関連語
ロシア語を語源とするインテリゲンチャでは無く、英語のインテリジェンス(英:Intelligence・知性や知力と訳される)の略語でもインテリと表現される場合がある。
ただし、日本国内においては後述の事情から単に『高学歴』で『それに見合った職業に就いている人物』というニュアンスで用いられるケースが多いのが実情である。
インテリとは
インテリ、すなわち知識人が、単なる物知りやオタクと違うのは、①細切れの知識を有機的に結びつけることができる論理的思考能力を持ち、なおかつ②それらを時代の流れの中に位置づけて捉える歴史観を持っていること。しかし、実はこれを両方できる人は、高学歴者の中でも少数派。歴史観らしきものを持っていても、だいたいは他のインテリの言説を受け売りしているだけである。
逆に、上記の2つの条件をそなえている人物であれば学校に行っていなくてもインテリたれる(もちろん、そのような人物はかなり希少である)。
原義としてのインテリから外れた恥知らずや半可通、日和見主義や無能な働き者な態度をとる者はエセインテリと罵倒されることも珍しくない。
日本国内における動向
インテリ=お金持ちの条件?
日本では大正期以降中流階級(サラリーマン、教員、中小地主、商店主、法律家など)が拡大し、インテリ的教養がエリート以外にも拡大していった。その大半は論理的思考や独自の歴史観を持つに至らない亜流インテリに過ぎなかったが、とはいえ知的教養が国民の間で広く共有された意義は大きかったと言えよう。さらに昭和末期には大学や大学院で多くの人が学問を修めるようになり、インテリと非インテリの知的格差は薄れている。
しかし、明治以降の日本においては学問が単なる就職や出世のための踏み台として利用される傾向が強く、本来知的階層が身に付けるべき批判的精神や品性を持たない体制順応型のインテリが大半を占めている。こういうわけで、学問を金儲けの役に立つか・立たないかだけで判断する風潮が幅をきかせており、世間にはインテリを軽蔑し、知的教養の意義を認めない反知性主義が跋扈するに至っている。
実際、インテリの代表格であると目される議員・弁護士・医師・社長・教師・教授・公務員といった職業の人物らによる汚職や隠蔽などのあこぎな行為がほぼ毎年報じられている現状では致し方ないのかもしれないが……。
(もっとも、これらの職種=インテリというのはあくまでイメージであり、本来なら理性などの内面部分もあわせて考慮されなければならない。)
このため、国内においては半ばブルジョワや高学歴の同義語ないし隣接概念として扱われている節が強く、その使用に大小の混乱をもたらしている。
(例として、後述のあさま山荘事件に際して実行犯の家族が説得に赴いた際に犯行グループ内で「お前の親はインテリだからよくしゃべるな。」という非難が交わされたといが、そのグループメンバーの多数が当時ではそれだけでエリート扱いであった大卒者ないし大学中退者であった。 なんというブーメラン……)
思想や宗教への傾倒
こうしたある種の混乱が加速した原因の一つは、戦後の冷戦期において本来なら世間からインテリと一目を置かれる存在であるハズの彼らの一部が示してしまったある種の無軌道さや人間としての無責任さや脆弱さが悪目立ちしてしまったことも無関係ではない。
第二次世界大戦での敗戦の後、戦時中での全体主義への傾倒を許してしまった反省もあり報道界や教育界を中心に我らインテリ階層たるものすべからずリベラルでなければならないといった風潮が支配するに至った。
しかし、この理論は(諸々の面倒臭い理論闘争の挙句に)いつの間にかリベラル=反体制・反米へとすり替わり、最後には半ば無条件での学生運動や安保闘争などの革命すら標榜したいわゆる新左翼運動への礼賛へと繋がってしまう。そして、それは当時の社会主義・共産主義諸国(以下、東側諸国)への共鳴にも転じ、これらの指導者であったチェ・ゲバラや毛沢東らへの信望だけでは飽き足らず、日本の旧植民地であった地域に対しての贖罪ムードへの誘導、さらには中立がモットーであるはずの報道関係者の一部には「いずれソ連が日本へと進駐してくるから彼らに気に入られるようにする」と放言していた人物すらいたという(『朝日新聞の大研究』ほか)。
もちろん全てのインテリがこうした風潮に染まっていたわけではないが、当時はインテリを標榜するうえで反体制反権威と左派運動への理解を示すことは一種の踏み絵でもあると同時にステータスでもあり、一部の大企業には「催涙弾の臭いを嗅いだことのない奴は採用しない」という雰囲気でさえあったという。(ちなみに、他の西側諸国もほぼ似たり寄ったりであった様子。)
だが、次第に求心力の低下という焦りもあり最終的に新左翼の多くは極左暴力集団というテロ集団へと変貌を遂げ、山岳ベース事件やあさま山荘事件、連続企業爆破事件といった数々の凶悪事件を起こした末に壊滅し、生き残りもクアラルンプール事件などを通じて海外へと脱出して国際テロ組織へと転じ、国内ではほぼ完全に信用を失った。
また、東側諸国も文化大革命等の諸政策の失敗やアフガニスタン戦争や中越戦争などの他国への一方的な侵攻が報じられるようになると東側=正義という図式が成立しなくなってしまう。そして、1989年においてマルタ会談における冷戦終結とその後の経済不振によるソ連崩壊、天安門事件での民主派弾圧、さらに2002年に北朝鮮が日本の民間人を拉致したことを認めたことによって、かつてインテリを標榜していた一部階層が唱えていた無条件での東側諸国の礼賛に大きな疑問符が付けられてしまう。
このため、報道界その他は次第に対応を迫られることになっている。評論家の岡田斗司夫は2014年に日本の旧植民地である韓国でおきた韓国フェリー転覆事故発生時に国内の各報道機関が比較的に中立的かつ辛辣な報道をしたことに触れた際にかつての報道姿勢との変貌ぶりから「ようやく日本もマトモな国になった。」と(かなり皮肉気に)評価した。
このような目に余る経緯を辿ったにもかかわらず、当時の関係者は自省の念を表明をする者は少数に留まり、多くは沈黙を保ったままか、あるいは中道左派(…とういう概念も漠然としたものだが)に鞍替えして平然と活動を継続しているケースも少なくない。
そして、ある意味で国内にもっともショックを与えたのがオウム真理教であろう。
地下鉄サリン事件などの凶悪犯罪を多数引き起こしたこの組織だが、内容の凄惨さと同時にその実行犯や幹部の多くが東大をはじめとする国立大や有名私大の出身者という絵にかいたようなインテリであったことは国民の多くが驚愕した。
なぜ理知的であるはずの彼らがカルトなどに……とは現在でもいわれることであるが、多くの特集で「知識を多く修めても自身の内面の補完まではできなかった」のが最大の原因ではないかと述べられている。
こうした名状し難い事情が積み重なった結果、マスコミなどの世間の主流派として活動していたインテリを標榜していた階層の品格に大きな不信感が持たれる結果となってしまっている。
「本当の」インテリは絶滅危惧種?
このように、20世紀末以降の日本では『論理的思考能力で社会を公平かつ正確に批評する』はずのインテリ層の一部がそれと真逆な態度で様々なトラブルを起こした反動からか、現在では『自称や世間でインテリと評されるからといって必ずしも精神的に成熟しているわけではない』という認識が持たれるに至ってしまっていて、世間における原義的な意味でのインテリはほとんど極少となってしまっている。
他方では、従来の肩書や役職などからのイメージが修正された訳でもないため、インテリというワードは現在でもさらに高学歴や物知りといったニュアンスが強まるなどマジックワード化が進行している状況にある。
事例として、『ネプリーグ』などのクイズ番組での東大インテリチームなどの使用例からインテリ=雑学家・うんちく魔といったイメージが流布しているなどある種の矮小化の傾向も見られる。
また、長年にわたり『笑点』で活躍していた落語家の桂歌丸や三遊亭円楽はインテリキャラで知られたが、彼らが鬼籍に入った際には各方面から「彼らのように世の中をウェットに風刺し批評する人物はもう現れないだろう。」という声が多数寄せられている。
関連タグ
インテリヤクザ →近年のマジックワード化が生んだ異形のキャラ付け。