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概要編集

フランシスコ・フランコ・バアモンデ/Francisco Franco Bahamonde(1892年12月4日~1975年11月20日)

スペイン軍人政治家スペイン内戦での勝利から37年にわたる独裁制を敷いた。

同じ独裁者としてポルトガルアントニオ・サラザール首相とは仲が良く、イベリア半島の独裁体制を相互に支援した。

「独裁者」とされるが、周囲の意見をよく聞いていた。


しかし、個人的独裁制であることは誰よりも理解しており、死後は政権の枠組みをそのままの形で何者かに継承することはあり得なかったため、最終的に王制に移行するべきだと考えていた。

議会制民主主義はスペインでは失敗を続けてきたので採用できず、王制が最良だとしていた。晩年の構想では形式上は王を擁きながら、腹心の部下であるルイス・カレーロ・ブランコに自身の体制を継がせようとしていたが、ブランコが暗殺されたため、この目論見は頓挫。死に際して王制復古のみが実現することになった。


略歴編集

誕生より編集

1892年12月4日、海軍基地のある港町エル・フェロルで生まれる。父も祖父も海軍の軍人であった。

1907年、トレド陸軍歩兵士官学校に入学。海軍に入りたかったが募集が中止されていた。卒業し少尉に任官。

1912年、スペイン領モロッコに着任。スペインに反抗的な現地兵たちを手懐けることに成功し、出世街道を歩む。

1926年、スペイン領モロッコから独立したリーフ共和国に対しフランス軍とともに攻撃を加え、再びスペイン領に併合する事に成功。

1931年、地方選挙で左派政党が政権を獲る事が確実となったため、アルフォンソ13世が退位しイタリアへ亡命第二共和政)。新政府も迷走を繰り返し、不満を持つ国民に共産主義ファシズムが浸透する。

1935年、アストゥリアス州での反乱を鎮圧し、陸軍参謀総長に昇進。


スペイン内戦編集

1936年、人民戦線が政権を獲得。フランコはカナリア諸島総督に左遷されるがスペイン領モロッコで反乱軍に加わる。フランコの義弟のラモン・セラーノ・スニェールが所属するファシスト政党ファランヘ党が後ろ盾となった。スペイン本土に渡るためドイツ軍イタリア軍に協力してもらい、ファシストに借りを作ってしまった。目覚ましい活躍をしたフランコは、反乱軍の総司令官(大元帥)と国家元首に指名された。ナチス・ドイツはフランコ派を支援するため、スペインにコンドル軍団を派遣する。

1937年、ファランヘ党に王党派その他の右派を糾合した統一ファランヘ党を結成し、党首に就いた。統一ファランヘ党による一党独裁が始まる。


第二次世界大戦編集

1939年、マドリードが陥落し、スペイン内戦はフランコ派の勝利に終わった。フランコはカウディーリョ総統)として独裁者となったが、各派の勢力均衡のため突出した勢力が出ないよう配慮した。第二次世界大戦が勃発し、スペイン内戦での恩義からフランコは枢軸国寄りだったが、内戦で国内が疲弊していたため中立を宣言し、日和見的な立場を貫いた。

1940年、フランスの敗北を見たフランコは中立から一歩枢軸国寄りに進んだ非交戦を宣言。セラーノが外相としてベルリン同盟締結のための交渉を開始するが、ドイツ側が舐めた態度を取り何の実も得られなかった。

1941年、(英米に睨まれないため)共産主義者ソ連)とのみ戦うことを条件にスペインからの義勇兵ドイツ国防軍に参加させる事とした。熱狂的なファシスト青年たちがこれに応募し、フランコはドイツに借りを返すとともに、過激思想の持主を国外に出すことに成功した。総勢18,104名が集まり、第250歩兵師団青師団)が編成された。

1942年、セラーノを更迭し、信頼のおける軍の先輩のフランシスコ・ゴメス・ホルダナを外相に就任させた。

1943年、イタリアが休戦するとフランコは親連合国であるバドリオ政権を承認し、枢軸国民にスペインの航空路を使用させない措置を執った。ドイツではフランコ政権を打倒する計画が建てられたが、実行する余力がなかった。英米から圧力により義勇兵をドイツ軍から引き揚げさせる。

1945年、マニラの戦いに巻き込まれてスペイン人200人以上が死亡し、フランコは日本に賠償を請求した。日本はこの請求を拒否しスペインと断交した。日本がポツダム宣言を受諾するとアメリカに対日戦勝の祝意を表したが、アメリカ側の態度は冷たく、マーシャル・プランの対象にならず、国際連合加盟も門前払いとなった。


第二次世界大戦後編集

1947年、「国家首長継承法」を制定し、スペインは「王国」、フランコが「王国の終身摂政」となることを決定。統一ファランヘ党内のファシスト勢力のパージが進む。

1948年、フアン・カルロス王子をスペインに呼んで帝王学を学ばせた。フランコはアルフォンソ13世の王位継承者であるバルセロナ伯フアン・デ・ボルボンを嫌い「俺の目が黒いうちは帰らせない!」と言っていたが、その子のフアン・カルロス王子は受け容れた。

1949年、冷戦が激化し、西側諸国もスペインを仲間に引き込む動きを見せるようになる。その一方、フランコはナチス高官やドイツ軍将官が、元スペインの植民地であった南米諸国に逃亡するのを支援していた。

1955年、スペインが国連に加盟。

1959年、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見し、アメリカのと関係が改善される。カタルーニャバスクの民族独立に強硬な態度を取り、バスク祖国と自由(ETA)のテロが活発化した。

1962年、腹心のルイス・カレーロ・ブランコが副首相に就任。以後、11年間副首相を務めた。

1969年、フアン・カルロス王子を後継者に指名。

1973年、カレーロ・ブランコに首相の座を譲ったが、就任半年にしてETAにより爆殺される。カレーロ・ブランコの死でスペインの政治的混迷が深まり、民主化勢力が拡大した。

1974年、フランコの入院に際し、フアン・カルロス王子が臨時国家元首に就任。

1975年11月20日、心不全で死去。晩年はパーキンソン病を患っていた。フアン・カルロス王子がフアン・カルロス1世としてスペイン王に即位するが、フランコの体制を受け継がず民主化を推し進めた。



死後編集

1977年、41年ぶりに総選挙が行われる。

1978年、新憲法が承認されてスペインは立憲君主制に移行した。

2018年、ペドロ・サンチェス・ペレス=カステホン首相は「戦没者の谷」から戦没者ではないフランコの墓を撤去することを表明し、2019年に棺が掘り出され、別の墓地へ移葬された。


関連タグ編集

スペイン 総統 独裁者 右翼 王党派 スペイン内戦


アレクサンドル・ルカシェンコベラルーシ共和国の初代大統領であり、欧州最後の独裁者と呼ばれている。ウクライナ侵攻の際における立ち位置が第二次世界大戦の際に日和見的な立場に類似していることから例えに出される事がある。

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