概要
1941年から1943年にかけて存在したドイツ国防軍陸軍のスペイン人義勇兵(少数はポルトガル人)で構成された「第250歩兵師団」の通称。「ブラウ(青)師団」。
「青」はスペインのファシスト政党「ファランヘ党」で使用されていた青色のシャツから。
スペインのフランシスコ・フランコ総統は枢軸国の支援を受けスペイン内戦(1936年~1939年)に勝利したため、ナチス・ドイツはその見返りとして枢軸国参加を求めていたが、疲弊し切ったスペインにその余力はなく、代わりに義勇兵を派遣する事でお茶を濁したのであった。
また、フランコはファランヘ党の支援を受けて権力の座に就いたものの、共産主義者同様に国内の安定をそこなう過激派としてファシストを危険視しており、自分の権力基盤が固まるまで彼らを国外に出しておきたいという思惑もあった。
義勇軍が募集されると熱狂的なファシスト青年が多数応募し、刑務所に共和派の親族がいる者達も処刑を防ぐために加わった。
総勢18,104名が集まり、師団を編成できる数であった。
(当時、ナチス・ドイツは「共産主義者と戦う」を売り文句に義勇兵を募っていたので他にも多数の外国人がドイツ軍に参加している)
ただし、米英を敵にまわすことも危険なため、「共産主義者(ソ連)とのみ戦う」という条件付きとなった。
この為、「青師団」は極寒の東部戦線で戦うこととなりレニングラード包囲戦などに参加した。
1943年、米英からスペインへの圧力により、師団の引き上げが命じられた。
だが、国籍を剥奪されても帰国を拒否した一部のスペイン人義勇兵部隊の名称として「青」が受け継がれ武装親衛隊に移管された。さらにその一部はベルリン攻防戦に参加しナチス・ドイツの崩壊を見届けている。
青師団参加者たちはその後のスペイン軍の中核をなし、1975年以降のフアン・カルロス1世による民主化に反発して1981年2月23日に軍事クーデターを起こした(23-F事件)。
議会の権限を縮小し、軍事独裁を復活する事を目的としていたが、国民からも王室からも支持を得られず失敗に終わり、彼らの権威は失墜する事となった。