レーニン
れーにん
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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語:Владимир Ильич Ленин、ラテン文字表記:Vladimir Ilyich Lenin、本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ、1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。初代ソビエト連邦最高指導者。1917年11月にロシア革命を成功に終わらせた後、第2回全ロシア・ソビエト会議を開催して主導権を掌握し、ソビエト政権の樹立を宣言した。同月に最高指導者となり、1924年1月に死去するまでその地位にあった。
ここでは軌跡を一通り紹介したいと思う。
- ウラジーミル・レーニン*概要
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語:Владимир Ильич Ленин、英語:Vladimir Lenin、本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ、Владимир Ильич Ульянов、1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。「レーニン」はペンネームであり、優れた演説でロシア国内の革命勢力を纏め上げ、1917年11月に発生したロシア革命で主導的な役割を果たした。同月にソビエト・ロシアを成立させ、1924年1月に死去するまで最高指導者であった。
一方で科学的社会主義理論の研究と普及に尽力し、『帝国主義論』・『国家と革命』などの著作は大きな影響力を持った。後日レーニンの思想はスターリン一派の主導により、マルクス・レーニン主義という体系に纏められた一方で、共産主義が腐敗する基礎を作った人物である。大衆が消費財の不足で貧困に喘いでいる中でも、自分を含めた最高幹部の別荘地への鉄道の開通を命じさせる・愛人に便宜を図ったりと、お世辞にも公明正大とは言えない行いをしていたとされる。
スターリンの粛清が形式的にでも裁判は執行していたのに対し、レーニンは「富農を少なくとも100人を大衆の目の前で絞首刑にしろ。」・「教会の財産没収に反対する聖職者とブルジョワの銃殺者は多ければ多いほど良い。」という発言からも分かる通り、ざっくりとした人数を裁判も無しに殺害していた。レーニン自身は機密文書・暗号で指示しているのみで、公には粛清を行っていない素振りを見せつつ、秘密警察の『チェーカー』(後のKGB)に生殺与奪の権限を与え、部下の独断専行という形を取って大量虐殺を可能としていた。