日本では民間航空会社がいくつか誕生していた。そんな中で、当時航空行政を司っていた逓信省はナショナルフラッグキャリアを立ち上げることを計画した。こうして1928年10月20日に政府の手厚い支援の元日本航空輸送が発足した。1929年3月には東西定期航空会(朝日新聞社系で日本の航空時代の黎明期メンバーが設立した民間航空のパイオニアであった)及び日本航空(現在のJALとは別。川西航空機の民間航空輸送部門)を吸収した。日本国内線と中国の日本租界を結ぶ路線を運航し、既にこの頃世界の航空会社シェアの2.6%を占め、航空先進国の片りんを見せていた。
大日本航空設立
戦争の影響で1938年に国策会社大日本航空に改組され、同時に日本航空輸送研究所(日本初の民間航空会社)、日本海航空株式会社(城崎に拠点を置いていたリージョナル航空の元祖)、東京航空株式会社(日本初のスチュワーデス、当時でいうエアガールを採用)、安藤飛行研究所(愛知県知多市に拠点を置いていた)、国際航空(満州航空子会社で日本とドイツを満州経由で結ぶために設立)を半ば強制的に合併し日本唯一の航空会社となっていた。戦争が進むとともに陸軍特設第13輸送飛行隊に編入され南方航空輸送部に改編された。
崩壊
1945年の敗戦によって日本の航空界は解体されることとなり、10月までは陸軍・海軍共同で日本国内4系統に限り終戦処理連絡飛行「緑十字飛行」が行われ、11月18日の「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」によって日本の航空は一時的に消滅した。大日本航空も閉鎖機関として精算されることとなり、1947年に空港施設保全のための第二会社「三路興業」(現在の国際航業株式会社・空港施設株式会社)の設立と共に消滅した。
その後
1952年、航空禁止令失効に合わせて日本航空が設立されたが、大日本航空の系譜は継いでおらずノースウエスト航空(現:デルタ航空)の強い影響下にあった。とはいえ多くのOBが日本航空に参加している。これは日本海航空の事実上の流れをくむ伊丹~但馬線で官民挙げて日本海航空の功績を讃えていることからもうかがえる。
一方でこの時、強制的に合併させられた企業を再興する動きも生まれた。1952年に日本航空輸送研究所は関西汽船の支援の下、極東航空として事実上再建、東西定期航空会を運営していた朝日新聞は民間航空失業者を救済するために1945年に興民社を設立し、1952年に日本ヘリコプター輸送として航空活動を再開した。この2社が1958年に合併し全日本空輸として再出発した。最初期は日本航空の影響下に置かれたこともあったが戦前の反感もあって、安藤飛行研究所の存在などで戦前から航空に理解のあった名古屋財界、特に名古屋鉄道が自前の航空会社を合併や事業譲渡をして大株主になっている、などの強力な支援の下で影響を脱し、純民間志向の強い航空会社として現在に至っている。