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概要編集

スペイン北東部に位置する地区、地域

州都、中心都市はバルセロナ

首都マドリード中心とした中央カスティーリャ)には対抗心があり、独自の民族意識、文化尊重し、独立機運がある。


地理編集

スペイン北東部のピレネー山脈の麓、エブロ川下流部と地中海沿岸部を中心とした一帯を指す。地中海気候ではあるが、スペインの中では比較的雨も多く、自作農なども早くから発展した。また、歴史的には早くにレコンキスタが進展した北部と、やや遅れた南部に別れる。


なお、かなり厳密に言えば、フランス最南端にあたるルシヨン地域も歴史的にはカタルーニャにあたる。


歴史編集

ローマ帝国の時代、ヒスパニアのうちこの地域はタラコネンシス属州に属する早くから開けた地域の一つであった。実際、中心都市バルセロナの地名由来説にも、かのハンニバルの名字「バルカ」に由来するというものがある。


ローマ帝国の崩壊後は主にヒスパニアから南ガリアにかけて勢力を気づいた西ゴート王国の支配下に入るが、8世紀、その西ゴート王国がイスラームの大征服によって滅亡する。

これによって対応を迫られたフランク王国はトゥール・ポワティエの戦いでどうにかそれ以上の征服を食い止めるも、ヒスパニアはイスラームの勢力下に入り、またその後もしばしば戦いとなった(「ローランの歌」はこのカール大帝の戦いに題材をとる)。


しかし、カール大帝はその治世になんとかピレネー山脈の両側を確保し、ここに諸侯や在地の有力者を配置して備えさせた。これがカスティーリャやカタルーニャの共通の先祖となる「スペイン辺境伯領」である。

かくして9世紀が始まる頃には、エブロ川の北、バルセロナを含む一帯まではフランク王国由来の諸侯の支配下となる。さらにフランク王国の大分裂の後、980年代にはバルセロナ伯が事実上自立した。これを持ってカタルーニャ君主国の始まりとする。


地中海に面したバルセロナは早くから地中海有数の港町として発展した。また、エブロ川上流を押さえるアラゴン王国とカタルーニャ君主国の関係は当初から緊密で、結果、12世紀前半には両国は同君連合を組みアラゴン連合王国を成立させる。東方イタリアのシチリアとナポリの王位や、海上の要衝バレアレス、南の豊かなバレンシアを組み入れたアラゴンの中核として、カタルーニャは繁栄した。

この結果、アラゴンは西のカスティーリャとならんでスペインの二大国と認識されるようになり、いわゆるカトリック両王ことカスティーリャ女王イサベルとアラゴン王アルフォンソの婚姻によるスペイン王国成立の際も、アラゴンを構成するカタルーニャなどの国々の地位や特権は維持された。


しかしながら、同君連合とはいえその後のスペイン黄金時代において政治の中心がカスティーリャのマドリードに集中したこと、また地中海貿易に対して新たな大西洋貿易の台頭によるバルセロナの相対的衰退は否めず、カタルーニャはフランスの介入もあって何回か反乱を繰り返す。そしてついに17世紀末のスペイン継承戦争において、カタルーニャをはじめとして最終的な勝者であるブルボン家のフェリペ王に反対したスペイン諸王国の特権はマドリードの中央政府に回収される形で取り上げられ、ここに一旦カタルーニャの自治は失われた。


ところが、この後カタルーニャはスペインの中では例外的に自作農が多く自律的な都市も育っていたことなどがあり、19世紀には産業革命が進展してスペインでもっとも豊かな地域の一つとなってしまう。この中でカタルーニャ語や文化の復興運動が20世紀にかけて進展した。アントニオ・ガウディによる聖家族教会などはその一例である。

不安定なスペインは20世紀に至るまで継続し、またカタルーニャは基本的には地方自治および共和主義的な政治風土のためにマドリードの中央政府とは度々対立。

その果てにはスペイン内戦において共和国がわの最後の牙城ともなった。


しかし、内戦でフランコ率いる独裁派が勝利したことにより、カタルーニャはまたもや自治を取り上げられ、さらにはカタルーニャ語使用にも強い制限がかけられる。

ようやくフランコの死と民主化の進展で、カタルーニャは改めて自治政府をもち、またカタルーニャ語の使用も解禁され、現代でもスペイン有数の経済圏としての地位を保つ。


――しかし、以上のような中央政府に自治や言語、文化を何回も圧迫された歴史もあり、カタルーニャには現代に至るまで、スペインからの独立を志向する人々もかなり多い。


独立したい理由編集

元々、カタルーニャは豊かな場所であり、貧しいスペインの中では裕福な地域だった。

しかし、EU問題でスペインが債務問題を起こし、加えて通貨ユーロの問題から独立して独自の通貨を使用しながら新しい国づくりを行う事を模索している。


元々、レコンキスタの過程でカタルーニャ王家が断絶しカスティーリヤ王家と統合せざるを得なかったことに端を喫するカスティーリヤとの対立は現代まで尾を引いている。


スペイン共和制時代には、再三に渡る共和国の混乱に乗じて当時の自治州代表リュイス・クンパニィス(リュイス・クンパンチ)率いるカタルーニャ共和国の独立を宣言したこともある。しかし中央政府は、共和国側と激しく対立するフランコ総統勢力は元より、クンパニィスが属した共和国政府側もその独立を認めなかった。

そしてスペイン内戦がフランコの勝利に終わると、国家反逆の罪でクンパニィスは軍事裁判にかけられ即日処刑された。欧州の地方首長が在職中に死刑となったのは彼が唯一の例とされる。

以後、70年に渡り独立の火は燻りこそすれ、長いフランコの抑圧時代と、その後の融和時代の間明確に表れることはなかった…が、近年になってその運動は激しさを増しつつある。


余談であるが、スコットランド以外の欧州各国(地域)の独立問題は、ユーロ絡みが多いとされ、カタルーニャもそれが独立希望の一因となっている。


しかし欧州連合はカタルーニャを独立国と認めたくない傾向が強く、更に国連もカタルーニャ独立を認めていない。

そうした中で中央政府が独立派に暴力を振るう事件も相次いでいる。

尚、欧州連合がカタルーニャ独立を認めないのは認めてしまうとEUやユーロの影響が弱体化し、EU崩壊が到来する事を恐れるのが原因である。(つまり、EUの利権を守りたいだけ…。)


独立関連動画編集


関連項目編集

バスク ポルトガル EU離脱 ユーロ EU崩壊


クレヨンしんちゃん カタルーニャ独立のシンボルにされているイラストがかなり早くから存在する。ソース

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