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イタリア社会共和国

いたりあしゃかいきょうわこく

イタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana)は、ナチス・ドイツが占領したイタリア北部に設置したファシストの傀儡国家。
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※現時点で略称RSIの方が多いですが、ひとまず正式名称で作成しました。

概要編集

 イタリア社会共和国、略称RSI、俗称「サロ共和国(Repubblica di Salò)」は、1943年9月にナチス・ドイツの占領下に置かれたイタリアの北部・中部に成立したファシスト傀儡政権

(Pauley, Bruce F. (2003), Hitler, Stalin and Mussolini: Totalitarianism in the Twentieth Century Italy (2nd ed.), Wheeling: Harlan Davidson, с. 228)

 この国家は1943年9月23日から1945年4月25日まで、ドイツ陣営の枢軸国として存続した。政府所在地はガルダ湖畔のサロ(1944年以降はミラノ)で、国家元首は1943年7月25日に解任されたイタリアの独裁的な主席宰相、ベニート・ムッソリーニだった。共和国はイタリアに成立した第二にして最後のファシスト国家であり、1945年4月29日、イタリア北部に展開していたドイツおよび共和国イタリア戦力の降伏文書が調印され、発効した結果、同年5月2日の夜、存在を停止した。

公用語イタリア語
首都法律上、ローマ 事実上、サロ(後にミラノ
中央官庁所在地サロ(1943~1944)→ミラノ(1944~1945)
国家形態共和制独裁制
統治システムファシスト一党制
面積およそ16万7600平方キロメートル(1943年)→9万8500平方キロメートル(1944年末)
総人口およそ2660万人(1943年)→およそ1730万人(1944年末)
貨幣法律上、共和国リラ 事実上、イタリア・リラ
設立1943年9月12日
存続期間1943年~1945年
国歌ジョヴィネッツァ」(Giacomo De Marzi, I canti di Salò, Fratelli Frilli, 2005)
国民の祝日9月23日(1943年の国家の成立)

前史編集

 1943年7月10日、ハスキー作戦により連合国シチリア島侵攻が開始された。7月22日、パレルモが占領され、その後7月25日、ファシスト大評議会(Gran Consiglio dell' Fascismo)は、最高国家機関としてムッソリーニの不信任を提示し、彼をドゥーチェとしての地位から実質的に退けた。ムッソリーニが彼の主席宰相としての地位からの解任を申し出るべく、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問した際、彼は逮捕され、軍の最高指揮権を放棄すること、そしてピエトロ・バドリオ元帥に新たな軍事政権の形成を委任することを迫られた。バドリオ元帥は直ちに国家ファシスト党(Partito Nazionale Fascista, PNF)およびその支部すべての法に基づく解体を宣言した。1943年9月8日、ムッソリーニの後継バドリオは、現職の主席宰相として、連合国との単独の停戦を締結した(カッシービレの停戦)。その後、ドイツ国防軍による北部イタリアその他の地域の占領が行われた(„Fall Achse“、「枢軸作戦」)。占領は、イタリアの「枢軸」からの最終的な離反を防ぐとともに、戦争上重要な北部イタリアの工業地帯を確保するため行われた。

RSIの設立編集

 ドイツの落下傘猟兵は1943年9月12日、親衛隊高級中隊指揮官オットー・スコルツェニー麾下のSS猟兵の同行のもと、「柏作戦」によってムッソリーニをアプルッツォ州のグラン・サッソでの拘束状態から救出することに成功した。

 退けられた独裁者はミュンヘンから、一連の事件の結果として、その間に解体されていたファシスト党(Partito Nazionale Fascista, PNF)の再建を宣言した。

(Conrad F. Latour: Südtirol und die Achse Berlin - Rom 1938-1945, S. 118)

 ムッソリーニは、イタリア戦闘ファッシ本来の1919年の党綱領に、共和主義的な、そして社会主義的な内容に親和性のある要素を含めた改訂を行った後、1943年9月18日、北部および中部イタリアでも良好に放送を受信可能なミュンヘンの放送局において、来たるべきイタリア社会共和国の設立を宣言した。

(Gianluca Falanga: Mussolinis Vorposten in Hitlers Reich: Italiens Politik in Berlin 1933–1945, S. 229)

 イタリアにおける新たなファシスト国家は、当初ドイツ帝国および大日本帝国にのみ承認され、のちにブルガリアフィンランド満州国ルーマニアスロヴァキアハンガリーといった他の枢軸同盟国からも承認を受けた。その他、サンマリノスイスといった若干の中立国も承認を行った。ヴァチカンも短い躊躇の後、RSIを外交的に承認した。

 新政府の設立会議は、ローマにあるドイツ大使館において開催された。まだドイツにおり、従って直接出席していなかった(アレッサンドロ・パヴォリーニが代行した)ベニート・ムッソリーニは、国家元首、閣僚会議議長、そして外務大臣に任命された。新たに作られた「共和ファシスト党(Partito Fascista repubblicano, PFR)」は、アレッサンドロ・パヴォリーニに率いられることになった。

 最初の外交的な(そして恐らく何よりも最初に行った)行動は、国土の南部により広く存在しているイタリア王国への宣戦布告だった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の下、連合国の後援を受けるイタリア王国は、RSIを公式には承認しなかったものの、事実上の国家承認に等しい、宣戦布告によって応じた。

 1943年9月27日、RSI政府はガルダ湖畔のサロを新たな所在地として指定した。新たな官庁施設はその大部分が直接の近隣に置かれることになった。土地の選出は、戦略的に都合のよい条件に基づいていた。近隣にはRSIおよびドイツのため生産を継続する兵器工廠(その中にはガルドーネ・ヴァル・トロンピアのベレッタも含まれる)、製鋼所、鉄鋼加工産業が多く存在していた。また、ドイツ国境に近い、重要な工業センターの一つであるミラノが近くにあることもその利点の一つだった。国土はアルプス山脈に守られ、フランスからもアドリア地域からも十分に遠ざかっていた。サロ(そしてミラノも同様に)はそういった事情からイタリアの最後の領土の心臓部に位置し、生産と貿易を(その後者がしばしば大部分がドイツ帝国とのものであったにせよ)強行することが可能な状況にあった。

国土編集

 RSIは、イタリアがドイツ側の国として参戦した1940年時点の国境線にあたる、北西部やイタリア諸島も含めるイタリアの全領土を要求していた。

 国土は事実上、イタリア半島の、ドイツ国防軍に占領される限りを含んでいた。当初、戦線はローマの南にあった。ムッソリーニの希望により、戦線に近いという理由から、イタリアの首都はもはや政府所在地ではなくなり、RSIの法律上の首都とされた。RSIの国土内の、いわゆる作戦区域には、RSIの官庁の管理が及ぶことはなかった。

作戦区域編集

 1943年9月12日には、アルプス主稜線はドイツによってアルプス前山作戦区域(南チロル、トレント、ベッルーノ)およびアドリア沿海地方(ウーディネ州、ゴリツィア、トリエステ、プーラ、そしてフィウーメ)へと編成されていた。公式にはそれらの地域は継続してイタリア社会共和国に所属したが、ドイツの軍政が布かれていた。隣接するドイツ帝国のチロルおよびケルンテン大管区長官、ヒトラー直属のフランツ・ホーファーおよびフリードリヒ・ライナーがそれらを統括した。後にスイスおよびフランス国境に接する、北西アルプス作戦区域が追加された。トリエステには特許として特殊協定が認められた。

 ライナーは知事や市長をドイツ人の「顧問」に従属させ、占領者として行動中のイタリア人スロヴェニア人、クロアチア人の地方の民兵の出撃のための規則を様々な名称の下に形作った。ファシスト民兵の様々な部隊はSSの勤務に充てられ(この場合、彼らは「共和国国民民兵」の代わりに「領土防衛民兵」の名を冠されていた)、さらに様々な警察部隊が加わり、彼らは特に逮捕に従事していた。

パルチザン地域編集

 連合国軍の進出により、RSIの国土は1944年末には主にイタリアの北部から成り立っていた。戦争の最後の数か月、ファシストの支配下で存続していた領土の範囲は、パルチザンの地域的活動によって減少していた。

国家機構編集

 イタリア社会共和国は、引き続きファシストの一党制国家として成立していた。Partito Nazionale Fascista(PNF)が解体されたのち、ムッソリーニは新たなファシスト党、Partito Fascista Repubblicano(PFR、「共和ファシスト党」)を創設した。最高国家機関は社会共和国閣僚議会(Consiglio dei Ministri)で、ムッソリーニは国家元首、内閣主犯、また外務大臣を務め、事実上無制限の権力を所有した。

 国家は憲法が欠落していたことで(イタリア王国と同様に)事実上の政府であると位置づけられ、事実上の執行権という基盤によってのみ統治した。ドイツ帝国に当初求められた憲法は確かに完成していたが、代表者の議会によって議決されたものではなかった。1943年10月13日、国家権力が国民を基盤としている憲法を仕上げる、直接の憲法制定会議が近日中に招集されると告知された。しかし、最初の会議がすでに1943年11月14日にヴェローナで開催された後、ムッソリーニが連行されたことによって延期され、ムッソリーニは戦後に改めて会議を招集することを決定した。

 イタリアが以前にはドイツの同等の大国として、自主的な政治を行う同盟者という地位を持った一方、サロ共和国はむしろ傀儡国家だった。1943年以前はイタリアのファシスト政体が受諾しなかった、いくつかの大ドイツ帝国のユダヤ人法が導入されることになった。

 それでもなお、イタリア社会共和国は、内政の分野において最大のフリーハンドを有していた点で、事実上の能力ある国家としてみなされねばならない。社会共和国は国家の典型的な指標として、例えば、いくつかの通貨、郵便制度、登録標識(1945年以後も有効だった)、ラジオ放送、郵券、立法、公の行政、裁判権を有していた。無論、多くの公共機関は部分的、もしくは完全に軍事的な構造を付与されており、例えば消防士(Vigli del Fuoco, V.d.F、多くPompieriと呼ばれた)は絶えず武装し、その職員は誰でも出動の際、銃を背に負った下士官が随行していた。いくつかの警察部隊(Guardia Nazionale Repubblicana, G.N.R.)は、依然として続いている財務警察(Guardia di Finanza, G.d.F)および、また別の小規模な共和国警察という名で存在した。後者は公安に由来し、多くの都市において優勢を保っていた(今日の国家警察の前任)。同様にRSIはいくつかの諜報機関も定めていた。社会共和国は、ムッソリーニが当初彼の命令で解体し、GNRで代用していたために、カラビニエリを持っていなかった。リビアからのイタリア領アフリカ警察(Polizia dell'Africa Italiana, P.A.I)は、イタリアがその植民地をすでに喪失し、この組織の残りがGNRや他の部隊に統合されていたにもかかわらず、継続して公式に存在していた。

 国家規模の軍国主義の強行は、度重なる行進や軍事パレード以外でも発揮され、事実上、公共生活のあらゆる領域に影響していた。一貫して、すべての公務員は制服を着用させられることになり、学校でも制服が義務づけられた。1944年3月、ミラノ交通企業体(ATM Milano)の市電とトロリーバスの罷業によって、運営を維持するために、運転士と車掌は、兵士たちと黒シャツ隊に取って代わられた。似たような軍人の投入は、その後も兵器生産の持続のため行われた。

 イタリア社会共和国の政体は、どの観点においても、1943年以前のイタリアのファシスト政体より急進的・非妥協的で、事実上乃至想像上の政治的な敵対勢力ならびにパルチザンに対する過酷で抑圧的な迫害によって注意を引いた。新聞は厳しく検閲を受け、かつてのトリエステの精米所が政府の敵に対する強制収容所として用いられた(リシエラ・ディ・サン・サッバ)。少なからぬ歴史家が、RSIの政体を時折「急進的ファシズム」と呼び表している。イタリアのパルチザンの間では、RSIはLa fascistissima Repubblica(最もファシスト的な共和国)と呼ばれた。

ドイツの占領政策編集

 ドイツ人はバドリオの1943年9月の反ヒトラー連合との停戦によって、新たな北部のイタリア政府の機関すべてに対する強い不信を懐いた。第一に経済的状況、増大する住民の厭戦気分、そして強まる解放運動によって、時とともに能率が下降したことは、自分の司令部を持つ歩兵大将ルドルフ・トゥーサン麾下のドイツ軍行政官庁による、更なる執行権の行使に繋がった。占領された領土はドイツの戦争経済のため可能な限り搾取された。極めて重要なことは、イタリアの捕虜が、RSIの新戦力に加わっていない限り、強制労働従事者として用いられたことだった(1943年9月8日の停戦後に捕らえられたイタリア軍兵士がこの状況に置かれた)。1944年夏、42万人以上が強制労働に投入され、一部はドイツ国内の労働に向けて送り出された。ヴィアレッジョからリグリア海のペーザロに伸びる、270キロメートルのゴート線の要塞建築のため、5万人のイタリアの強制労働従事者が国防軍とトート機関により投入された。

イタリア人戦争捕虜の取り扱い編集

 1万1400人のイタリア軍勤務者が国際法に反した犯罪的命令によって落命した。4万4720人のパルチザンが、特に国際的に認められた規定を無視されて戦死した。9180人の男、女、子供の市民が殺された。多くの推定される重要な犯罪は資料によって裏付けられているが、すべてではない。数はそこからさらに上昇すると考えられている。

(Gerhard Schreiber: Deutsche Kriegsverbrechen in Italien. S. 8.)

 イタリア軍の指揮官は、その兵士たちが短時間で国防軍に武器を引き渡し、降伏することができなかった場合、非正規軍として射殺された。ハーグ陸戦規定により、これらの兵士たちは武装解除を行うべき交戦相手として認められ、非正規軍として扱われてはならなかった。これは、ヨーロッパ南東部の戦争犯罪を告発する捕虜裁判で明確に立証されている。

 ヒトラーの命令で、国防軍のいくつかの士官は、武器の引き渡しが行われ捕虜となった際、イタリア兵を射殺した。ケファロニア島で、第1山岳師団はすでに武装解除した5200人のイタリア兵を処刑した(ケファロニアの虐殺)。類似したイタリア人への大量処刑はアルバニアユーゴスラヴィアで発生した。そのうえ、イタリア領内で、ドイツ人による武装解除に抵抗した戦争捕虜の殺害事件も発生した。

 1944年3月4日の「弾丸布告」では、繰り返し捕らえられた、捕虜になって逃亡した士官と、勤務中でない下士官がゲシュタポに引き渡されることが予定されていた。ゲシュタポによって彼らはマウトハウゼン強制収容所に送られ、そこでうなじを撃ち抜かれ射殺された。大人数だった場合、ガス殺された。

 第22山岳兵団を指揮した将軍フーベルト・ランツの命令が述べているのは、市民の中で発見されたイタリア兵が形式抜きに射殺されるということだった。彼はそれによって、戒厳令の最も基本的な規則を無視している。

 1943年、ギリシア諸島から本土へと送り出された、過重負担をかけられた汽船の中で、1万3000人を越えるイタリア人捕虜が溺死した。船内の救助手段の有無についての配慮が欠けたこの命令は、極めて重要な戦時国際法違反を示している。

 ドイツ海軍最高指揮官、海軍元帥カール・デーニッツは、潜水艦の指揮官とその他のイタリア海軍の役職にある人々を、ドイツ海軍に対する戦闘行動に責任がある場合、即決裁判で有罪と判決されるよう命じた。この命令は、彼の部下たちに戦争犯罪に手を染めることを要求している。

 イタリア軍の60万人ほどの兵士が武装解除され、収容所に収監され、ドイツ帝国領内へ強制労働のため連行された。

 彼らは「軍事的被収容者」と位置づけられ、国際法で守られる戦争捕虜の地位を認められなければならなかった。彼らはまとめて「裏切り者」とみなされ、それゆえ時として東方労働者よりも劣悪な扱いを受けた。終戦までに、彼らのうち4万から4万5000人が死亡した。

(Gerhard Schreiber: Die italienischen Militärinternierten im deutschen Machtbereich 1943–1945, Oldenbourg, 1990, S. 507.)

 生存者は1944年になって市民の捕虜の地位に格上げされ、その後に状況が向上した。

(Gerhard Schreiber: Militärsklaven im Dritten Reich. In: Wolfgang Michalka (Hrsg.): Der Zweite Weltkrieg. Analysen, Grundzüge, Forschungsbilanz. Hrsg. im Auftrag des Militärgeschichtlichen Forschungsamtes. München 1989, ISBN 3-932131-38-X, S. 764 ff.)

ユダヤ人迫害編集

 ドイツ軍の入城により、イタリアにおけるユダヤ人迫害は新たな次元を迎えることになった。1943年9月、第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー親衛連隊」はラゴ・マッジョーレの虐殺において、マジョーレ湖に逃亡していたユダヤ人の家族を殺害した。10月及び11月、「ユダヤ人活動」がより多くの大都市で行われた。ローマのゲットーでは1200人が逮捕された。RSIは特に抵抗しなかった。1943年11月14日、新たな共和ファシスト党は、その公約においてユダヤ人を敵であると宣言した。それによって彼らは事実上の彼らの国籍を失い、最後に残っていた権利を喪失することになった。2週間後、新たな内務大臣、グイード・ブッファリーニ・グイーディは、全ユダヤ人の強制収容所への収容と、資産の国家への没収を命じた。ユダヤ人はイタリアの治安部隊に逮捕されるようになり、収容所へと移送され、その後に彼らの移送を組織するドイツ人に引き渡された。多くの輸送はテレジーン、一部はアウシュヴィッツへと向けられた。ほとんどのユダヤ人は帰って来ることがなかった。多くの被逮捕者は、密告に基づくものだった。一方、少なからぬユダヤ人が姿をくらましていた。ローマでは4000人以上のユダヤ人がヴァチカンカトリック教会施設に避難所を見出した。

(Thomas Schlemmer, Hans Woller: Der italienische Faschismus und die Juden 1922 bis 1945. Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, München 2005, S. 164–201)

抵抗運動と解放編集

 南部の連合国の包囲に拍車をかけられ、パルチザン運動は有意義な規模まで拡大した。1944年の末には15万人の戦闘員がいたと見積もられており、一時的にはより多くの領土をファシストから解放した。彼らは当初は部隊規模でのみ活動し、のちに彼らは旅団や師団の規模を編成するようになった。1944年3月には、彼らは国防軍およびSSとのピエモンテにおける数日間の戦闘を展開し、4月にはヴァルセージア、5月にはヴェネツィアで戦っていた。攻撃作戦により、パルチザンたちはアルプスやアペニンの谷間、ジェノヴァとピアチェンツァの間、サヴォーナとサンレーモの間、コンシッリョとフリウリの台地にさらに多くの解放区を作り上げていた。ドイツ軍、またRSI軍は、解放運動に対して無差別の大規模テロで反応し、即決裁判所や特別裁判所が彼らの撲滅に努めた。1944年の秋、SS大隊指揮官ヴァルター・レーダー麾下第16SS装甲擲弾兵師団「ライヒスフューラーSS」は、パルチザン旅団「ステッラ・ロッサ」に対する作戦をアペニン山脈で展開し、それによって彼らはマルツァボットで子供500名を含む1830名を殺害し、800の家屋、9の教会、5つの学校、製紙工場と精米所を破壊した。彼らはオッソーラ・パルチザン共和国及びカルニアの解放区を占領することに成功していた。1945年2月の半ばまでに、広範囲のストライキ運動が始まった。当初はリグリア、のちにトリノ、そしてミラノで発生していた。それらの地域では、官僚機構は実質的に崩壊していた。3月から4月にかけて、パルチザン部隊は広範囲にわたる攻勢へと移行した。1945年4月18日、トリノでパルチザンの支援を受けたゼネストが始まった。北イタリアのほぼ全土を武装蜂起が掌握した。パルチザンは連合軍の到来よりも前に、多くの地域を解放していた。4月21日、ボローニャのドイツ軍をアメリカ軍が攻撃し、その市街戦にはパルチザンも参加し、後日には市内でパレードを行った。後に解放の日となった4月25日、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニは連合国の接近によってサロを逃れた。同日、パルチザン旅団と暴動の前に、ジェノヴァのドイツ軍は降伏した。ミラノは次の日にはパルチザンに解放され、トリノにおける戦闘は4月28日まで継続した。ヴェネツィアでも4月28日に武装蜂起が勝利を収めた。5月3日までに、ピアーヴェ、タルヴィージオ、そしてフリウリが解放された。ドイツ軍が1945年4月28日に連合国に降伏する以前(サンライズ作戦)に、パルチザン部隊によってすでに多くの国防軍の師団が武装解除されていた。1945年5月2日、降伏が発効した。トリエステの後背地では、イタリア人SS部隊とパルチザンとの戦闘が1945年5月5日まで継続した。

RSIの終焉編集

 いつRSIが正確に存在を停止したか、一つの日時を明確に確定はできない。多くは、イタリア側から公式に、RSIが政治的に終焉を迎えたとみなされる1945年4月25日としている。ムッソリーニが政府全権を大蔵大臣ドメニコ・ペッレグリーニ・ジャンピエロに委譲し、ドイツへの逃亡、もしくは黒シャツ隊の最後の部隊および武装親衛隊と共に、神話的な最後の決戦を指揮すべく山岳地帯へとミラノの司令部を発った日、国家はゆっくりと分解を始めていた。4月26日、護送中のムッソリーニはパルチザンに捕縛され、1945年4月28日に射殺された。イタリア社会共和国は、1945年4月29日のイタリア北部における社会共和国およびドイツ戦力の降伏が有効になり、RSIの事実上の国家としての終焉となった1945年5月2日から3日4時30分の夜、公式に存在を停止した。

RSIの旗編集

 社会共和国の旗は、有名なイタリアのトリコロールに、サヴォイア家の紋章を比較的大きな翼を広げ、金の束桿を両足で掴んだ灰色のに取り換えたものだった。この旗は実質あらゆる機会に用いられ、特に軍旗として営舎でも戦場においても使われた。公式に同じく存在していた国旗(今日まで存続している1948年に成立した共和国の旗に合致する、中部の国章のないトリコロール)はほとんど何の役割も持たず、公式には全く用いられなかった。しかし、ギザギザの金縁のあるものは共和国空軍(A.N.R.)の徽章として用いられ続けた。

イタリア的落書き

RSI政府編集

国家元首ベニート・ムッソリーニ1943年から1945年
外務大臣ベニート・ムッソリーニ1943年から1945年
国防大臣ロドルフォ・グラツィアーニ元帥1943年から1945年
内務大臣グイード・ブッファリーニ=グイーディ1943年から1945年ヴァレリオ・ゼルビーニ1945
法務大臣アントニーノ・トリンガリ=カサノヴァ1943年ピエトロ・ピセンティ1943年から1945年
財務大臣ドメニコ・ペッレグリーニ・ジャンピエロ1943年から1945年
産業大臣シルヴィオ・ガイ1943年アンジェロ・タルキ1943年から1945年
公共事業相ルッジェロ・ロマーノ1943年から1945年
運輸大臣アウグスト・リヴェラーニ1943年から1945年
労働大臣※1945年に設置ジュゼッペ・スピネッリ1945年
国民教育大臣カルロ・アルベルト・ビッジーニ1943年から1945年
国民文化大臣フェルナンド・メッツァソーマ1943年から1945年
PFR指導者アレッサンドロ・パヴォリーニ1943年から1945年
PFR総書記アキッレ・ストラーツェ1943年から1945年

軍備編集

 RSIは軍事的にドイツ帝国に依存したが、あらゆる兵科の戦力を備えていた。RSIの正規の武力は、およそ78万人を数えた。新制服では、「」を意味するStelletteと呼ばれる徽章が、ローマ帝国時代の両刃の短刀グラディオを伴った月桂冠に取り換えられていた。継続してドイツ帝国と結託した軍は、ドイツ語で「共和イタリア戦力(„republikanisch-italienische Streitkräfte“)」もしくは(戦後に)「共和ファシスト戦力(„republikanisch-faschistische Streitkräfte“)」と呼ばれた。イタリアではRSI地域における正規軍の構成員は「民兵(Militi)」と呼ばれ、それに対し南イタリアでは軽蔑的に「共和国人(Repubblichini)」の蔑称で呼ばれた。イタリア人SS参加者は公式には「軍団員(Legionari)」と称した。RSIの準軍事的な組織は、しばしばドイツ軍とともにパルチザン掃討に参加し、非公式に、戦後に重要な意味を持つ「ナチ・ファシスト(Nazifascisti)」と呼ばれた。

イタリアSS師団兵士

 RSI地上戦力の種々の部隊は、一部がドイツで訓練を受け、野蛮な戦争遂行で悪名を馳せた。多数のパルチザンが犠牲になり、連合国にも困難をもたらしていた。多くの場合、RSI地上軍はより小規模な作戦に参加し、連合国に対する大規模な戦闘単位に加わることはなかった。それは彼らの明白でファナティックな決意にもかかわらず、ドイツ人が彼らに十分に信用を置いていなかったことに由来していた。ムッソリーニの提案で、2個のイタリア人武装親衛隊師団の配備が計画され、その際に1個の第29武装擲弾兵師団(イタリア第1)が編成された。イタリア人のSS兵士たちは、第24山岳(カルスト猟兵)SS師団、またその他のより規模の小さな編成の中にも見受けられる。後者は特にトリエステおよびイストリア後背地の共産主義パルチザンに対し投入された。イタリアのパルチザンに対する戦闘行動は野蛮さを見せ、主として非戦闘員に対して政治的な画一的大規模テロを発動した。「スラヴ共産主義者(Slavocomunisti)」と呼ばれたユーゴスラヴィアのパルチザンに対する戦闘行動で、大規模な射殺や無意味な破壊を伴う極端な過剰暴力が揮われた。

正規軍編集

陸軍編集

 ロドルフォ・グラツィアーニ元帥麾下の国民共和国陸軍(Esercito Nazionale Repubblicano, ENR)は、その中核をドイツの捕虜になった以前のイタリア兵によって形成され、60万人を数えた。モンテローザ・アルプス師団を含む4つの歩兵師団、および民族的な地方守備隊を備えていた。RSI陸軍は大抵の場合パルチザンに対し投入され、時折は連合国に対し戦った。比較的小さな損失で、結局うまくいかなかったものの、彼らが連合国の上陸を撃退し、意外にも戦闘能力を発揮したアンツィオ=ネットゥーノの戦いが、RSI陸軍の「砲火の洗礼」になった。アメリカ軍に対する1944年冬のアペニン山中での連隊の攻撃は、実際に大規模に作り上げられた攻勢だった。RSI部隊はそれによって、実質的に連合国も驚かせる能力を見せた。兵士たちは一部はドイツで訓練され、自軍と、そしてドイツの武器を手にしていたが、保有する車両はイタリア製が優勢だった。

空軍編集

 国民共和国空軍(Aeronautica Nazionale Repubblicana A.N.R.)はしばしばドイツ空軍から独立して自主的な作戦行動をとり、連合国の爆撃機隊に対して戦果をおさめた。当初、彼らの装備は実質的にイタリア製の機体のみだったが、のちに彼らは次第にドイツの戦闘機を受け取るようになった。ANRの爆撃機と輸送機は大部分がドイツ空軍の部隊に配備され、輸送任務のため東部戦線へと向かった。特に一部の戦力は(すでに1943年以前のように)有力な空軍として出現していた。イタリアには2個のイタリアに属する航空戦力が存在していたが、「共同参戦軍(Aviazione Cobelligerante del Sud、英語の略称はICBAF)」とANRは全く別の戦域に振り向けられ、異なる重点を置いていたため、互いに対峙することはなかった。1944年の中頃、連合国の爆撃機隊は北イタリアでは絶え間ないANRの空襲により、北アフリカからのドイツへの接近を中止することを強いられ、もはやイタリア北部は連合国の爆撃機隊に対する入口の役割を果たさなくなった。ムッソリーニが死んだ1945年4月28日、ANRは最後の空戦を行った。ある部隊は新たに供与されたメッサーシュミットBf109K-4(Bf-109の投入された最終・最速モデル)を保有し、ベルガモにおけるアメリカのB26爆撃機に攻撃を加え、損害を得ることなく作戦を終えた。

RSI空挺兵士

海軍編集

 国民共和国海軍(Marina Nazionale Repubblicana, M.N.R)は、略して共和国海軍(M.R.)と呼ばれ、以前のレージア・マリーナに対し、重量級の船舶が欠落していたため、本質的により小規模で、根本的に高速魚雷艇や小規模な艦艇や潜水艦のみを有した。造船所には小規模部隊の他に重巡洋艦ゴリツィアと修理中のボルツァーノを有したが、これらは終戦まで出撃不能のままだった。より旧式の戦艦コンテ・ディ・カヴールはトリエステに修理中で、ドイツの手中にあった(彼女は1943年9月0日のイタリア占領により、ドイツの戦利品であると宣言された)。潜水工作兵(人間魚雷)のような特殊部隊と師団へと拡充された第10駆潜艇小艦隊(デチマ・マス)のような海軍歩兵は、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼの麾下、広範囲にわたりMNRから独立して連合国、そしてイタリアおよびユーゴスラヴィアのパルチザンに対し戦闘を行った。

ある海兵の肖像デチマ・マス師団海兵

予備勤務編集

 「予備勤務(Servizio Ausiliario)」はまた別の正規軍事組織で、1944年に特に人員の状況悪化によって生じた、女性による軍の扶助組織だった。女性隊員は、ドイツ国防軍の補助婦人隊と同様、あらゆる兵科、そして高射砲や防空隊などの支援のため勤務した。

準軍事組織編集

 正規軍と並び、若干の、より小規模の武装した準軍事武装組織が存在し、一部は軍事的にはわずかな価値しか持たなかったが、それゆえにより強く政治的に方向づけられていた。わずかに黒色旅団が戦闘部隊として用いられた。

黒色旅団編集

 「黒色旅団(Brigate Nere)」は、党の政治的な影響力を備える「ファシスト軍」を創設することを望んでいた、アレッサンドロ・パヴォリーニの思想に由来していた。この部隊は1944年7月30日の布告により、いわゆる黒シャツ隊への補充として編成され、1944年7月20日の、ムッソリーニ個人も衝撃を受けたアドルフ・ヒトラー暗殺の試みが影響していた。彼らは共和国の武装組織の、多少なりとも最後の創造物となった。彼らは連合国やイタリアのパルチザンのみならず、特に事実上乃至想定上の政治的な敵対勢力、ならびにファシズムへの帰依に疑わしいものがあるとみなされた一般市民に対する迫害と殺害を行った。その野蛮さで伝説的になったのは、共和国防衛軍は、無数の略奪、窃盗、横領、不法な逮捕、ならびに個々人や物品に対する暴力の事例を記録したが、それに反抗する何らかの企ては一つもなかった。黒色旅団はイタリア軍の制服を纏い、黒い身頃ならびに髑髏を徽章に用いた。その人数はおよそ7万8000人に達した。

黒い旅団

エットレ・ムーティ独立軍団編集

 「エットレ・ムーティ独立軍団(Legione Autonoma Ettore Muti)」は、1943年に暗殺されたPNF書記でイタリア王立空軍の有名な爆撃機パイロットエットレ・ムーティに由来し、ミラノで小規模の戦闘部隊として、ミラノおよび周辺において、特に抵抗運動の闘士やレジステンツァのパルチザンに対して配備された。

ある兵士の肖像

黒シャツ隊編集

 本来は1943年9月に解体された黒シャツ隊は、ファシスト民兵、またより以前にはイタリア語の略称で国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale, M.V.S.N.)と呼ばれ、RSIの終焉前に、短期間に小さい区域で新たに発生したが、軍事的というより政治的に方向づけられた、様々な労働力投入(特に、ストライキの無力化)に向けて訓練された戦闘部隊だった。

茉莉香、GNRレオネッサ部隊に入る

白炎編集

 ファシスト青年組織「白炎(Fiamme Bianche)」は、イデオロギー的というより政治的に方向づけられているが、ドイツヒトラー・ユーゲントと比較される。「白炎」の戦闘への投入は、わずかにしか知られていない。

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ソドム百二十日

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