概要
ポルトガルの政治家。1889年4月28日生まれ、1970年7月27日死去。
元々神父になろうと神学校で学んでいたが当時教会では腐敗が進んで居た為断念、コインブラ大学で法学を学び、さらに経済学の博士号を取る。
その才を買われ財務大臣に就任して経済再建に成功。
さらに総理大臣に就任、一時は大統領まで兼任するほどであった。
立場的には枢軸国寄りであったが、地理関係上でどちらかの陣営に定めれば本国が攻撃を受けてしまう事は必須だとみており、スペインと共に中立を選んだ。僅かな義勇兵部隊を枢軸国側に派遣していたが、ユダヤ人保護やアメリカへの亡命希望者の中継地となる事を認めていたため、連合国から敵視を受ける事もなく、第2次大戦の戦火を免れた。
ポルトガルは戦後でもサラザール体制は盤石だった。国内では秘密警察、情報検閲による統制に不満を持つ国民は増えており、たびたび民主化運動を引き起こしていたが、サラザールは意見表明すら行わずに要求を黙殺していた。当時の冷戦構造で西側諸国は反共の立場をとるサラザール政権には好意的だったため、体制の維持は続いた。
サラザールのエスタヴォ・ノヴォ体制は1970年代まで広大な領土の維持に成功した。
しかし、彼の施工したエスタヴォ・ノヴォ体制は脱植民地の時代に入っても領土維持に固執した。各植民地では独立運動や騒乱が多発し、次第に鎮圧の軍事費がポルトガル国家予算の約半分に及ぶなど財政を圧迫する。また、農業を重視し過ぎた為、ポルトガルの工業化は大きく遅れてしまい、諸外国と比較して国力は低下。西ヨーロッパの最貧国にまでなってしまう。
外交面は一定の成果を得た。特に同じイベリア半島の独裁者フランシスコ・フランコ総統とは良好な関係を維持。彼からは非常に高く評価されており、「私が知っている最も尊敬に値する最も完璧な政治家はサラザールだ。欠点はその慎み深さ」と絶賛されている。
冗談のような最期
晩年にサラザールは療養中に頭を打って昏睡状態になり、回復の見込みは薄いと診断され、首相を解任される。しかし、2ヶ月ほどでサラザールは意識を取り戻した。
意識を取り戻したと言ってもサラザールは身体麻痺や記憶障害の後遺症を残していた。もし、権力を失っていた事を知ったらショックで寿命を縮めるかもしれないと危惧した側近たちは執務室をそのままにし、偽の新聞や何の意味もない命令書を提供し続けた。彼もそのまま気づくことはなく「執務」を死ぬまで執るという、小説のような最期を迎えたとされた。
しかし、サラザールは自身が置かれている状況を正しく察していた様子であった。実際に亡くなる1ヶ月前、家政婦ドナ・マリアには「皆が私に政治の話をしなくなったね。私は残酷に追い出されたんだ」と語り出した。驚いたドナは「大統領を問い詰めないのですか?」と聞くが、「何も言わないよ。権力に愛着はないし、あると思われたくない。だが、病気を口実にする事はよくない。仕事をそんな風に処理してはいけないよ」と語った。
その後、1970年7月27日、サン・ペントの自宅で肺塞栓症により主治医と家政婦に看取られながら静かに息を引き取った。享年81歳。
サラザールの死から間もなくの1974年にポルトガルは「カーネーション革命」を経て、既に行き詰っていた体制は終わった。
慎み深いカトリックであった事から他の独裁者のような自己崇拝には全く関心がなく、そればかりか私生活は生きてる間はほとんど明かされていなかった。サラザールは生涯、独身で家庭をもつことは無く、女性と交際したことは何度もあったが、いずれも長続きしなかったという。
関連項目
サラザール・スリザリン:一部ファンから名前のモデルではないかと言われている。