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イタリアの姓の一つ。

ほとんどの場合、同国の政治家独裁者ベニート・ムッソリーニのことである。


経歴編集

フルネームベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ』。

鍛冶屋の父と教員の母の間に生まれ、師範学校を卒業して暫くは教員をしていたがやがてスイスに移住して職を転々とし、その間に政治思想を深めて行き、労働運動に参加。やがて帰国して徴兵から復員後、教師に復職し並行して政治機関紙の活動から政治活動を始めていく。

若き日はレーニンとも親交を深め、イタリアを代表する共産主義者として知られた。


第一次世界大戦を機に愛国主義に傾倒し、第一次世界大戦での中立を唱えるイタリア社会党の方針に反して参戦を主張した為に党から除名された後、社会主義とナショナリズムを混ぜ合わせた独自の思想「ファシズム」を提唱。ファシズムを奉じるファシスト党を率い、1922年のローマ進軍で政権を奪取。1943年までイタリア王国首相・国家統領(ドゥーチェ)として同国を独裁的に支配した。ファシストの政権獲得の手法は、ドイツアドルフ・ヒトラーが大いに参考にした。


ファシスト・イタリアはマフィアを徹底的に取り締まり、失業者の溢れる農業国だったイタリアは目覚ましい工業化を遂げた。このため、ムッソリーニの経済政策はイギリスチャーチルなどの人々からも称賛された。


だが、世界恐慌の影響で失業者が再び急増し、財政的にも行き詰まったため、ムッソリーニは事態打開のため軍事力による対外進出を試みる。ナチス・ドイツおよび大日本帝国日独伊三国同盟を結び、枢軸国として第二次世界大戦に参戦したが、敗色濃厚となった1943年に解任・逮捕される。その後ドイツの特殊部隊により救出され、ドイツの後ろ盾の元に亡命政権イタリア社会共和国(RSI)をイタリア北部に設けたが1945年に敗北とともに処刑された。


人物編集

性格は内向的な面なものの、プライドが高く、不愛想で、暴力的な面もあって寄宿学校時代は教師や寄宿生と激しく衝突したという。


ムッソリーニは同時代においてかなりの教養人であり、語学にも堪能、スポーツ万能多くの女性と浮き名を流した。教員資格を持っていて、小学校教師を務めてもいた。その思想は意外にもわりとリベラルであり、好きな本の乱読で偏った知識を得、スポーツをせず、女性に奥手だったヒトラーとは対照的である。


鍛冶職人の父親が社会主義者であり民族主義者であったことから、彼もその影響を強く受け、急進的なイタリア社会党を支持し、教職を辞めて、兵役逃れもあってかスイスに在住していた時には、亡命中だったレーニンに彼の秘書アンジェリカ・バラバーノから紹介され、レーニンはムッソリーニを高く評価し、ムッソリーニがイタリア社会党から除名されたと聞かされたレーニンは「あの坊主を除名するとは諸君は気でも触れたか」と惜しんだと言われる。


ナチス・ドイツ総統のヒトラーはムッソリーニへの尊敬を公言していたが、ムッソリーニは当初はヒトラーに無関心で、1934年7月にオーストリア首相で友人のエンゲルベルト・ドルフーズをナチスが暗殺した折には反感を抱き、オーストリアに侵攻すれば宣戦布告するとドイツを脅すほどであった。

しかし、もともとアフリカとバルカン半島に新生ローマ帝国を築く国外での拡張政策を目論んでいたムッソリーニは1935年の第二次エチオピア戦争によるエチオピアへの侵攻でイギリス、フランスと対立したあたりから、同じく欧州で孤立するドイツと接近するようになり、1940年9月の日本を含めた三国同盟に結実する事になる。

だが思想まで同じというわけではなかった。ナチス・ドイツとファシスト・イタリアは同盟関係を結んだものの、ムッソリーニ自身はユダヤ人に対する発言・政策は二転三転するものであり、社会主義国の指導者の大半はユダヤ人と非難するかと思えば、ナチスの反ユダヤ政策に対してヒトラーの人種論を公然と批判し、ドイツとの関係が緊密になると1938年からの人種法でイタリア人、ユダヤ人、アフリカ人間での結婚を禁止し、ユダヤ人を銀行、政府、教育、軍隊から追放し財産を没収するようになるが、ムッソリーニ自身はユダヤ人に好意を抱く事は無くとも敵意を抱く程の感情はなくあくまでも政治的な理由であったとされる。またファシスト党員からも人種法は不評であり、ドイツに対しても同じカトリックのポーランドを攻撃した事で反感を持つイタリア国民も多かったと言われ、ドイツからもムッソリーニはユダヤ弾圧政策に本気では無いと見なされていた。


当初は厄介事に巻き込まれる事を怖れドイツとの同盟に乗り気ではなく、同時参戦義務も1943年までに延長したムッソリーニであったが、第二次世界大戦が勃発すると、欧州を席巻する勢いのドイツの快進撃を見て「バスに乗り遅れるな」とばかりに反対する軍部の意見を無視して参戦してしまう。ところが明らかに準備不足のまま参戦したため、虫の息のはずのフランスに撃退され、エジプト侵攻も後に反撃を受けアフリカ植民地の殆どを喪失し、ヒトラーの反対を無視してまで始めたギリシャ侵攻も失敗した。こうして、ファシストとしてヒトラーの先輩であったムッソリーニの彼との関係は次第に逆転し、イタリアはドイツに従属的な立場となり、ムッソリーニ自身とファシスト・イタリアの破滅へと突き進むことになる。


第二次エチオピア戦争、スパイン内戦への介入などで多額の費用を使い、それだけ軍隊の近代化、戦争への準備が遅れ戦争できる状態でなかったイタリアを目先の利益で参戦させたムッソリーニだが、スペイン内乱での国家の疲弊状況を理解し、ヒトラーからの再三の参戦要求に決して乗ろうとせず義勇兵だけを独ソ戦で送り、それも枢軸側が不利になるや撤退させるという処世術で生き残ったスペインのフランシスコ・フランコとは対照的であり、ムッソリーニにもフランコのような視野と自制心があればまた違った結末を迎えられたかも知れない。


また、現在も同国内では一定の支持あるいは評価をする層がある点は、ヒトラー政権とは大きく異なっている。なお、孫娘で元女優のアレッサンドラ・ムッソリーニは現在イタリア下院議員・欧州議会議員であるが、祖父譲りの強硬な政治思想を持ち、「ホモやオカマよりもファシストになる方がよい」という同性愛へのヘイトスピーチなどで問題視されたことがある。


関連タグ編集

ファシズム 全体主義 社会主義 イタリア王国

ムッツリーニ:『バカとテストと召喚獣』の登場人物、土屋康太のあだ名。

ヘタリア とはいえ、日独のように国土の大半が灰にはならず、ムッソリーニを生贄として吊るしたことでちゃっかり戦勝国のような顔をしている点は、ヘタレというよりはかなり有能である。

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