概要
「田畑政治」とは、日本の水泳指導者である。
また1964年:昭和39年に開催された「東京オリンピック」を招致したキーマンである。
そして大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の「田畑政治編」の主人公である。
大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」
:いだてん
演:阿部サダヲ
後半第二部「田畑政治編」の主人公。
通称「まーちゃん」。
渾名は「河童のまーちゃん」
また本編では「野良河童」だの「河童野郎」だのと罵倒系の徒名で呼ばれる事もある。
造り酒屋の次男坊。
幼少期から落語と水泳に親しむが、大腸カタルに罹ってしまい、水泳の道を断念せざるを得なくなる。
その後「アントワープ五輪」での仲間の惨敗を機に指導者の道を目指す。
金栗四三が「マラソン馬鹿」なら田畑は「水泳馬鹿」。
そのため周囲から「河童のまーちゃん」と渾名される。
ちなみに周りの人たちからは好物はキュウリ、とされている。
ロマンチストで情熱家な一方、せっかちで歯に衣を着せぬ毒舌家。
頭の回転も早いがそれ以上に口が速く、その様は嘉納治五郎から「口が韋駄天」と呼ばれるほど。
実は金栗四三よりも先に第1話で登場しており、そこから細々と「東京オリンピック招致チームパート」として出番があったのだが、
正式に主人公となった「田畑編」開始の第25話にしてこの有様である。
また言葉が追い付かなくなると「アレ、ソレ、ナニ」などの代名詞だらけになることも。
熊本訛りが強かった四三とは逆に普段の口調は標準語に近いが、捲し立てる際に語尾に「~じゃんねぇ」をつけるなど、遠州弁を使用することもある。
興奮しすぎると火のついた煙草を逆さに持ってしまう癖があり、その度に口を火傷してしまっている。
いわゆる一つの「粗忽者」。
そしてその破天荒な性分から、割と敵を作りやすい。
しかしその一方でカリスマ性もあり、彼を慕いついていく者も多い。
落語は圓生派で、志ん生は大嫌い。
実は少年時代にどさ回り中であった「若き日の古今亭志ん生」こと美濃部孝蔵の落語を「長い文章を頑張って憶えただけ」と酷評したことがある。
また孝蔵に財布を置き引きされた事もあり、何かと因縁が深い間柄。
帝国大学卒業後、朝日新聞社に入社。
就職試験でオリンピック第8回大会で日本水泳代表が敗れた原因が日本に温水プールがないことであることを熱く語り、面接にあたっていた朝日新聞社社長の村山龍平や編集局長の緒方竹虎をドン引かせたが、村山の「顔がいいから」の一言で採用された。
入社後、本人の希望により政治部に配属される。
が、水泳日本の名を世界に轟かせるため、仕事の合間を縫って、というより仕事をほぼそっちのけ状態で、「体協」から独立した水泳の競技組織「日本水泳連盟:水連」を結成する。
アムステルダム五輪では、資金難に喘いでいた体協の岸清一から「自分で金を持ってこい!!」と言われ触発され、
政友会を率いる重鎮・高橋是清に直接会いに行き、そのせっかちさに閉口されつつも、多額の遠征資金を高橋から受け取る事に成功する
そして体協名誉会長・嘉納治五郎から目を付けられる事になる。
1932年のロサンゼルス五輪では日本水泳選手団の総監督として同行。
平和の祭典であるオリンピックに魅了されると共に、同大会での選手達の快挙を見届ける。
ロス五輪から帰国後、(田畑本人は最初は知らなかった上に多忙を理由に行かなかったのだが)お見合い相手であり職場で兼ねてから交流もあった酒井菊枝と結婚する。
1936年のベルリン五輪でも引き続き総監督で同行するが、
これまでにない盛大な大会でありながら、ナチスによる「人種差別」「オリンピックの政治利用」に違和感を感じ、危機感と嫌悪感をあらわにする。
帰国後は嘉納に引き入れられ「1940年東京五輪」の招致活動に携わり、杉村陽太郎や副島道正の奮闘ぶりを見守っていく。
しかし、軍の介入が色濃くなる日本の情勢と、日中戦争の開戦によって戦争の当事者となった日本でオリンピックが行われるという現実と矛盾に苦悩することとなる。
朝日新聞社の元同僚・河野一郎や四三との問答、そして妻・菊枝からの言葉を受け、嘉納に五輪返上を直談判するも断られ、そのまま袂を分かってしまい、嘉納は帰国の途上で死去。死に別れてしまう。
嘉納の訃報を聞き駆けつけた際には、嘉納を看取った平沢和重から嘉納の形見であるストップウォッチを託され、彼の遺志を引き継ぐこととなる。
やがて「太平洋戦争」が激化。
「学徒出陣法」が施行され、雨の神宮競技場で学生達が戦場へと送られていくのを見送りながら、「いつか必ず東京でオリンピックを行う」という決意を新たにする。
終戦後、松澤一鶴や東龍太郎らと共に体協を再建し、自らは水連の理事長に就任。
1948年のロンドン五輪に対抗する形で「裏オリンピック」こと日本選手権を同時期に開催。
翌年にはマッカーサーへの直談判をし、水連の国際水泳連盟への復帰を果たす。
その後は「東京オリンピック」を再び招致するため奔走し、
家族に相談なしで新聞社を退職したり、選挙に立候補して落選するなどの紆余曲折を経ながらも、
1959年に行われたIOCミュンヘン総会にて、悲願の東京オリンピック招致を成功させる。
オリンピック組織委員会発足時に「事務総長」に就任。
開催に向けての運営に着手するが、その過程で川島正次郎を始めとする政治家たちと対立。
インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会での参加を発端に発生した政治スキャンダルに巻き込まれる形で、事務総長を解任させられてしまう。
事務総長解任後は塞ぎ込んでしまうものの、岩田幸彰や松澤らと自宅でオリンピックについての議論を交わしていくうちに元気を取り戻し「裏組織委員会」とうそぶきながら、間接的な形で組織運営に携わっていく。
聖火リレーの最終ランナーの人選を巡り、政府や組織委員会が難色を示した際には、
その様に業を煮やし五輪組織委員会へ殴り込み、
アメリカの顔色をうかがう様子を見せる組織委員会を前にして、
アメリカにおもねって
原爆に対する憎しみを口にし得ない者は
世界平和に背を向ける卑怯者だ!!
と強く主張した。
以降は退いた身でありながらも組織委員会を頻繁に訪れるようになる。
1964年10月10日。
東京オリンピック開会式当日。
一番乗りで会場に赴き、同じく一番乗りをしていた金栗四三と再会し、ひとときの会話をし、
そして運営に奔走する岩田や松澤らを手伝いながらも開会式を観覧。
その後、「ぐっちゃぐちゃな閉会式」を含めた全ての日程を見届けた。
東京オリンピック後は「水連の名誉会長に就任」し、再び「河童のまーちゃん」として後進の育成に力を注いでいった。
史実の「田畑政治」の生涯
1898年(明治31年)12月1日、静岡県浜松の裕福な造り酒屋「八百床」の次男としてに生まれる。祖父は55歳、父親は43歳で結核により死去しており、田畑家は男が短命の家系であった。政治も例外ではなく子供のころから病弱であり、周りからは「あいつも30までには死ぬだろう」と言われていた。
そのため政治は田畑家が所有していた浜名湖にて 水泳をすることで体を鍛え、いつしか浜松でも有数のエース選手へと成長していた。しかし15歳の時、慢性盲腸炎と大腸カタルを発症。これにより政治は選手生命を絶たれることとなった。
浜松の水泳を日本一に
選手生命を絶たれた田畑はその後指導者として浜松の水泳を日本一にすることを決意する。1916年には周辺の学校の水泳部と「浜名湾遊泳協会」を設立する。そして当時の日本一だった大阪の茨木中学校打倒を目標に掲げ、日本泳法が主流の中でクロールの導入、海水プールの設立、全国大会の誘致などを行い1922年に浜名湾遊泳協会は茨木中学を制し日本一に輝いた。
その後田畑は東京帝国大学に入学するが、毎年の休みには浜松に戻り後進の育成に専念したという。
朝日新聞に入社
1924年、東大を卒業した田畑は「政治に興味がある」という理由で朝日新聞に入社。政治経済部部長、東京本社代表、常務へと出世し1952年に退社した。ここでは二・二六事件の際に体当たり取材をし、朝日新聞が右翼の襲撃を受けるような新聞記事を書いてしまった。また記者時代には鳩山一郎にも気に入られたという。
1933年に田畑菊枝と結婚をした。
余談だが朝日新聞には、同い年で、田畑とは反対で陸上競技出身であり、後にオリンピック担当大臣となる河野一郎が在職していたが、田畑と河野はこの頃は全く面識がなかったという。
日本の水泳を世界一へ
田畑は日本水上陸上競技連盟を設立し、理事長に就任する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは33歳の若さにして日本水泳選手団の総監督を務める。
この時政治は
- 水泳組織の一本化
- 専用プールの建造
- 信頼できる監督を早い段階で決め、全権限を与える
- アメリカのベストチームをあらかじめ日本に招き、地の利をいかして徹底的に倒して戦意をくじかせる
といった目標をかかげ、すべて達成した。この甲斐もあり、日本水泳選手団は金5個、銀5個、銅5個のメダルという驚異的な結果を残す。
その後のベルリンオリンピックでも日本は連覇を成し遂げ、日本の水泳は世界一となった。
日本水泳の国際復帰への尽力
第二次世界大戦で敗北した日本はオリンピックへの参加も認められていなかった。田畑は日本水上陸上競技連盟を日本水泳連盟に改称し理事長に就任、国際水泳連盟への復帰を目指して水泳の復興を目指す。
日本オリンピック協会(JOC)の総務主事に就任した田畑は1948年のロンドンオリンピックへの参加を企画するが、先の大戦の元敵国であったためイギリスにやんわりと断られてしまった。その上「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進(ちなみに田畑と同じ浜松出身)が当時の世界記録を樹立するも国際水泳連盟に参加していなかったという理由でなかったことにされた。これにブチギレた田畑は日本で全国水泳大会を開催する。それもロンドンオリンピックの水泳競技と同日同時刻同種目で行うという徹底ぶりである。これで日本の水泳選手はロンドンオリンピックの金メダル記録を大きく上回る結果を出し、世界に実力を知らしめた。この作戦は功を奏し、日本は国際水泳連盟及び国際オリンピック連盟(IOC)への復帰を認められた。その後も全米水上選手権に古橋廣之進などの選手を派遣し、日本の復権に務めた。
これらの功績により田畑は日本が復帰した最初のオリンピックである1952年ヘルシンキオリンピック、復帰して二回目の1956年メルボルンオリンピックでは選手団の団長を務めた。
東京オリンピックの招致
田畑は1960年のオリンピックの開催地がローマに決定したため、1964年のオリンピックの開催地を東京に招致することを計画する。スピーチを任せた元外交官の平沢和重の活躍もあって他の立候補都市に圧勝し、1964年のオリンピック開催地は東京に決まった。
田畑は東京オリンピック組織委員会の事務総長(事実上のトップ)に就任し開催準備で辣腕を振るう。
開催準備の他にも、田畑の指揮により後に金メダルを大量にとる柔道と「東洋の魔女」と恐れられる女子バレーの正式競技採用を承認させた。
しかし1962年、「第4回アジア競技大会」で開催国のインドネシアが、台湾とイスラエルの参加を拒否するという問題が発生、IOCがこれを問題視し「本大会を公式大会と認めない」と発表したため大問題となった。結局日本は大会に参加したが終了後、参加を決定した田畑に批判が殺到。また度重なる失言により1962年10月2日、田畑政治は事務総長を辞任せざるを得なくなった。
この時の心境について田畑は「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と語っている。
晩年
事務総長の座を追われた田畑はそれからの人生をスポーツ振興に捧げる。1972年の札幌オリンピック開催への協力やJOCの10代目の最高責任者への就任、中国のIOC復帰への協力、東京オリンピックで惨敗した日本水泳の復興のため後に北島康介を始めとする多数のオリンピック選手を輩出する「東京スイミングセンター」の設立、同施設の初代会長への就任などを行った。後年はパーキンソン病を患いながらも最晩年まで活動を続けた。
1984年の夏に田畑は危篤状態に陥る。あと「何日生きれるかわからない」という状態の田畑だったが、かつての部下であった岩田幸彰が病室にテレビを持ち込み、2回目となるロサンゼルスオリンピックの中継を田畑に見せる。それを見た田畑は奇跡的に回復し、閉会式を見届けて2週間後の8月25日に死去。享年85歳。最期までオリンピックへ情熱をささげた人生であった。
死後、田畑の棺桶にはオリンピックの旗が巻かれた。
史実と本人との比較
史実と本編の内容を比べると、
金栗四三とは異なり、田畑政治が実際に行った事だけではなく、「史実で起こった事象に田畑政治を関わらせる」という形で物語が綴られていっている。
例えば「1940年東京オリンピック招致活動」には、田畑政治は実際にはここまで深く関わっていない。
また田畑政治は実際にはムッソリーニに直接会っていないし、ヒトラーには面会した可能性があるが「本作品の邂逅シーン」は創作されたものである。
その辺りは史実を調べて比べてみるのも一興だろう。
その一方で、
超せっかち、超早口かつ超毒舌、基本的に全方向に超失礼。
という恐ろしく強烈なキャラクターが賛否を呼んだが、
この言動及び行動は、
生前の田畑政治を知る人が「化けて出たかと思った」ほどの史実準拠であったりする。
「化けて出た!」「いだてん」阿部サダヲは史実に忠実?:朝日新聞デジタル
そして先述した、本編で使われた、
世界平和に背を向ける卑怯者
の一連のセリフは、
東京オリンピック閉会式の翌日に、田畑政治が朝日新聞に寄稿した記事の中にあった、とある一文から用いられている。
【該当の一文の記事画像掲載】『いだてん』田畑は東京五輪とどう関わったか - 前田浩次|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
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